【泉04/反攻の一念】
『ヴェェェエエエエエ!』
血みどろヤギの太い首から、ガラガラと濁った叫び声が放たれる。断島全体に響いたかとも思うほどだ。
シズハは思わず、手にしていた焚き木を突き出すように身構えた。その叫びから、獣の意志を鋭敏に感じ取ったのだ。
「飢え」「敵意」「歓喜」「辛苦」……それらが渾然一体となっている。そして視線の向かう先は、間違いなくこちらだ。
(穏便にすむことは……まず、ないな!)
夕闇の時であり、まだ真夜中ではない。これほどの蛮声が響けば、周囲では鳥が飛びたつだとか、獣が驚くといった反応があるはずだと思えた。
だがそれはない。まわりにいっさいの気配もない。この血みどろのヤギの咆哮が、ただ虚空に通り過ぎていっただけだった。
思えばこの数日、食物探しに明け暮れてきたが動物の痕跡をほとんど見なかった。
この断島は死の島だ。そしてその主は、目の前の獣なのだ。
シズハは悟る。
(絶海の孤島になって十年以上。きっと元来、資源に乏しい地なんだ。そこで生まれたコイツは……どうしてか、こんな牛にもまさる巨体へと育ってしまった。さすれば必要とする食料もおびただしい。そして飢えにあえいで、本来の食性さえ超えた貪食へ至った……)
「木の実は惜しいが……やつから目をそらさず、ゆっくりと退がる。よいな?」
テンヌのささやきにシズハはうなずき、足を一歩後ろに引いた。手を伸ばしかけていた果物籠から遠ざかる。
その一歩を見咎めるように、血みどろヤギは前足を一歩踏み込んできた。頭上の腐敗った生首が揺れて、死臭がふりまかれる。
テンヌはいつのまにか、導くようにシズハの手を握りしめている。その手触りから、彼はふたりの認識が共通していることを感じ取った。
(今戦って勝利の道はあるか? ――否!)
この血みどろヤギと、まともに争えばおしまいだ、との認識である。光のある中で相対し、それを明白なものとして目の当たりにしたのだ。
牛よりもでかい獣とは、素手の人間では文字通り手に負えないのだ。獣の骨肉はそれだけ優れている。人よりも体格の小さなイノシシでさえ、相応の装備がなければ死の天秤は人間に傾く。
もっとも、常人とは領域の異なる祝福持ち……つまりはテンヌが万全であれば別だが。
みすみす逃げられるとは思っていなかったが、ふたりが後ずさるほどに、ヤギは一歩また一歩と迫ってくる。もはや捕食者側の仕草である。
死臭と獣臭の混ざり合ったもうもうとした空気が、シズハたちにまとわりつく。焚火の煙の匂いさえ塗り替えるかと思えるほどだ。
「埒が明かぬ。後ろは枯れ沢、崖を降りて撒くぞ!」
揃って背を向け、一気に走り出した。背中ごしに、ヤギのがなり声がまたも聞こえる。その声は遠ざかってはくれない。追ってくるのだ。
滝であったであろう崖に、今度は見下ろす形で臨む。高さはふたりの背丈からして倍ほど……
テンヌが崖際の石を手掛かりに降りようと、すばやく身をかがめたその横で、シズハは足を止めずに飛び降りた。
「シズハ!?」
沢の底であった砂地へと着地し、シズハは受け身で衝撃を殺してすぐさま立ち上がる。そうして焚き木をそばに放ると、崖の上へ向かって両手を広げた。
「ほら、テンヌ!」
「おお!」
テンヌは少し慎重に、勢いをつけぬように崖から跳び、無事シズハに受け止められた。
「この高さだ、あの巨体で軽々に飛び降りてはこれないはず……」
が……三度の蛮声。
その出所を見たテンヌは、思わず叫んだ。
「ばかなっ!?」
血みどろヤギの巨体が降ってきたのだ。先んじて気づいたテンヌが、シズハを庇うようにして崖から距離をとっていた。
巨体の落下地点は、大きな岩だった。重さと加速度の乗った固い蹄に、岩は打ち砕かれた。無数の破片が飛散する。
「――痛ぅ!」
テンヌはわずかに呻き、膝をついていた。
細かい破片は羽織に阻まれるも、ひときわ大きなかけらのひとつが彼女の足を強かに直撃していたのだ。白い肌が裂け、血が流れている。
血みどろヤギは追い詰めることそのものを楽しむように、ゆらりと迫りくる。
「怪物め……!」
シズハは焚き木を拾い上げると、敵の顔面へ投げつけた。
さしもの巨獣も見慣れぬ火にはひるみ、迫る足を止め、顔を振るって避けた。
その隙にシズハは動いた。テンヌを背負い、蛮刀を受け取り、森へと走り出す。
「逃げるよ! できるだけ声を出さないで!」
シズハの身を隠す技術は、確たるものだ。時に速やかに遮蔽物へ走り、時に音を殺して身を隠し。いつぞやテンヌは彼を狐と称したが、相違ないものである。
