【泉01/寄らば大樹の】
「泉の湧き出るところ……よくぞ見つけてくれたものよ!」
テンヌは喜びに身を任せて、シズハを手荒に揺さぶる。
「本当にあった……やっぱりだ」
横揺れに身を任せながら、彼は安堵の息をついた。
探し当てた泉は、切り立った山肌に面していた。
わりと小さく、広さとしては無道丸の甲板の半分もない。深さもそれ相応だ。
気楽な余暇に訪れたのであれば、水遊びをするのにちょうどよいくらいの大きさだった。
周囲の草木は丈の低い草がほとんどだったが、一本だけ幹のどっしりした大木がある。
ふたりがいるのとは対岸、枯れ沢とはちょうど反対の向きに水が流れていっており、小川を形成していた。
天変地異で土地全体の傾きが変動したのだ。それによって川の流れ、というより流域そのものがまったく違う方角へ向かったのだと考えられた。
それほどの地殻変動を受けてなお、水源が生きていたのは奇跡的なことだろう。
求めていた水源を目の当たりにし、シズハは喜びの裏腹に焦燥を抱いていた。
(やっぱり水があった……それはつまり、僕のこの奇妙な感覚が、やっぱり正確だったってことだ。ふつうなら知りえないはずのことを、僕は察知した……)
そして、崖を上り切った時のあの膂力、自身で違和感を覚えるほどの力も同根のものであると確信する。
だが、それ以上の追及はいったん留め置いておかねばならなかった。
待ち望んだ清水を前にして、じっと考えることなどできる状態ではなかった。
ふたりは足早に泉のほとりに身を寄せた。
しっとりした草に膝をつき、覗き込む。
こんこんと湧き出る澄んだ水がありありと見えた。
水面の一点には絶え間なくゆらめきが起こり、その真下の水底では砂が踊っている。限りなく水源の根元に近いのだ。
「実に澄んでおるわ! 飲まれたがっているかのようじゃ!」
「うん……これなら飲んでよさそうだ」
安全を求めるならば、生水は煮沸して飲むのが望ましい。しかし今この瞬間、脱水の危機に対して、道具も余裕もないのだ。
ふたりは肩を並べ、泉から水を掬って飲んだ。
「ふっはっは! 冷たい! 冷たいのう!」
一口飲むや、途端にテンヌは声を上げた。シズハは思わず破顔し、その横顔を眺めた。
何度も何度も、口と水面を両手が往復する。
言葉も忘れ、彼らは渇きをいやした。丸一日近い時を経ての給水はまさに肉体へのいたわりだ。喉から全身へ、すみずみまで満たさんと沁みこんでゆく。
「ぷは……っ」
やっとのことで一息ついた。そうして両手を背中側について、のけぞり気味に座りなおした。
身体が揺れると胃から水音がたち、お互いに笑う。
「うむ。思っていたよりは楽土かもしれぬ」
「こんなことでいいの?」
「渇きの果てに、冷たい水を浴びるように飲む! これほど喜ばしい瞬間はあるまい」
「ま、それもそうか……」
渇きと火照りから解放され、いくらか軽口をたたく余裕も生まれていた。
いつのまにか太陽はずいぶんと傾いており、ふたりのもとにも夕陽が差しこんでいた。
ふたりは小川の方へ向かって顔を洗い、いくらかさっぱりとした心地になった。
西日を避けて木陰に入り、木の幹にもたれかかる。自然と、互いの肩に体重を預けていた。
「水場があるってだけでも、生活には大きな助力になる。これからはこの泉を拠点に、周囲を探索しよう」
「うむ……さすれば次は食糧かの。並行して火起こしの備えもせねば」
そう決めたは良いが。
ふたりともそこから腰が上がらない。地に根が張ったかのようだ。
テンヌは依然として熱っぽさが抜けていない。肩に触れる体温は、明らかな差を体感できるほどに高かった。
そしてシズハもまた、崖を上った際に持てる力を激しく使い、手足の痛みと重たい疲労に襲われていた。
