第64話『コートの中の彼女』
【5月17日(日)午前/常盤高校・テニスコート/越智隆之】
常盤高校のテニスコートは、想像していたよりずっと広かった。
金網で区切られたオムニコートが横一列に並び、その周囲を取り囲むように交流会の参加者や見学者が集まっている。
保護者らしい大人の姿もあれば、他校の競技経験者らしき生徒も目に入った。
休日の学校とは思えないほどの賑わいだ。
乾いた打球音が絶え間なく響く。
シューズがコートを擦る音。
ジャッジの声。
時折上がる歓声。
文化交流会とは空気が違う。
あちらは言葉を交わし、人を知る場だった。
一方、こちらはもっと単純だ。
勝つか、負けるか。
良いプレーか、そうでないか。
結果がそのまま評価になる。
だからこそ、見ている側も自然と試合へ引き込まれていく。
「わぁ……応援してる人、多いね」
河田がフェンス越しのコートを見つめる。
俺たちもフェンス沿いの空いた場所で足を止めた。
「休日開催だからな。保護者も結構見に来てる」
学校同士の親善試合とはいえ、フェンス沿いには多くの見学者が集まっていた。
競技経験者なら相手校の実力も気になるだろうし、見ているだけでも十分楽しめる。
「見応えありそうだな」
神田が珍しく感心したように呟く。
「神田くんも見るの好きなんだ?」
「まあな。こういう勝負は見てて分かりやすい」
そう言って神田は金網の向こうへ視線を向けた。
俺もコートを見る。
白を基調としたテニスウェアに身を包んだ二人がコートへ入っていく。
「あっ、犬神さんと高橋先輩だ!」
河田が勢いよく指を差す。
ちょうど犬神たちの試合が始まるところだった。
犬神はラケットを軽く肩へ掛け、いつものように晴れやかな表情で歩いていた。
「よーしっ! 思いっきり楽しむぞーっ!」
元気な声がコート中へ響き渡る。
周囲の視線が一斉に集まった。
「犬神さん」
高橋先輩が静かに呼ぶ。
「はいっ!」
「気合いを入れるのは結構ですわ。
ですが、もう少し落ち着きなさい」
「あうっ……そんなに大きかったですか?」
「ええ。周りの皆さんが、こちらを見ていましたから」
犬神が辺りを見回す。
確かに何人かが苦笑しながらこちらを見ていた。
その瞬間、頬がみるみる赤く染まっていく。
「うぅ……気を付けます……」
「それでよろしいですわ」
高橋先輩は小さく頷く。
「ですが、その意気込みは悪くありません」
「ありがとうございますっ」
さっきまで赤くしていた頬には、もう笑顔が戻っていた。
「ふふっ、犬神さんらしいね」
河田は目を細めて笑った。
「そうだな。遠くからでもどこにいるか分かる」
神田のその一言で、
不意にある日の光景が脳裏をよぎった。
――日向高校、放課後のテニスコート。
初めてテニス部を見学した日だ。
あの時も犬神は、高橋先輩とダブルスを組んでいた。
当時から運動能力は高く、ボールへの反応も速かった。
――だが。
今こうして見ている犬神は、あの頃とはどこか違って見える。
その理由は、まだ分からない。
*
試合開始。
高橋先輩のサーブで幕を開けた。
鋭い一球が相手を後ろへ押し込み、返球が浅く浮く。
「犬神さん!」
高橋先輩の短い声。
「はいっ!」
迷いなく前へ踏み込む。
――パァンッ!
