【船長室02/和やかな熱】
盃の薬湯が、ゆるりと揺らぐ。
水面の揺れと、外から聞こえる海風の音と、どこからか微かに通る船員たちの喧騒と。それらにより、シズハは自分が船の中にいることを自覚していた。
そうでもなくては己の居場所を忘れそうだった。
それほどにシズハの前にある夕食は立派だった。
「では……」
相対するテンヌが盃を手にして掲げたことから、シズハもそれにならって盃を手にした。
テンヌは薬湯に口につけ、ぐいっと早々に飲み干し、音を立てて盃を置いた。こともなげに息をつき、親指で口の端をぬぐう。女傑然とした所作だ。
シズハはその様子を見て、恐る恐る唇をつけ、一口だけ口に含んだ。
(酒じゃないって言うけど『この程度では酔わないから酒のうちに入らない』だなんて理屈じゃないだろうな……)
と、不安だったのだ。しかし舌の感覚から、すぐに思い直す。
(酒……じゃ、ない! 薬っぽさはあるけど、酒の味とは違う)
テンヌの言葉どおり、酒精らしい口当たりはない。
シズハは酒の匂いを強く浴びたことがある。
宴の席で、妹フィシーがうっかり葡萄酒を飲んでしまったのだ。強かに酩酊した彼女にキスをされて、思わぬ形で酒の味を知ったのだ。
だがこの薬湯はそれとは違った。
果実のまざりあった香りと甘味、それにほのかに辛みの刺激がある。鼻へ通っていく香りにすこし薬らしきクセがあるが、美味な飲みものだった。
これまたテンヌに倣い、盃を傾けて背を反らし、たどたどしくも薬湯を飲み干す。
甘美な辛味が喉の奥を通っていき、最後の一滴のあとに、ぷは、と息をついた。
火口から一点の火がともるように、シズハの胸の奥に温かいものが湧いてくる。
その初々しい様子を見て、テンヌは愉快そうだった。
「うむ。よい飲みっぷりだ」
彼女はそうそうに手を動かし、目の前にある料理を食べだした。食器を手にし、具材を口に運ぶその所作はずいぶんと丁寧だった。気品があるといってもよい。装いや態度と比して落差を感じさせるほどに。
「逃げない獲物に急ぐことはない」と言わんばかりだ。将器のふるまいがあった。
シズハはちらりとテンヌの顔を見上げる。額からの流血を凍らせた赤い結晶は依然としてそこにある。
(この風格……改めて、軽んじていい相手じゃないな)
気おくれしながら、シズハはスープをすすり、塊肉をフォークで口にする。
胃袋の中のエリオンのことがあるため、最初はおっかなびっくりに食べていた。
しかし、警戒心はすぐにどこへやら。食べるために動かす手と顎とが、ずいぶんと忙しくなった。
竜の肉がうまい。肉がとにかくうまい。今なおわずかに銀色の照りが残っているのが異様ではあったが……生で味見した時よりも、塩気と出汁とで格別の味となっている。
よく煮込まれた根菜も、ほくほくとして体の温まるものだ。
なにより特異なのが、スープの汁だ。海藻を使った出汁と、獲れた魚をもとにした醤が効いており、アウレーでは食べたことのないうま味だ。
肉食自体が、シズハにとってはいささか縁が薄く、刺激的なのだ。旅のなかで満足な食事をとれなかったこともあり、いつの間にか夢中でスープを口に運んでいた。
テンヌがお代わりを注いでくれた時に、自分のふるまいの乱れに気づいたほどだ。スープの熱以上に顔が熱くなった。
また、北蛮の備蓄食である芋も、見た目以上のものであった。
言ってしまえば干した芋でしかないのだが、もともとの甘味と香りが乾燥によってみっしりと詰まっている。
芋を噛みながらスープをすこしばかり口に含むと、うまみが水分で伝達されて舌に広がるのだ。甘味と塩気のバランスも良い。
ただひとつ。やたらに匂いの強い塩漬けがあり……それは一口食べたところで、辞退した。テンヌは未知との遭遇で口をひん曲げたシズハの顔を面白がっていた。
饗された馳走を食べるほどに、シズハの腹の奥の冷気は、氷が解けるかのように和らいでいった。
彼にとって大きな喜びだ。うずうずと続く歯痛から解放されたのに似る。
冷たいどころか、髄から胃腑から心臓から、身体中が温まるかのようだ。
スープを注いでやったり、それとなくパンの籠を差し出してやったりと、テンヌは自らも食べつつずっとシズハの食事をリードし、眺めていた。
スープ三杯目となり、食べる勢いがいくぶん落ち着いてきたところで、彼女は口を開く。
「ところで、シズハよ」
芋を噛んでいたシズハは、顔だけ挙げてテンヌを見返した。
「ひとつ聞きたいのう」
(来たか……)
悟られぬように、彼は僅かに眉根を寄せた。ゆっくりと咀嚼し、応じる気構えをしてから飲みこむ。
「なにかな。船員のひとたちからも、散々質問は受けたはずだけど」
「ほう。おぬしの体技に目をつけた、感心なものがいたか」
「体技? いや……そんなことはまったく」
