【朝雲暮雨02/曇り空の下】
泉へ戻り、水を飲んだ。いつの間にかカラカラになっていた喉を清水が癒していく。
顔を洗ったテンヌは、しずくを振り払うと羽織のたもとで顔をぬぐった。
朝の空気は冷たく、曇り空の下では昨日のように水気が乾くという様子がない。
腰を落ち着けて、やっとシズハをまっすぐに見る。
顔を洗いはしたが、まだ目は赤い。表情は平常を取り戻し……むしろ、どこか前にもまして腹の据わった顔つきだった。
「ふぅむ……ま、血肉のことはさておき。真にどうしようもなくなれば思い出してやるとしよう。おぬしの腹のことをな」
「うん……ん?」
ふと、シズハは引っかかりを覚える。
いやむしろ、引っかかりがなさすぎる。
「あれ。ちょっとまって」
「なにか?」
シズハは喉が引きつるのを感じながら、おずおずと訊いた。
「いや……自分で言っておいてヘンなんだけど……エリオンが僕のお腹にって、驚かないの?」
「知っておったわ。とっくのとうに」
まったくあっけらかんとした返答だった。
「なんで!?」
「さて、なぜかのう?」
血色の残る目を細め、彼女は口もとを拳で抑えて笑う。
「まさか飲み込むところも見て!? ……いや違う」
それはあり得ない。飲み込んだのは、テンヌと出会った風呂屋とはいくつもはなれた路地だった。
どうにもわからず、シズハはおずおずと訊く。
「お、お腹がひんやりしてたから?」
テンヌは抑えきれなくなり、大声で笑いだした。
「ねえ、そんなに笑うことないだろ!」
ただただ戸惑うシズハを前にして、ひとしきり笑い、疲れ、やっとのことで息を整えて言う。
「クオーレが教えてくれたわ。腹に一物抱えていると」
「あ……そうか!」
無道丸で私室をあてがわれた直後、ベッドに横になって女医クオーレの診察を受けた。
悲しいほどに場数を踏んだ彼女であれば、軽く触診した程度で胃の中の異物は察知できたのだ。
そして、シズハのおかれた状況からみて、その異物の正体とは……
「身体検査のためにあのひとを?」
「いや、一度本気で蹴ったものだから。そこはほら、心配にもなる」
(よくよく考えたらあの時に吐きもどさなくて奇跡だったな……)
「そもそものう。船に乗るときも回収せねばならんという話をしなかったであろう。よりどころのない船内で、秘宝を隠すことや盗まれることにびくつく様子がないのだから、肌身離さずもっていることは知れていよう?」
「ああ、そうだ……それはもう」
ずいぶんと観察し、振る舞いを読み解かれていたものだ。参りました、とお手上げをしたいくらいだ。船員の力もあれど、知恵比べでも一歩先を行かれていたのだからたまらない。本気で略奪するつもりであれば、とっくに吐かされていた。
テンヌは興味津々に訊く。
「して、どのように腹の中に抑え込んでおる?」
「どのようにって……?」
「胃の腑からはらわたへ落ち込まぬようになにか留めておく術があるのであろう? 強い繊維でも使ったか? 獣の内臓か?」
シズハは言いよどんだが、隠すものでもないと思い、明かした。
「いや……なんとなく、留まってる」
「ほ?」
「あの場をやり過ごしたらすぐ吐き出すつもりだったけど、無道丸に迎えられてからその機会がなくて、でもお腹が冷たいままだし、なんか大丈夫そうってことで……今に至ります」
テンヌは期待が外れ、ちょっとあきれた顔だ。
「なんぞ場当たり的じゃな……」
「そりゃ場当たりさ。君んとこの子分にさんざ追い回されたんだもん」
そして今更に思い出す。
「そうだ……今思えば、追っかけてきてたのってロウギとエイラだ」
「減俸しておくか」
「理不尽!」
と、そこで。水を飲んで刺激を受けた空っぽの胃袋が、悲鳴をあげた。ふたりともだ。
テンヌはため息をつく。
「何をするにも腹ごしらえじゃな。いまやつを狩ろうとしたとて、毛の一本も毟れぬ」
ふたりは獣の気配に深く注意しながら、またも森へと向かった。
しかし充分に眠れていない疲労と、テンヌの足の傷のため、昨日と比べると歩調は確実に鈍っていた。
曇り空のために太陽の方角が判然せず、歩いた道のりを慎重に覚えておかねばならないためでもある。
きのう木の実集めにいそしんだ一帯には、手っ取り早い成果物がなかった。そこからもうすこし山の奥へと足を伸ばしたところ、果実がちらほらと見える木々に行き当たった。