白球は一直線に相手コートへ突き刺さった。
「よしっ!」
犬神が小さく拳を握る。
高橋先輩は何も言わず、一度だけ小さく頷いた。
犬神も頷き返し、すぐに次のポジションへ戻っていく。
その短いやり取りだけで、意思が通じているように見えた。
以前見たダブルスとは、そこが違っていた。
高橋先輩が決める。
犬神はその背中を追い掛ける。
少なくとも、あの頃の俺にはそう見えていた。
だが今は違う。
高橋先輩は迷わず犬神へ託し、
犬神もまた、その期待に迷いなく応えている。
「犬神さん、すごくいい顔してるね」
河田がぽつりと呟く。
言われてみれば、その通りだった。
不思議と、前より安心して見ていられる。
神田が視線をコートへ向けたまま口を開いた。
「動きに迷いがない。任される側の余裕があるな」
その言葉に頷く。
俺も同じことを感じていた。
高橋先輩が何を求めているのか。
自分がどこへ動けばいいのか。
考えるより先に、身体が自然と動いている。
だから迷わない。
その一球一球に、無駄がなかった。
その間にも、ラリーは途切れることなく続いていた。
高橋先輩が深く打ち込み、犬神が前へ詰める。
相手も簡単には崩れない。
速いテンポで打ち合いが続く中、
それでも二人の呼吸だけは少しも乱れなかった。
空いたスペースを突き、最後はまた犬神が決めた。
「今の連携、すごいな」
神田が感心したように呟く。
その言葉で、ようやく腑に落ちた。
以前見たダブルスと、組み合わせは変わっていない。
プレースタイルも、大きく変わったわけじゃない。
それなのに、まるで別のペアを見ているようだった。
犬神が変わった。
それだけじゃない。
高橋先輩との関係も、あの頃とは変わっていたように見えた。
*
「なんかさ……犬神さんの良さって、高橋先輩が引き出してる気がする」
河田が試合を見つめたまま呟く。
「ああ」
俺も小さく頷き、もう一度コートへ目を向けた。
中学生の頃には、すでに高橋先輩はこの地域でも名の知れた実力者だった。
誰よりも冷静で、試合を組み立てることに長けていて、どちらかと言えば自分で勝負を決めるタイプだった。
そんな高橋先輩が、今は迷いなく犬神へ託している。
二人の間には、それだけの信頼が築かれたということなのだろう。
「――もう始まってたか」
聞き慣れた声に振り返る。
長谷川だった。
「あっ、長谷川先輩。バスケはもう終わったんですか?」
河田が尋ねる。
「ああ。向こうも片付いたからな」
そう言って長谷川は俺たちの隣へ立ち、そのままコートへ視線を向けた。
しばらく無言でラリーを見つめたあと、
河田がぽつりと呟く。
「相手、なかなか崩れないね……」
「そうだな。県内屈指の強豪校だからな」
長谷川は静かに答えた。
「えっ……そんなに強い相手なんですか?」
「ああ。毎年県大会の上位常連だ。全国へ行っても不思議じゃない実力がある」
その説明を聞きながら、改めてコートへ目を向ける。
確かに、相手は簡単には崩れなかった。
高橋先輩の深いショットにも食らいつき、犬神が前へ詰めても粘り強く返してくる。
一本では決め切れない。
高橋先輩がコースを変え、犬神が前で圧をかける。
それでも相手はロブで頭上を抜き、深いボールで後ろへ押し戻してくる。
「さっきまで押してたのに……」
河田が思わず漏らす。
「修正してきたな」
長谷川が俺へ視線を向ける。
「隆之、常盤は何を狙っているか分かるか?」
「……犬神を動かして、高橋先輩との形を崩そうとしている」
「その通りだ。玲奈は簡単に崩れない。だから先に犬神を動かして、二人の形を崩しにきてる」
相手は犬神を警戒し始めていた。
前へ出ればロブで揺さぶり、下がれば深いコースへ打ち込む。
犬神へ配球を集め、二人の連携を少しずつ乱していく。
それでも犬神は、ポイントのたびに明るく声を掛け続ける。
一本ごとに高橋先輩と目を合わせ、小さく頷いて次のポイントへ切り替えていく。
気付けば、俺は犬神だけを目で追っていた。
ポイントを取った時だけじゃない。
取られた時も表情を崩さず、すぐに次へ切り替えていた。
以前なら、勢いだけで突っ込む場面もあった。
だが今は違う。
高橋先輩の動きを見て、自分の役割を理解し、その一球ごとに最善を選ぼうとしている。
その変化は、コートの外からでもはっきり分かった。
「驚いたな……」
神田がぽつりと口を開く。
「犬神の試合は初めて見たが、もっと勢い任せのタイプだと思っていた」