拍子抜けして、シズハはわずかに息をついた。
「ではよかろうな? 雨に濡れるクレーンに素早く上ったあの足運び。このわしに幾度も命中打を与えたあの体技……如何にして身に着けたものか?」
妹にまつわることではないのなら、そしてあの決闘にまつわる疑問ならば……と、シズハは答える。
「僕の父親代わりのひとが、『庭番』だったからね。僕もその役目を果たすためにたくさん教わったんだ。山に分け入ったり、植物から助けを得たりね」
「庭番とな?」
テンヌはいまいちピンとこない顔だ。
「うん。文字通り、庭の番人。庭の管理をするのが第一の仕事」
「で、あれば。単に庭師と呼ぶところではないのか。体技を学ぶものではあるまい」
「そうだね、いわゆる庭師と違うのは『番人』の部分。屋敷と外との間である庭で番をして、仲立ちをする代表なんだ」
千切っていたパンを一切れ食べ、少し間を置いてから言葉を続ける。
「よその庭園と種や苗を譲り合ったり、山野に踏み入って珍しい植物を探したり。訪れる人を通じて情報を集めたり。または、良からぬ外敵を秘密裏に迎え撃ったり……そうしているうちに、密偵として裏の役割を持つようになったんだって」
いわばレンジャーの技能である。シズハの師父エドモントは、代々アウレーの教会に仕える一族だった。かつては庭番を取りまとめていたとも聞く。
「つまりは忍ぶ者か。どうりで見事な粧しぶりだったものじゃ。近くで見ても、まったく疑いをもたぬところであった」
「別に女装は密偵の技ってわけじゃないけどね」
「む? その割には堂に入っていたな?」
口を滑らせた、とシズハは思った。テンヌは立て続けに問いかけてくる。
「シュミか?」
「趣味でもないよ。手段」
「では、なぜその手段を選んだのじゃ?」
シズハはふたたびスープを飲んだ。それからしばしの沈黙ののち、言う。
「僕、妹の召使をしてたから。メイドとして」
テンヌは形の良い両目を丸くした。
「メイド……? つまりは、黒服のスカートと、ふりふりエプロンをした、アレか」
「……うん」
「そうかメイド姿か……」
納得ずくで行ってきたことだが、いざ真正面から問われるとなにやら負い目のようなものを感じた。
うつむき気味なシズハを見ながら、テンヌは座り直してまた薬湯を飲み、やや首をかしげた。
「召使なら男でもよいのではないか? おぬしの顔なら、きちっと着こなせば絵に成ろう」
「だって、伯父上が……そういう慣例だからって」
「慣例? 美男に娘の服を着せるのがか?」
「ちがうって! 跡継ぎになる子には、必ず同年代で同性の従者が付き従うんだよ。でもわが子を行く末を、傾いた教会に預ける家なんかなくってさ。僕のほかに成り手がなかったんだ」
そしてなによりも、公の場に立つときに傍にいることを妹にねだられたのが、一番の理由であった。
「庭師と密偵と召使、三重生活か。遊ぶ間もないではないか」
「うん。ほぼないね」
テンヌは小さくため息をついた。
「で、おぬしをメイドとして、侍らかす妹はどんなだ?」
「ゆくゆくは僕の主に相当するのだから……なんとも言いようがないね」
「ほほう……ふふふ、そうか」
「なにさ」
「主として立派ならば、手放しでほめていよう」
「うっ……」
「甘えたがりで、手を焼いているのじゃろう? さては、領主だのなんだのという器ではないのではないかの」
図星を衝かれて言葉に詰まったが、シズハは切り返す。
「僕と同い年だよ? まだ教育を受けている最中だもの。齢十五で満足に家を継げるなら、世の中はもっと泰平してるね」
「ま。そうでもあるか。逆に言うなら、老人になっても幼稚に権柄ずくな輩もいるのだからな」
そうこうしているうちに、シズハはスープの最後に残ったひときれの竜肉を食べ終えた。ため息が出るほどに、よいスープだった。
ひと心地ついたことで、シズハは不意に目の前の相手への興味が湧く。
「ところで、僕から訊いても?」
「構わぬ。なんなりとな」
「この北蛮海賊って、なんのためにやってるの? 単なる稼業? それとも外貨を持ち帰るべき故郷でもあるの?」
「初めて聞かれたのう。ことさらに喋る事でもないが……おぬしにならば言おう。稼業というのは半ば当たりじゃ。狩りと交易とで稼ぎ、船員たちを食わせておる。それが第一の目的。だが故郷というのは、むしろ逆よ」
「逆? 故郷はないってこと?」
「我が無道丸が、なぜ海を渡るか? それは『楽土』を探すためよ」
「楽土だって……?」
「まだ見ぬ土地。人の手の入っておらぬ土地。住みよい土地。肥沃ならばなおよい。ともかく、そのような地に、船員たちと乗り付ける。そこを拓いて住処とする。それが我が目的じゃ」
「そんな都合のいい土地が……」
シズハは思い出す。エルプラタのことを。
(そうかそのために探していたのか……)




