【山林02/直面する一線】
シズハとテンヌは頬を火照らせながら枯れ沢を遡っていた。
沢のそばには木々が少なく、太陽の光がふたりをまともにとらえる。彼らは自然と、すこしでも木陰のある位置取りで歩くよう努めた。
「まだ歩くか? こっちの方角に水源があるものかの?」
直射日光は避けていても、だんだんとテンヌは息が上がっていた。白い肌に汗の粒が浮かんでいる。
「方角から言って、山の奥に進んでるからね。海に近づくよりは真水がある可能性が高いよ」
「なるほどそうか……」
もっともらしく言うが、その理由付けは後から来たものだ。なにより、肌感覚が彼の足を動かしているのだから。
シズハは依然として己の学んだ知見を最大限に用いて、歩きながらも視界の届く限りに食糧を探していた。
しかし成果はない。見慣れぬ環境であることもあるが、彼の眼に食用たりうる植物は見たらなかった。
そればかりか、生き物らしい生き物の姿もない。カエルだとかリスだとか小鳥だとか、そういう小動物もこの場においては『救いの糧』となりうる。火を通す必要はあるが。
ところがこの断島において動物――文字通りに『動くもの』の姿はまったく見えなかった。
枯れ沢はどこまでも平坦で、ごろついた石を踏み越えていくのもだんだんと一苦労だ。
かつての姿であれば涼しい渓流だったのだろうが、沢の石は日の光を浴びてずいぶんと熱せられていた。シズハ手製の脚絆がなければ、テンヌがここを無事に歩くことはまず不可能だっただろう。火傷の恐れさえある。
大きな石をまたいで通らねばならないことがあれば、シズハは時にテンヌの手を取って助けた。
手と手が触れた時、シズハは感じ取った。白い肌が熱をもっている。
その時不意に気づく、テンヌと自分とで、暑さの感じ方が違う大きな要因を。
シズハの腹の中に、エリオンという熱源ならぬ冷源があるのだ。
氷の化身として振舞っていたテンヌが熱さに喘ぎ、逆に冷気の苦手なシズハが災い転じて耐暑の助けを得ているのだから不思議なものだった。
突然、テンヌが足を止めた。
シズハがふりむくと、枯れ沢の対岸、左の方へ向いて視線を固定させていた。
「どうかしたの?」
彼女は指さした。その先にやや大きな岩があり、その傍らは陰になっている。
「だれぞ、食事にありついたものがいるらしい……厄介なことに」
何かがあった。人工物ではない。植物でもない。動物にしてはあまりにも静かで気配がない。
シズハは近づいて直視した瞬間、ちいさく声を上げた。
「うぇっ……!」
死骸だ。生前の姿は判別がつかない。かつて生き物であったものの、無惨な塊である。
残っているのは、バラバラの骨と、断片的な毛皮ばかり。
すでに干からびて、ハエもたからないありさまだ。
ひとつ幸いなことに、死臭のほうは鼻をつくほどのものはなかった。
それでもシズハは気分が悪くなり、思わず口元に手を当てていた。テンヌはその背中をさすりながら言う。
「これはまた、行儀の悪い……」
「行儀って? どういうこと?」
「骨格がバラになっておる。食べ方が汚い。喩えるに、魚の丸焼きを食べるのに背骨がふたつやみっつに折れ、頭もすっ飛ばしたようなザマといったところか」
「……わりとそういう人もいるんじゃない?」
「ああ、エイラのやつが……と、そういう話ではなくっての。とにかく獣にしても質の悪い食べ方と見える」
そう言われてから見ると、シズハの眼にも死骸の原型が見えてきた。
無惨な姿であることに変わりはないが、いくらか生前の姿に想像がつく。
大型の四つ足で、胴体の割に四肢の短い生き物だ。
しかし……頭骨が行方知れずなのである。
背骨が半ばで離れ離れになり、骨もごちゃまぜでひと塊になっている。
すこし目を逸らすと、そばの岩に視線が吸い寄せられた。毛のついたままの肉の一片が付着し、土みたいに干からびていた。
もはやシズハは見るに堪えず、背を向けた。
振り向くと、テンヌの白い頬は無表情で、どことなく強ばりが見える。額から頬へ汗が伝っていた。
「この死骸、たとえば自然に死んで、獣や鳥に食べられたって可能性は?」
「いいや、だとしたらもっと骨格の原型が残るわ」
「だったら、間違いなくこのあたりに肉食獣がいるってことだよね……?」
「……しかし、眼鼻の先とは限らぬ。血肉がまるっきり干からびておる。ここで食事をしてから……大雑把に見て十日は経っているじゃろう」
「うぅん……新鮮な死骸ではなかったことを喜ぶべきか。それとも捕食者の行方が分からないことを恐れるべきか……」
「うむ。後者が大きかろうな。おぬしの言う『慎重さ』が重みを増したようじゃの」
骸をあとにした。ふたりはなおも枯れ沢を上っていった。