「だが、今のラリーで考えが変わった。
犬神が動くたびに、高橋先輩の選択肢が増えている」
「神田、良いところ見てるな」
長谷川が小さく笑う。
「あの二人が噛み合うと、簡単には止まらない」
その言葉を裏付けるように、コートでは息つく間もなくラリーが続いていた。
だが、相手も県内屈指の強豪校。
流れを渡したまま終わるような相手ではなかった。
河田が胸の前で小さく拳を握る。
「がんばれ……犬神さん、高橋先輩」
*
試合は、ここからが本番だった。
鋭いクロス、深いロブ、ネット際へのドロップ。
相手は手札を変えながら、簡単には流れを渡さない。
県内屈指と呼ばれる理由が、見ているだけでも分かった。
「終盤で崩れない。
こういう相手は、最後の一本が遠い」
長谷川の低い声が漏れる。
「あと少しなのに……」
河田がコートを見つめたまま、小さく息を漏らした。
コート全体の空気が、少しずつ張り詰めていく。
試合はファイナルゲームを迎えていた。
このゲームを取った方が、この試合に勝つ。
ここまで競り合った末の――最後の勝負だった。
誰も口を開かなかった。
聞こえてくるのは、コートに響く打球音。
高橋先輩がサーブを放つ。
鋭く伸びた一球を、相手が深く打ち返した。
ラリーが始まる。
高橋先輩が深く左右へ打ち分ける。
相手も粘り強く返す。
犬神がネット際へ詰める。
ボレーも返される。
高橋先輩がさらに深いコースへ打ち込む。
それでも、相手は崩れなかった。
「まだ返すの……?」
河田の声が小さく震えた。
だが、犬神は止まらない。
一歩、また一歩。
苦しい体勢からでもラケットを伸ばし、必死にボールへ食らいつく。
やがて、相手の返球がわずかに浮いた。
「犬神さん!」
高橋先輩の声が飛ぶ。
「はいっ!」
犬神が一気にネットへ詰める。
迷いなく踏み込み、そのままラケットを振り抜いた。
白いボールはライン際へ鋭く伸びていく。
――決まった。
誰もがそう思った。
だが。
「アウト!」
静かなコールが、コートに響いた。
ほんのわずか。
ボールはラインの外へ落ちていた。
一瞬、時間が止まる。
犬神はその場で足を止め、視線だけを白いラインへ落とした。
ゲームセット。
審判のコールが、試合の終了を告げる。
二人はラケットを握ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
その数センチが、勝敗を分けた。
やがて犬神は小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。
高橋先輩が隣へ歩み寄った。
「犬神さん」
「……はい」
悔しさを押し殺すような返事だった。
「よく戦いましたわね」
「……すっごく悔しいです……」
「――でも、最後まで攻め切れましたっ」
高橋先輩は穏やかな眼差しで犬神を見つめ、
小さく頷いた。
「ええ。それでいいのですわ」
そのまま犬神の肩へ、そっと手を添える。
「その一球を迷わなかったことを、
わたくしは誇りに思います」
「……はいっ!」
返事と一緒に、小さく笑った。
高橋先輩と犬神は相手ペアの前まで歩み寄り、
深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
犬神の元気な声に、相手ペアも笑顔で応じる。
互いにラケットを軽く合わせ、健闘を称え合った。
「あっ!」
犬神がこちらへ気付く。
「みんなーーっ!」
河田が思わず吹き出した。
「あはっ、もう元気になってる!」
神田も小さく笑い、照れくさそうに片手を上げる。
「……あいつらしいな」
長谷川が呆れたように言ったが、その声には少しだけ笑いが混じっていた。
俺も軽く手を上げて応えた。
犬神はさらに嬉しそうに笑った。
その笑顔を見つめながら、胸の奥に小さな疑問が残る。
――それなのに。
負けたのに、なんであんなに笑顔でいられるんだ。
悔しくないはずがない。
あれだけ勝ちにこだわっていた。
最後まで、誰よりも勝負を諦めていなかった。
最後の一本まで攻め続け、負けてもなお
――前を向いて笑える。
それこそが、犬神という人間の魅力なのかもしれない。
歓声はまだ続いている。
コートの向こうで、犬神は最後にもう一度手を振った。
その姿を眺めながら、俺は静かに息を吐く。
いつの間にか肩に入っていた力が抜け、
穏やかな余韻だけが胸に残っていた。




