【朝雲暮雨01/論戦】
「やつを食う……と?」
「うん。それしかない」
シズハは立ち上がり、食い散らかされた果実の無惨な跡をにらんだ。
「あの調子で襲ってこられたら、身が持たない。めぼしい食べ物はやつにほとんど食べつくされている。恐らくは動物たちも含めて。このままだと僕らは追い回されて衰弱して死ぬ。いや、衰弱で死ねたら、まだいいか……とにかく『外敵の排除』『食料の確保』ふたつを一度に叶える一手が、あのバケモノを狩ることだ」
テンヌは足の傷を包帯ごしにさすりながら聞いていたが、やがてきっぱりと言う。
「……他の手を考えるべきだな」
「他の手だって? 何が考えられる?」
彼女は、重たい雲の下にそびえる山を仰いだ。
「まだ島中を探索し尽くしたわけでもない。山の方にでもやつの踏み込めない地があれば、そこに腰を据えられるかもしれぬ。そうなれば、まだ食糧となりうるものも……」
「この水源から離れる危険の方が大きいと、僕は思う。それにヤギは、高山に適応する生き物だ。断崖に蹄をかけて上ることだってできる。あの巨体といえども、山において僕らの方が有利だとは考えにくい」
「……わかった。ではもうひとつ言おう。逆に逃げの一手でこの島から脱出するというのはどうか?」
シズハはすこし考え、指折り数えて話しだす。
「銀海流に乗っていけるような筏を作ろうとすると、大仕事だ。ふたり分の身体を預ける広さと、銀海流のうねりにも負けない強度が要る。それだけのものを作るには、材料集めと組み立てに何日もかかる。その間にも、いつ襲いに来るかわからないし、体力を維持し続けられるかもわからない……船の事だ、君だってわかるでしょ?」
「うむ……」
「仮に何事もなく筏ができて、且つ海へ漕ぎ出す数日分の食料を集められた、そこまでうまくいったとする。でも水を保存して持ち出せない今のままでは、一昼夜もすれば僕らは日干しだ。無道丸か……あるいはどこかの船に拾ってもらえる見込みもない」
頷くテンヌに、シズハは力を込めて言う。
「やつを狩る。そうすれば向こう数日分は糧を得られる。命脅かす外敵もいなくなる……だろう?」
テンヌはしばし頭を悩ませていたが、やがてため息交じりに言う。
「おぬしのその意見、申し分ない。見立てが正しいと認める。しかしそのうえで、現状でやつを狩るのには反対する。草の根を食ってでも、いまは耐える時だ」
「耐えるって? そうは言っても……」
「果実がどこにどれほどあるかを、我々は見通してはいない。それに例の山小屋をもう少し本腰入れて漁れば、水の容器もあるかもしれぬ。工具や縄の類もな……というか、わたしの体力さえ戻れば、あのヤギめを冷凍保存の枝肉に仕立ててやろうではないか。今しばらく待たぬか」
シズハは首を振った。
「テンヌ……君はすこし痩せた。きっと昨日の朝よりも」
「……そうか?」
「もしも昨晩みたいに眠る間もない夜が、明日明後日と続いて、それでも元気を取り戻せる?」
テンヌは口を結んでわずかにうつむき、できるともできないとも言わなかった。
それまでに増して、努めて穏やかに尋ねる。
「君たちの故国は狩猟が盛んだったって聞いた。意見を詳しく聞きたい。なにが狩りの障壁になりうる?」
ぴくりと彼女の片方の眉が上がった。弾かれたように岩から立ち上がる。鎖を解かれた猛犬の勢いだ。
「なァ~にが障壁じゃと? 障壁しかないわ!」
声音こそ違うが、すっかり頭領のときのなまりである。
「そ、そんなに……」
「問われたとあらば言わずにおれぬわ! いいか、よく聞け! そもそもあのヤギ自体が、定命の生命体かも定かでない奇怪な獣、それこそ怪獣と呼べる異常な輩じゃ! そして!」
人差し指を立ててシズハの目前に突き立てた。
「ひとつ! あの血みどろの巨体の激突を食らうことなく、足に踏みつぶされることなく、あの歯に指を食いちぎられることもなく、間合いを詰められるか?」
