見えるようになったもの
朝の空気は澄んでいた。
ギルド支部の窓を開けると、遠くから小鳥の声と市場の喧騒が混ざって聞こえる。
いつもと変わらぬ朝、変わらぬ仕事、変わらぬ人々の流れ——のはずだった。
だが、最近のゴルザンには、些細な“歪み”が見えるようになっていた。
「この申請、誰が止めてる?」
「あれ? 報告って……まだ上がってなかったっけ?」
「えーと……ああ、書いたけど、出し忘れてた……かも」
交差する声、曖昧な返答。報告漏れ、備品のズレ、業務連携の小さな隙間。
どれも、以前の自分なら気にしなかったことばかりだ。
だが今は、黙って見過ごすには少しだけ気になる。
「言ったほうがいい。……か」
自分でも気づかぬうちに、ぽつりとつぶやいていた。
***
その日、昼休みに《まるまる亭》でリリアと鉢合わせたゴルザンは、何の気なしに冗談を口にした。
「……あれ、依頼書じゃなくて暗号文か? 翻訳頼みたくなったぞ」
リリアが目を丸くしたあと、ぱっと笑う。
「それ、いいです! ゴルザンさん、普段それくらいでいいと思います!」
リリアが笑いながらマーサに振る。
「ねっ、マーサさんもそう思いますよね?」
「そりゃあねぇ。あんた最初は近寄りがたかったよ。まるで岩の塊。怒ってるのかと思ったもんさ」
マーサが笑いながらも、容赦ない調子で言う。
「……怒っては、ないつもりだ」
「わかってるよ。でも、伝えるってのはさ、言葉だけじゃないけど、言葉がなきゃ伝わらないってのもあるんだよ」
「……そうか」
うなずきながら、ゴルザンは湯気の立つ味噌汁に視線を落とした。
***
その夜、支部の宿舎で湯上がりの身体を拭きながら、ふと脳裏に浮かんだ光景があった。
酒場の木の机、賑やかな夜の空気。あの夜の、ロランの言葉——
『口を閉じてりゃ、余計な摩擦は減る。でもな、黙ってばかりじゃ、味方も増えねぇ』
『歩み寄れ。敬意をもって、相手に近づいてみろ』
そして、思い浮かぶもうひとりの背中。
『例えば、昔、お前が“すげぇ”って思った奴……いなかったか?』
……いた。
前に立つのが自然で、誰よりも多くの言葉で、仲間を引っ張っていた男——ラーク。
自分は、あの背中に何を見ていたのか。
ただ「強い」ではなく、「届く言葉」を持つ人間だった。
思えば、自分はあの時、カレンにも十分に言葉を残せなかった。
守ったが、伝えられなかった——その違いを、ようやく理解しはじめている。
誰に言うでもなく、ゴルザンは小さくつぶやいた。
「……歩み寄る、ね」
言葉は宙に溶けたが、その響きは確かに、胸の奥に残っていた。