目印となりかねない光源は捨てた。ひとの臭気も、嗅ぎつけられることはないはずだ。あの生首の死臭からすれば捕捉できないはずだった。
それでもなお、血みどろヤギは追ってくるのだ。
藪を踏みつけ、木立をへし折り、時折蛮声を響かせて。
木の枝や藪で擦れた手足の痛みを感じながら、シズハは考えていた。テンヌをどこかに隠れさせて、ひとりで囮になろうかと。
だが安心して隠れられる場所など思いつかない。
なによりシズハの胸の前で、テンヌの手が固く結ばれているのだ。その間には彼の三つ編みが握りしめられていた。声を殺して命を預けられている。
その力の強さと、うらはらの必死さ。それを感じたシズハに、離別の選択はとれなかった。
どこをどう逃げたか定かでない数時間を経て、シズハはついに巨体の足音もあの異臭も、振り切っていた。
最終的にいきついたのは浜辺だった。最初の夜にふたりで身を寄せた岩陰である。森の側からは見えないことと、浜は遮蔽物が少なく、敵が迫ればより分かりやすいからだ。
最小限の声で、シズハはテンヌの耳元に囁く。
「確証はないけど……ヤツはおそらくこちらを見失ったはずだ。気配がしない」
ところが。テンヌが声を殺して言う。
「……近づいてきてはおらぬか?」
また異臭がするのだ。
それは紛れもなくあの獣だった。浜へとやってきたのだ。ふたりは気配を押し殺し、シズハは僅かに岩陰から様子をうかがう。
山羊は息を荒くついていて、どこかふらついた足取りに見えた。こちらを補足した様子ではない。持久戦で疲れ果てているようだ。
血みどろヤギは、海水に口をつけた。
(あいつ……海水を飲んでいる!?)
空には月も星の姿もない。銀色の光がよりまして見えるその潮を、あろうことかがぶがぶ飲んでいるのだ。昨晩、小川で水を飲んでいたときとは比べ物にならない勢いだ。
やがて満足したのか、獣は首を上げて歩き出し、異臭はそのまま遠ざかっていった。
(振り切った……か)
ふたりは静かに夜明けを待った。疲労でまどろみそうになりながらも。
そして曇天の朝を迎えた。
三度目の朝であり、最悪の朝である。
海水を飲むわけにもいかず、走り回った喉の渇きに耐えかねて泉に戻ることにした。
テンヌをおんぶし、シズハは周囲を警戒しながら森を進んだ。
「シズハ、もうよい。自分で歩こう」
「いや、足の手当てをしてからだよ。小川で傷を洗わなくちゃ」
「手当などと大げさな……」
「必要だ」
シズハは彼女を下ろさず歩き続けた。その足取りは二人分の重みとは思えないほどに、確たるものだった。
枯れ沢とは別の方角、小川を遡る道のりで、野営地にしていた泉のほとりにたどり着いた。
昨晩とは様変わりした一帯を、ふたりはしばらく無言で見ていた。
「……狼藉。そのほかの言葉が見当たらぬわ」
「はは……山羊の狼藉とはこれいかに?」
「あの貪欲さは狼よりもタチが悪い……かのう」
軽口をたたくことしかできない。
ふたりで集めた果実はひとつ残らず食い荒らされていた。
籠は踏みつぶされて原形をとどめていない。
焚火も一晩継ぎ足せなかったため、すっかり燃えカスだ。
恐らく、ヤギが現れた目的のひとつは果実だったのだ。あの血みどろヤギには届きようのない樹上の食物、それをかぎつけた。
二日間で集めたすべてを失った。
唯一無事なのは泉ばかり。
ふりだしに戻る……
うつむき、奥歯を噛みしめていたシズハは、テンヌの足の怪我を思い出した。
流れた血は固まり、赤い脚絆に紛れている。
「テンヌ、手当てだ」
彼女を小川そばの大きな石に座らせると、シズハは流水でその傷口を洗った。鋭利な破片だったのはある意味で幸いだ。痕が残りにくい。
「情けないのう。生身で戦えばわたしはこんなものか」
あっけらかんと言うが、にじむ気落ちを隠しきれていない。
彼らが身を寄せていた巨木の葉は、食用にこそ向かないが、薬効のあるものだった。シズハはそれを数枚採ってきて傷口に貼る。
「これで、傷が膿むのを抑えてくれる」
そして断りを入れ、自らのブラウスの袖を切ると、よく洗ってから包帯代わりに巻き占めた。
脚絆もすすぎ、彼女の足に結び直すと、シズハは言う。
「決まりだ」
シズハは顔を上げ、青い瞳で見上げた。
テンヌの藤色の瞳と視線が交わる。
「決まり……? シズハ、どうしたというのか?」
彼女はいつになく、戸惑ったような顔をしていた。
「食おう。やつを」