足を動かすほどに、乾き果てた石を踏み越えるほどに、シズハの感覚は確かに強くなっていた。髪の毛から感じ取り、腹の奥に伝わってくるような、その感覚だ。
これほどまでに信じて動いているのが、自身にも定かではない。それでも、もはや目に見えることのように、求めるものの存在を感じるのだ。
だがふたりの眼前には、歩みを阻むものがあった。
崖だ。
ふたりの背丈に比して、間違いなく倍以上の高さがあり、上の様子は見えない。
地形を見るにかつては滝であったようで、なだらかな場所は見当たらず、歩いて通れる状況ではない。
垂直よりわずかに低い角度に傾いており、壁というよりは辛うじて斜面だ。デコボコとしており、手足を使えばあるいは上れるか……という微妙なところである。
テンヌは一息ついて、そばの岩に腰を下ろした。
「水源を求めたはよいが、これでは……」
座ったというよりもへたりこんだといってもよい。首元をぱたつかせながら、一方の手で広げた袴を頭にかぶるように日よけにしていた。
「ねえ、大丈夫?」
「ひと休みが要る……のう」
シズハはテンヌを改めて見て、ぞくりと背筋が震えた。
暑がっているわりに汗をほとんどかいていない。もともと白い顔に血色が見られない。
水分を失って衰弱する兆候だ。
昨日の度重なる戦いに、竜の狩りに、果ては一晩泳ぎづめ……彼女の身にかかる負荷は重い。
ほんの少しでも早く、水を飲ませねばならない。
そして向かう先でそれは間違いなく叶う。
シズハは決意した。
「諦めるには早い。ここを超えていこう」
そういうとテンヌに背を向けてしゃがんだ。
「ど、どうするというのか?」
「おんぶだよ」
彼女はとたんに、困ったようなにやけたような顔をする。
「わたしを背負ってこの崖を上るというのは、いくらなんでも……」
「心配するくらいなら、強く掴まってくれてたらその分こっちも楽だ」
「ふ、ふふ……では、その言葉に甘えよう」
シズハにテンヌが身を預けてきた。
背にかかる重みは柔らかく、それ以上にひどく熱い。
「おぬしひんやりじゃな……」
耳元でささやかれ、シズハは前以上に心落ち着かせることに努めた。
彼女の両手がシズハの首の前で結ばれ、両脚が腰に絡む。手にはついでに三つ編みを握っていた。しかしその保持力は、どこか頼りなかった。
「それじゃ、掴まっててよ」
崖に挑むシズハの動きは、ゆっくりだ。ひとつひとつのとっかかりを確保し、決して焦らずに上っていく。バランスを崩して、のけぞるように落下してはまさに命とり、救おうとしている相手を殺しかねないからだ。
身ひとつならばもう少し身軽に動けるところを、女の子ひとりを背負っているためでもある。
息が上がってきたシズハは、崖の中腹でいったん姿勢を保持した。渇いた唇を舐めて湿らせ、背後のテンヌに訊く。
「上はあとどれくらい?」
「とっかかりがあとふたつか三つ分……もう一息じゃ」
「よし、それじゃあ……」
もうひと踏ん張り、と脚に力を込めた瞬間だった。
足の裏に応えがなくなったかと思うと、体重を預けていた石が音もなく脱落した。
「わあっ!?」
突然のことにバランスを崩したシズハは、もう片足も足掛かりから外れ、両腕だけでふたり分の重みを支える形となった。
背後から、テンヌが悲鳴を押し殺した小さな声が聞こえた。彼女が三つ編みを握りしめたのがわかった。
それからはあっという間だった。
ひと呼吸ほどの間隙もなく――
シズハは腕の力でその身を引き上げ、足で斜面を蹴り、崖の上へとふたりを躍り上がらせていた。
足場が落ちてから崖上へ身体を引き上げるまで、あまりにも短い時間のことだった。
ことを成したシズハ本人も、その背に掴まっていたテンヌも、何が起きたのかと理解できぬままにふたりはもつれるようにして草の上に転がっていた。
「お……おぬし、ここぞの力は真にすさまじいのう」
テンヌは驚きと緊張と、そこからの解放感から、荒く息をついていた。
滑落、転落、激突死、それらの言葉が一瞬のうちに頭をよぎったのだろう。ヘンに笑いだしそうなほどに、頬が緩んでいる。
シズハの意志がそのまま身体を動かす力となったかのようだった。
奇しくも、テンヌと船上で決闘したときと同じだった。
シズハの腕は、突然出した力の反動か、ひどく虚脱していた。うつむいて手のひらを見つめ、彼は思う。
(これって僕か? 本当に、この腕の力だったのか?)
信じがたい心地だった。
うつむく彼をよそに、テンヌは立ち上がった。
「そしてシズハよ! おぬしの言った通りじゃな!」
喜びに満ちた声につられて、シズハはテンヌの見る方に顔を向けた。
しっとりと濡れたような草原に囲まれて、泉があった。
次回予定:7/20深夜~21朝
20日18時追記:書いている途中です。今一番怖いのは寝落ち。




