【泉03/現れる赤】
そこにあったのはひとつの樹木だ。細い枝に添って葉が並んでいる。
その先端に生る赤い実が見えた。
「ザクロだよ」
ひと目で品目はわからずとも、具体的な名を聞いてテンヌの表情も変わった。
あまねく土地で、古くから人々に食べられている果実である。
実はいくつか生っているが、どれも背伸びしてもぎりぎり手の届かない高さだ。シズハは力を尽くして跳びあがることで、やっとのことで果実のひとつを採った。
丸々とした朱色の実を、あわただしい手つきで半分に切りわける。筋張った白い内皮のなかで、艶めく深紅の粒がひしめいていた。種を覆う果肉、ザクロの可食部だ。
「ほら、これが食べられるとこ」
「うむ!」
シズハがひとすくいのそれをテンヌに差し出すと、彼女は口から迎えた。
「また餌付けじゃん」シズハは思わず吹き出した。自らも指ですくって、果実を口にする。
細かい種の部分が入っていることもあり、うまみのある果肉はさほど多くない。
幼子が、豆を一粒ずつちまちまと食べていくような、不格好な食べ方になる。
それでも――
「甘いね」
「甘いわ」
それ以上の言葉はない。
半ば泣けてくるように、満たされる心地がする。果肉の一粒もこぼさないように、ふたりは食べつくした。その甘酸っぱさは、この上ない幸福の味だった。
泉の水を飲んだ時にもまして、ふたりの身体は生き返った。
「幸! まさしく幸福を見つけてくれたの、シズハよ!」
子犬のようにテンヌはじゃれついてくる。シズハはやすらいだ気持ちで、受け止めた。
「やっと……やっと見つかった……」
そこからは半ば、子供の山遊びのようだった。
ザクロの果実を採っては分け合い、ひとしきり手の届くものを食べつくせば、また森を探しに歩く。
樹上を探すという考えは大当たりで、いまだ何者の手も届かない木の実の類がいくつも見つかった。テンヌが棒でつついて落としたり、シズハが身軽さに気を上ったりと、それらを採取していく。
なにを悩むことも、なにを憂うこともなく、己の欲求のままに身体を動かす純粋な時間だ。
シズハもテンヌも、これまでの時間で欠落していた自由を取り戻すかのようだ。
いつしか日も傾くころ、水を求めてふたりは泉へと引き返す。
その時には、籠一杯の果実と木の実が集まっていた。果実から得た活力で、足取りも軽い。
腰を落ち着けるより先に、テンヌは気合を入れて立ち、蛮刀を片手に準備にかかった。
「さて。ここはひとつ、わたしの技も見せておかなくては。日が落ちきる前にな」
テンヌは森を歩く中、木の棒や朽ち木、枯れ葉を選りすぐって集めていた。
火おこしの準備である。
木の棒の片側を鋭く削り、一方で板状の木に直線の溝を掘る。溝の一端には、木くずや枯れ葉を固めてある。
「溝を木棒で摩擦し、熱を高めるのだ。根性の勝負だ、付き合ってくれるな?」
「もちろん」
ふたりで交代交代に、間断なく腕を動かし続ける。
延々と単純な動きを繰り返し、薄暗がりが近づく中、やがては木くずにぽっと灯がともる。
生まれた種火を消さないよう、テンヌは祈るような所作で、両手で守る。そうしてゆっくりと丁寧に息を吹きかけて育てていき、やがては目に見える火となった。
薪を放射状に組み、あっという間に焚火ができあがった。
「すごい……」
その手技にシズハは歓声めいた声を上げる。
野営を習う中、師父の火おこしを何度か見たことはあった。だがそのうえでなお舌を巻く、実にそつない手際だったのだ。
「ふふふ……雪と寒風を相手取る我が地では、火こそが最大の味方よ。味方を守るためにもな」
疲れた両手を気怠く投げ出して、ふたりは大樹にもたれかかった。互いに体重を預け、身を寄せている。朝の飢えと危機感が嘘のように満たされた心地だ。