「いつまでも地べたじゃ寝てらんない。寝床も作らないとね……」
「寝床まで作れるのか、よいのう。どーして作る?」
「簡単なのだったら、柔らかい草を集めて干して、体の下に敷くんだ」
「わらの寝床か、本で読んだことがある。牧場に暮らす者たちの話だ」
「本格的なのなら……支えになる長い木をたくさん探して集めないとね。それと、じょうぶなツルを用意して、組んだ木の間で蔓を橋みたいにするんだ」
「ほう。即席のベッド……」
「そしたらね、虫よけになるし、冷たくて硬い地べたを感じなくてすむんだ」
「作りたいのう……ふたりの寝床」
のったりとした調子で、言葉ばかりが交わされる。実際の動きにはつながらない。
テンヌがいつのまにか、袴をふたりの膝に被せていた。上がけだ。
やがて、あたりに聞こえるは、かすかな小川のせせらぎばかりとなり。
日が沈んでいき、彼らの瞼は落ちていた……
……。
「――ね……ぅえ……」
「う……?」
シズハは、誰かのかぼそい声と腹部の圧迫感で目を覚ました。
と、いっても誰かとはテンヌにほかならない。
月明かりの中で目を開けると、白い髪が視界の大部分を占めていた。
ふたりの寝姿は様変わりしている。テンヌがいつのまにか、シズハの腹に顔をうずめるようにしていたのだ。
冷たさを求めたのか、ちょうどエリオンで冷えている水月のあたりに頭がきているのだ。ついでにいえば、ご丁寧にボタンが外され、肌と肌が触れている。
(こ、氷枕の代わりか……僕は)
情けないような呆れるような気分だ。
眠りが妨げられたことに加えて、空腹の腹へ重みがかかり、気分が悪くなってきた。むらむらとした苛立ちが起こる。
しかし、肌に直接ふれる寝息が、そんな気持ちをどこかへやってしまった。
テンヌは鼻をすんすんと鳴らし、うなされている。
その寝息には、半ば泣き声が混ざっているのだ。
(疲れ果てて、具合が悪くって、お腹空いて……弱っちゃうよな、そりゃ。海賊の頭領だって、強いばっかりじゃない……)
シズハは自然と、テンヌの頭を抱き、肩をさすってやっていた。
二度目のふたりきりの夜だ。
この断島に、文字通り人間がふたりだけ。
余人の立ち入らぬ土地だ。孤島であり、山であり、森であり。
それを今一度思い返すと、ひどく恐ろしい。
(無道丸でズラリ並んだ料理を前にしてから、たったの二晩。どうしてこうなったかな……)
シズハはこれまでも野営の経験はあるが、こうも寄る辺なき場所は初めてだ。
意識しだすと、急激に神経が過敏になる気がした。
風が木々を揺らしては顔を上げ、どこかで蟲の羽音がするような気がしては身を強張らせる。
守ってくれるものはない。駆け込む家も、迎えてくれる隣人も。
毛布も、温かい食事も、闇を照らす灯りも。
不意に「もういやだ! だれか、だれか!」と叫びたくなる衝動に駆られる。
それを理性で嚙み殺し、それでも抑えきれぬしみじみとした気持ちをシズハは零した。
「アウレーに帰りたい……フィシーの顔が見たい」
エリオンを持ち帰るという使命以前に、見知った土地がひどく懐かしい。
妹に与えられるものとは雲泥の差でも、これまでの人生で衣食住に不自由をしたことはなかった。
そして……遠出から帰った時、フィシーが慌てふためきながら出迎えてくれるときの顔が、無性に見たかった。しとやかにふるまうようにどれだけ言い含められても、あの寂しがりは一晩顔を見ないと、兄恋しさでいてもたってもいられなくなるのだ。
「むう……」
そのとき、シズハの腕の内にあった頭が持ち上がった。テンヌが目を覚ましたのだ。
眼は開ききらず、まどろみの中という様子だ。
「ごめん、起こした?」
「いや……」
「寝苦しい?」
「ん……ちと、妙な夢見を――」
テンヌが急に言葉を切る。次に息を吸ったとき、彼女の身は強張った。
