第70話『リアルマッチ』
【5月23日(土)朝/越智家・リビング/越智隆之】
出発予定の時間まで、あと三十分。
荷物を確認していると、二階からゆっくりと足音が聞こえてきた。
「……おはよ、たかちゃん」
階段を下りてきたこころは、見るからにいつもと様子が違っていた。
髪は少し乱れ、頬も妙に赤い。
何より普段なら朝から騒がしいくらいなのに、今日は声にまるで力がない。
「どうした」
「んー……ちょっと、だるいかも」
こころが額へ手を当てる。
「熱は?」
「ないない。たぶん寝不足――」
「測れ」
「……はい」
体温計を渡す。
しばらくして、電子音が鳴った。
表示を確認したこころの動きが止まる。
「……三十八度二分」
「今日は無理だな」
「待って」
「何だ」
「薬飲んだら下がるかもしれないし」
「行く気か?」
「だって……」
こころは体温計を握ったまま、視線を落とした。
「今日、ずっと楽しみにしてたんだもん……」
「たかちゃんが大会に出るところ、ちゃんと見たかったし」
「配信があるだろ」
「でも、会場で見たいの」
「駄目だ」
「即答……」
「当然だ」
こころは何か言い返そうとして、小さく咳き込んだ。
「ほら」
「……今のはたまたま」
「説得力がない」
「うぅ……」
そのまま、こころはソファへ沈み込む。
俺は時計へ目を向けた。
母さんは夜勤明けで、午前中には帰ってくる予定だ。
スマートフォンを取り出し、こころの状態を簡潔に送る。
『こころが38.2度。倦怠感と軽い咳あり』
ほどなくして返信が届いた。
『分かった。もう少しで帰るわよ。帰りに薬局にも寄ってくるから、それまで水分取らせて寝かせておいて』
画面を閉じる。
予定通り出れば、母さんが帰るまでこころを一人にすることになる。
意識ははっきりしている。
会話にも問題はない。
それでも――
「……俺も残るか」
「え?」
こころが顔を上げた。
「大会は?」
「欠場する」
「ちょ、ちょっと待って!」
さっきまでぐったりしていたこころが、勢いよく身体を起こした。
「なんでたかちゃんまで休むの!?」
「お前を一人にするわけにはいかないだろ」
「大丈夫だって! もう子どもじゃないんだから」
「三十八度ある人間の言葉に説得力はない」
「あるよ!」
「ない」
「あるってば!」
言い返した直後、こころがまた小さく咳き込む。
「……ほら」
「今のはノーカン」
「何の判定だ」
「と、とにかく!」
こころは一度息を整えると、今度は真っ直ぐ俺を見た。
「たかちゃんまで残らなくていいよ」
「一人にはできない」
「私のせいで出なかったら……その方が嫌だから」
言葉が止まった。
こころは少しだけ困ったように笑う。
「それに――ルナちゃんも待ってるんでしょ?」
そう言って、時計へ目を向ける。
「お母さんも、もうすぐ帰ってくるし」
なら、一つだけ方法がある。
「母さんが帰ってきてから出る」
「え?」
「それなら、お前を一人にする時間はない」
こころが目を丸くした。
「でも、間に合う?」
「余裕は減るが、問題ない」
交通状況に大きな遅れがなければ、受付時間には間に合う。
「だから、それまでは寝てろ」
しばらく俺を見つめていたこころが、ふっと頬を緩めた。
「……ほんと、そういうところ変わったよね」
「何がだ」
「なんでもない」
こころはソファへ横になり直す。
「じゃあ……今日は大人しく配信で応援してる」
「そうしろ」
「絶対見るからね」
「ああ」
「だから、ちゃんと勝ってきて」
「保証はできない」
「そこは『任せろ』でしょー……」
語尾がそのまま弱々しく消えていく。
「じゃあ、せめて――」
こころはブランケットを口元まで引き上げると、少しだけ笑った。
「楽しんできて」
「……ああ」
テーブルの上に、水と体温計を置く。
必要なものが手の届く場所にあることを確認してから、時計へ目を向けた。
母さんが帰ってくるまで、あと少し。
出発予定は変わった。
それでも、まだ修正できる範囲だ。
今日という日は、もう始まっている。
* * *
母さんが帰宅したのを確認して、家を出た。
予定より遅くなったが、受付時間には十分間に合う。
電車を乗り継ぎ、常盤町へ向かう。
駅を出ると、見覚えのある建物が視界に入った。
PLAYX NODE TOKIWA。
ここへ来るのは今月に入って二度目だ。
けれど今日は、入口から様子が違っていた。
『CLANFIELD
中四国エリア オフライン大会』
大きな案内パネルの横を、参加者らしい人たちが次々と通り過ぎていく。
首から参加証を下げた選手、大会ロゴの入ったシャツを着たスタッフ、スマートフォンで会場案内を確認する観客。
打ち上げの日に見かけたポスターの大会が、今は目の前で始まろうとしている。
エスカレーターで三階のイベントフロアへ上がると、ゲームのBGMに混じってマイクを通したスタッフの声が聞こえてきた。
会場中央には何台ものゲーミングPCが並び、その奥には大型モニター。
さらに、選手の顔を映すためのカメラまで設置されている。
思っていた以上に、本格的だ。
受付へ向かい、スマートフォンに表示した大会受付用のQRコードを提示する。
スタッフが端末で読み取り、画面を確認した。
「越智隆之さんですね。プレイヤーネームは『たかちゃん』でお間違いないでしょうか?」
「間違いありません」
参加証を受け取り、首から下げる。
【たかちゃん】
ゲームの中では見慣れた名前だ。
元々は、こころが考えたプレイヤーネームだった。
それがこうして参加証に印字されていると、妙な違和感がある。
受付を離れ、会場を見渡す。
まだ試合開始までは時間がある。
選手同士で話している者もいれば、黙って機材を確認している者もいる。
「……たかちゃん?」
聞き覚えのある声に足を止め、振り返る。
少し離れたところに、銀色がかった髪の少女が立っていた。
首元の参加証には――
【Lunaria】
「……来たんだ」
「ああ」
「そっか」
Lunariaはわずかに視線を逸らした。
「出場登録している以上、来るのは当然だろ」
「……そういう意味じゃないんだけど」
「?」
「……なんでもない」
小さく息を吐く横顔を見て、昨夜の言葉を思い出す。
『じゃあ、また明日』
画面越しでは何度も話しているし、実際に会うのも初めてじゃない。
それでも、互いの胸元にゲーム内の名前があるだけで、今までとは少し違って見えた。
オンラインでは、何度も共に戦ってきた。
そして今日は、勝ち上がれば戦うことになる。
「ねえ、たかちゃん」
Lunariaがこちらを見る。
さっきまでとは違う、いつもの勝ち気な目だった。
「途中で負けたりしないでよね」
「随分勝手な条件だな」
「決勝まで来なさいって言ったでしょ」
「もう当たる前提か」
「当然」
迷いのない即答だった。
「たかちゃんも、そのつもりで来たんでしょ?」
「……否定はしない」
「ふふっ」
Lunariaは小さく笑う。
「じゃあ――あとでね」
「ああ」
軽く手を上げ、そのまま選手待機スペースへ歩いていく。
その背中を見送る。
不思議と緊張はなかった。
それよりも、早く始まってほしいという感覚の方が強い。
『まもなく、CLANFIELD中四国エリア・オフライン大会の受付を終了いたします』
会場にアナウンスが響く。
首から下げた参加証へ、もう一度目を落とす。
【たかちゃん】
ここから先は、ログでも夢でもない。
――現実の勝負だ。