「水を飲んで喜んでいた昨晩からすれば……ずいぶんと文明が近づいたかの」
前方にはともに熾した焚火。
さらには清水の湧く泉。
木の枝には籠がかかり、一杯の木の実も集まっている。
「備わってきたねぇ」シズハはうなずき、しみじみと言った。
生きぬくための材料は着々と揃いつつあった。
「明日にもなれば、あの山小屋を今一度探してみるとしようか」
「うん、僕も考えてた。戸口に倒れてたあの棚、あれを解体して板のひとつも地面に敷ければ、それだけでいまよりいい寝床だ」
「……シズハ、明日はやはり小川で水浴びをしよう。髪を洗ってくれ」
「え? ……髪をって、僕が?」
「ひとりでは持て余すのじゃ、ほら」
そういうと、後頭部の結び目を握って揺らす。
巨躯の時から、身体に対する比率は同じ程度だが、とにかく長くてボリュームがあるのだ。毛先の一部には埃や枯れ葉がつくたびに、テンヌは振り落としていたが限界がある。
「それとも、いやか?」
「そんなことは……ない、けど……」
「ほう。けど?」
「……溺れてしまうかも」
「ふ……ふふふ! 溺れるなら一蓮托生、いっしょよ。のう?」
頬のほてりを感じていた矢先――シズハは急激に、腹の奥で冷たいものを感じた。
反射的に、小川の方へと視線が向かっていた。
「テンヌ、ごめん。楽しい話は後だ」
猛烈に嫌な予感――言葉で表すなら、獰猛な敵意。
「なにか来る。いや……なにかというよりもこれは……」
「昨晩のヤツか!」
テンヌも、風から匂いをかぎ取ったのだ。昨晩鼻を衝いた死臭を。
ふたりは立ち上がっていた。シズハは焚火にくべられていた長めの薪を手にし、テンヌは蛮刀を構える。
獣の気配は接近してきていた。迷いのない足取りを感じられる。
「テンヌ元気はでる?」
彼女は手首を確認する。腕輪状の痣はまだ不完全だ。
「すまぬ。今一歩……」
「よし、逃げよう」
だが、シズハが木の枝から籠をとろうとしたそのとき。彼も感じ取れるほどの死臭が風に乗ってきた。
木々の間を抜け、獣はすでに見える間合いに現れたのだった。
昨晩との大きな違いは灯りの有無だ。すでに日は暮れていたが、焚火の灯りで充分に目は利く。
初めてその姿を直視したその瞬間――
「うぐっ――」
ふたりは、喉が引きつって鳴るのを自覚した。
現れたのは、予測していた動物――イノシシではなかった。
巨大なヤギである。赤黒い血みどろの毛を引きずるようにしている。
牧場の牛よりもさらに大きい極端な体格で、湾曲した角は禍々しいほどに発達している。
だがなによりも、その怪物ヤギの異常異質な点は。
角の間、頭に頂くソレであった。
「そうか、この死臭――源は、あれか!」
「な、生首……!?」
血みどろヤギの頭上にもうひとつ、腐ったヤギの頭が乗っているのだ。
おそらくは同族同士の争いで角を突き合わせて争ったのだろう。その最中、角と角が絡み合って取れなくなったのだ。
獣の膂力で争ううちにやがては片方が息絶え、命失った骸は暴力のままに棄損され、絡み合った首ばかりが勝者の冠として残った……
(ちょっと待て、この首、まさか……!)
テンヌが発見した、あの首なしの獣の死骸、あれの下手人がこの獣だとすれば。
あらゆる意味で危険な存在が目の前にいることになる。
同族との争いで命さえ奪う、そこまでは自然の摂理の範囲だ。
しかし不自然なのが、このヤギの毛並みの異常な汚れ。それがはなはだしいのは、なにより顔、そして口もとなのである。
「こやつ……同族喰らいか」
テンヌが低い声で言う。
草食動物であるにもかかわらず、同種の血肉さえ喰らう異常なヤギ……!
死臭を立ち込めさせる血みどろの獣、その獰猛な両目が今、シズハとテンヌに向けられていた。




