【朝雲暮雨03/転じる】
小刀で枝を削り、火口の準備をしながらテンヌがため息交じりにつぶやく。
彼女は戸口の外に眼をやり、ゆるやかでとめどない雨を眺めた。
「しと、しと。木も土もしとどに濡れて……これでは熾る火も熾きぬな」
背中合わせに、シズハは黙して得物に砥石を当てていた。
雲の厚みは増し、まだ夕方なのに宵の口のような空だ。
テンヌとシズハはひとつ屋根の下、廃屋同然だった山小屋の中にいた。
***
時は前後して。
ふたりは山小屋を生存の糸口と当てこんだ。戸口をふさぐ棚をどうにか押し崩し、通れるだけの隙間を作った。
小屋の内部の荒廃は、外から見えるよりはマシであった。蟲の巣箱と化しているだとかほこりとカビの混合物が培養されているだとかいうありさまではない。雨漏りの痕跡もなく、十年近く内外が断絶されていたかのようだ。
逆に言えば天変地異の大振動からだれひとり整備していないわけであり、古びた工具や道具が無秩序に散らばり、皿や瓶の破片と入り混じっている。かつて食糧であった物体もところどころで存在感を示していた。
住環境というだけでなく、半ば倉庫としての役割も大きかったのだろう。中には柄の長いショベルなどもある。
その頃にはすでに、テンヌが雨の匂いを強く感じ取っていた。
ふたりは屋根の下に身を寄せるべきだと判断する。
「こんな時じゃなかったら戸口をくぐることさえためらうけど……この期に及んで雨空の下で一晩過ごすよりマシかな」
物言わぬ家主と対面せずに済んだのは幸いだった。
追い出すのは心苦しかっただろうし、ふっつり黙して居座られては雨宿りのひとつもはばかられる。
テンヌが折ってきた枝を箒代わりにして足の踏み場を作ることに始まり、シズハが工具と道具の類をひとまとめにしてどうにか場の整理をした。
ベッドも備わっていたが、毛布やマットは古い汚れが酸化しきっていた。その赤茶けた布地に顔をうずめるよりは、いっそ土の上に身を横たえる方が休まるとさえ思える。それらを引きずり下ろし、床に敷く。除去しきれない破片から足を守る程度にはなった。
「やれやれ。もはや働きづめを嘆く気にもならぬ」
テンヌがベッドの木枠に腰を落ち着けた隣で、シズハは小屋にあった物品を並べ、見つめていた。
ショベル、ツルハシ、ロープ、小刀、鉄鍋、砥石、その他……
あの血みどろヤギを狩るにあたって、頼れる道具が蛮刀ひとつという状況から好転した。
しかし問題はまだある。如何にして、致死の傷を与えるかだ。
弓矢の類は見当たらず、身ひとつで肉薄せねばならない危険は依然としてなくなっていない。危険とはつまり不確実性である。
体格という絶対的な不利を覆すなにかがないかとシズハは考える。
「……ねえテンヌ、北蛮式の罠ってなにか作れない?」
「うぅむ、構造はわかるがこのありもので作るというのは……捕らえられた獲物の止め刺しはすれど、設置の方策までは手掛けたことがない」
「下っ端のひとの仕事だったってこと?」
「否。罠自体は数ある手のひとつ。そこに上下はない。しかしわたしは……見つけさえすれば槍を打つ方が速いからの」
「蛮じゃん」
「いずれにせよ、あの巨体を留めるとあらば、文字通りに一筋縄ではいくまい。わたしの見知った規模では足りぬな」
実現性のある答えは返ってこないと予測しつつも、シズハは続けて訊く。
「例えば君が万全なとき。ひとりかふたりであの血みどろヤギを狩るなら、どうする?」
「槍投げ一撃で獲りそこなった場合か。ひとりが陽動となり、袋小路に追い詰めることじゃな。水場や高所では取り逃しがあっていかん。この地であれば……例の枯れ沢の滝跡か」
「追い詰める側じゃなくって! もっとこう、急に攻撃を受けたり……」
「やつに限って言えば、臭気で近づいてくるのが分かる。そして向かってくれば……」
と、テンヌは片手で角を握り、もう片手で目を突く動作をした。
「蛮の中の蛮じゃん」
「当然じゃ。頭領である」
テンヌは腕組みをして背を反らす。
今更ながらシズハは、彼女が現状を耐え忍ぶことを選ぶ理由が分かる気がした。祝福さえ戻れば、もはや不確実性は逃げられることのみ。博打でも戦いでもなくなるのだ。
「滝の跡……僕があの高さから飛び降りる勢いで蛮刀を突き刺したとしたら、致命傷を与えられないだろうか?」
「あばらの間を捉えて心の臓に刃が届かせるか、あるいは角と生首を避けて頸を断てるかという話になるな。ぶっつけでやれるか?」
「……正直に言って、分が悪いかも。腕の力だけで刃を通すよりは、と思ったけど」
「やつならば身ひとつで簡単にこちらを押しつぶすことはできようが、逆はないからのう」
その時。シズハの脳裏に浮かんだ考えが、そのまま口をついて出た。
「逆に――できたとしたら?」
***
シズハの思い付きは、意見を戦わせるうちにテンヌが納得するに足る『方策』と成った。決行に当たってはなかば強引に説得した部分もあるが。
話がついたころ、ふたりは降りしきる雨音に気づく。屋根の下から手のひらを出してみれば、雨粒は小さくも冷たい。
ふたりは作戦実現のため、道具の加工と火熾しに時間を費やすこととなった。必要となるは、火と致命の武器……そのためである。
湿潤な空気の中では火熾しがうまくいかず。したがって夜の闇では手元の作業がおぼつかなくなり。
シズハとテンヌは互いの熱を頼りに一夜を過ごした。
そうして四日目――
日差しにあかね差す夕空の下、漂着した浜辺にて。
シズハはひとり、血みどろヤギの背中を補足していた。
先日の夜と同じく、海水をがぶがぶと飲んでいる。ヤギが顔をあげると口の端から小さな魚がこぼれかけたが、瞬間に顎でとらえられ、また飲み込まれる。
目のあたりにすると、なおこの血みどろヤギの異様さが見える光景だった。瞬間的な動きの速さは肉食獣のようである。まさしく怪なる獣。
少年は腰に差した抜き身の蛮刀を指でなぞり、決意を声にする。
「作戦開始――」