なにごとかと思ううちに、テンヌは速やかに起きあがり、シズハに身を寄せてきた。
片手で口をそっと塞ぎ、「しぃ……」と小さく言う。
眠気の冷めない様子だったのが、あっという間に臨戦態勢のふるまいだ。
促されるまま、シズハは黙って音を殺していた。
せせらぎに紛れ、遠くからなにか踏みしめる音と、荒い呼気が近づいてくる。
獣だ。かなり大きい。
迫りくるものの気配を、シズハは感じ取った。
不用意に遭遇しては争いを免れないような、一触即発の危険を感じたのだ。
できる限り声を抑えて、シズハは言う。
(テンヌ、こっちだ。木の上に)
シズハは自らテンヌの足場となり、身を寄せていた大木に上らせた。続いて自身もすぐさま樹上へ上る。
木の枝の間で、ふたりはどうにか身を預ける所を見つけた。腕でバランスを取りながらも、じっと息をひそめた。
真っ暗な森だが、巨大な何かが歩いてきていることは確かにわかっていた。
徐々に近づいてきたそれは、泉のほとりにまできた。
枝葉で遮られて直接は見えないが、四つ足の獣が鼻息荒く、うろついているのだとわかる。
なにかを探すように……あるいは、山に現れた異物、シズハたちの存在を感じ取って警戒しているのだと思えた。
(この臭い……普通の獣じゃない)
シズハの鼻を、屍の臭いが突いた。枯れ沢で獣の死骸を見つけた時よりもひどいものだ。
月明かりが届かず、テンヌの顔はうかがい知れないが、息を詰まらせながら苦しんでいるのがわずかな呼気から伝わってくる。やっと鼻が通りだしたのがむしろ仇だ。
しばらくすると獣は小川へ行き、水を飲むと、遠ざかっていった。
じっと様子をうかがっていたシズハは、獣が振り向いた一瞬、枝の間から獣の眼を垣間見た気がした。
僅かな月明かりが反射し、瞳が光って見えたのだ。
その光とは……
(銀色? まさか……そう見えただけか)
シズハは気配で、テンヌは臭気で、獣が遠ざかっていくのを感じ、一息ついた。
「あいつが例の……捕食者かな」
「恐らくの。せっかく鼻が通ってよい心地だったというのに。つんざかれたわ、まったく」
それからふたりは樹上、不安定な姿勢で支え合い、朝を迎える。
眠って過ごせたはずの一晩が、不安定な樹上で身体を支え、物音に警戒し……と、心身ともに緊張が続いて休むどころではなかった。
日が差してきたところで、シズハは獣のうろついた近辺で足跡を確認する。
「ひづめだ……それも、相当でかい」
二つに分かれた蹄の刻印がいくつも残っていた。偶蹄目である。
だがその大きさは見たことのない規模である。シズハの背筋は冷たくなった。
「む? ひづめを持つ獣が、あの死体を食っていたと? それは奇な……」
テンヌは眉をひそめた。ひづめを持つ動物の多くは草食性だ。
「直接は姿が見えなかったけど……雑食性のイノシシなら、肉を食べるのもあるいは。あの獣にとっても、ここは食べ物の少ない土地なのかもしれない」
相当に危険な隣人もとい隣獣である。
野生の動物など、ただでさえ出会わないに越したことはない。
そのうえ巨大で、飢えており、こちらの武器は蛮刀ひとつきり。三重苦だ。
「食べ物……そうじゃ。シズハよ、今日という今日こそ、食べ物を探し当てるぞ。もはや猶予はなし」
うなされていたのがどこへやら。テンヌの威勢はいつも通りに戻っている。むしろ切羽詰まった飢えにより、前にもまして有無を言わせない力がある。
決して取り乱さないその振る舞いには、将の器が確かにあった。シズハは昨晩の寝顔をそっとしまっておくことにした……無論、忘れる気はない。
その時、彼ははたと思い至った。
(うん? むしろ……あんなでかいやつがいるから、人間にも食べられるような植物は食べつくされているのか? だとしたら、探すべきは……)