二本目の指が立つ。
「ふたつ! 今の我らの疲れ果てた腕で、あの毛並みと厚い皮と、脂肪と筋骨とを突き通して……『頸の血脈』か『心の臓』を貫けるか?」
三本目の指が立つ。
「みっつ! 血が流れて果てて息絶えるまで、あの巨体ではどれほどかかるかわからぬ。その間、死の物狂いで追いすがり襲い来る獣から命を守り抜けるか?」
ずびっ! と三本の指がシズハの額をついた。
「あの腐臭ただよう生首を前に平常な心持ちで戦えるか? 腕を回せるかも怪しいあの太い首に対し、正確に大きな血脈を切れるか? 腹の下に潜り込んで心の臓を突いたとして、そこから押しつぶされずに生きて帰れるか?」
のけぞるシズハに、トドメとばかりに言う。
「さて、怪獣相手にいかにしてそれを為す? 言ってみよ、筋道立てて具体的な方策をのう!」
今度はシズハが言葉に詰まる番だった。
「……蛮刀ひとつさえ貸してくれたら……命がけでやるよ。一晩近く、逃げ回ったんだ。森でならば、やつが動ける範囲の限界はおよそ見えてるから……」
「はぁん? 具体的に言えておらぬなあ? 罠なり槍なり投げ縄なりともうすこし腹案があるかと思えば、いきあたりばったりとは鼻で笑うわ!」
シズハはがっくりうなだれた。いつの間にか正座して、言葉を頭上から受け止めている。
怒りの冷めやらぬテンヌは、なおも言葉を続けた。
「それにしても命懸けなどと……ふん! 軽々に言ってくれるのうシズハよ! 誇りと心意気を真に買ったがゆえ、役目を果たす助けに成ろうとしておるというのに、当の本人が命を天秤にかけると申すか! あんな獣を相手に!」
「確かに、まったくもって考えは足りてなかった。認めます……でも、僕はひとりでだってやる」
「なに?」
「だって、今を生きるための救いに、それ以上のものは考えられない」
シズハはまっすぐに立ち上がり、テンヌの眼を見つめた。
「この身を粗末に扱う気はない。しかしいくら大切に扱おうと、死を賭して危険を冒さねばならない瞬間はある! いまは賭ける時だ!」
己の腹を親指でさした。
「僕は必ず狩って見せる。そして君が生きてさえいてくれたら……約束は果たされうる。もし僕の命がなくとも、この腹を裂いてエリオンを取り出してくれたらいい。君がヤギを食べて、それでも足りないならいっそ僕の血肉さえ糧にしてくれていい。そうしてでも生きていてほしい。そのうえでエリオンをアウレーの地に届けてくれたら……」
そこまで必死に言ったシズハは、気づいた。
テンヌの眼の端に、光るものがにじんでいる。藤色の瞳のまわりが、真っ赤だった。
「たわけたことを……妹を独りにしてこんなところで死ぬなど……許さぬ……」
彼女は不意に、背を向けた。光る粒が振り落とされるのを、シズハの眼は確かに見た。
今更になって罪悪感が腹の底からやってくる。
命を賭しても、妹のために成すべきを成したい。同時にテンヌを死なせたくない。たとえこの命を、文字通り捧げても……嘘偽りのない言葉だ。
しかし意志を貫こうとするあまり、言いすぎた。。後悔が、じわりとやってくる。
なにより彼女が、『妹』のことを慮っていたことを、シズハは痛切なものとして受け止めた。
「ごめん。言わなくていいことまで言った。でも僕が言いたかったのは……」
「聞きたくない!」
「お願いだ、聞いて!」
白髪の背中へ、すがるように言う。
「僕は……君に生きててほしい……本当に、それだけなんだ……」
この死の島において、テンヌの命が救われるための方法……それこそ、あの怪獣を討って糧とすること。シズハに出来る最大がそれなのだ。
しばらくの間……テンヌは拳を固く握り、背を向けたままでいた。
しかし不意に、彼女は拳をほどき、顔をそむけたままシズハの手首を握った。
「喋りすぎて喉が渇いた。ついて参れ」