ふたりで協力してどうにか食料を集めては食べる。その作業に昨日のような楽しさはもうない。食事が喉を通っても、満たされなさはなお切実になる。穀類も肉類もずいぶん食べていないのだ。野生動物の気分である。
同時に、ふたりは目の当たりにする。巨大な獣の痕跡を。
よく実った背が高い木の周りに、無数の蹄のあとがあるのだ。
加えて近くに獣の糞もある。ころころとした草食性のもので、細かい種が内容物として無数にはいっている。
「落とし主が誰かは、もはや疑うべくもない……のう」
「自然に落ちた果実を食べて、味をしめていたのか……まさか、木の実を取るところから察知されてた?」
「そこまでは判断できまい。あの巨体、あの臭気、見える位置にまで近づけば気づくであろう」
戻るか進むかと明確には決めていなかったが、ふたりは足早にもと来た道を戻る。持ち帰れるほどの食料は集まらなかった。
あの血みどろの巨体が近づいてくれば、冠たる生首から放たれる臭気で気配はわかる。必要以上にびくつくことはない……と、自分たちの胸に言い聞かせて。
気を紛らわせようと、シズハは訊く。
「ねえ、テンヌ……結局あのヤギを狩ることには協力してくれる……の、かな」
「……あの獣を討つことに、真に覚悟を決めているのはわかった。目下、ほかに道がないという理路も頷こう」
彼女は一度言葉を切り、きっぱりと言う。
「しかし、まだ保留じゃ」
「保留って言っても、今の僕らに先伸ばしの余裕なんて……」
「余裕がなくとも、やつの息の根を止めうる一手がなくては。いかに覚悟していようと認められない」
シズハは思わずつぶやく。
「……もうすこし、蛮勇に乗り気かと」
テンヌは眉根を寄せた。
「船員たちを見てそう思ったか? ……やつらを乗っける無道丸を成り立たせるのに、副長とふたりでどれほど準備を積み重ね、骨を折ったと思っておる。いくら勇ましい船出をしたがろうと、穴の開いた小舟だとわかって背を押せるものか」
シズハはあの晩、酔ったロウギが言っていたことを思い出す。船員たちはもともと土地の落ちこぼればかりだったと。彼らに飯を食わせ、統率し、船乗りとして成り立つようにしたその労力、途方もない重みだ。
だがテンヌ自身は、航海術については副長の力が大きいとも言っていた。
(北蛮の身の上に対して踏み入った話を聞いたことはなかったけど……あの副長のテンヌに対するふるまいは、忠義でもなければ傭兵的とも違う。なんとなく奇妙な距離感だった)
ふたりは大過なく歩みを進め、何かに使えそうな枝などを時折拾い集めていた。シズハはやがて口を開く。
「あの……ちょっと思いついたことなんだけど」
「む? なんじゃ。罠の作戦でも?」
「そうじゃなくってさ……副長ってどういう人なの? もしかして君と、縁戚の人? 実はお兄さんとか?」
「ちッ……!」
一瞬、テンヌはひどい顔で舌打ちをした。同時に、手にしていた一本の細い枝が音を立てて握りつぶされる。
これまで見せたことのない、本気で不愉快そうな顔である。
シズハは目を丸くした。そこまで拒否感を示されるとは思っていなかったからだ。
テンヌは枝を捨て、慌てて取り繕う。
「あー、いや……なんと言おうかの……あやつのことを今論じる必要はあろうか? 狩りにせよ生存にせよ、寄与するものか?」
ぼんやり思い出した程度の疑問だったが、思わぬ方向に話が向かったのを感じた。
「いや……そろそろ三日経つからさ。あの人が船を率いて助けに来る可能性がないかなって、ちょっと思ったんだ」
「動くか否かで言えば、動き出していよう。しかしこの断島を探し当てるとまでは、いささか厳しかろう」
「彼を侮辱するつもりはなくて、単に可能性として聞きたいんだけど……裏切られることって?」
「見捨てられることが決してない! とまでは言わない。しかし……」
シズハが首をかしげると、テンヌは言葉を続けた。
「あやつが担ぐ旗印はふたつとない。わたし……というよりも、このわし『北蛮海賊団頭領テンヌ』以外はな」
間違いのない、ゆるぎない決定事項を話しているのだとシズハは感じ取った。
言葉だけとらえれば、忠義の篤い部下に対する言葉のようだ。
しかし、話すテンヌの顔には、舌打ちの時のあの不快さがにじんでいた。
(ますますわからない……)
もやもやとしたものを抱えているのを見かねてテンヌはシズハの尻をぱしんと威勢よく叩いた。
「シズハ! そら、あの古ぼけた山小屋に向かうぞ。二度手間になったが、今度こそ生存の助けになるものを探しあてねばなるまい!」




