第63話『勝てたら教えてあげる』
目を開く。
視界を埋めたのは、やはり白だった。
境界は見えない。
奥行きも曖昧だ。
床らしいものは存在しないはずなのに、自分が立っているという感覚だけは失われていない。
空間というより、認識だけが成立している場所――
そんな印象だった。
――またここか。
驚きはない。
前回と同じなら、もうすぐ現れる。
そう考えた直後、白一色だった空間に微かな揺らぎが生まれた。
水面へ波紋が広がるように空気が震え、その中心から輪郭が少しずつ形を持ち始める。
前回よりも、その輪郭は明瞭だった。
長い銀髪。
高い位置で結ばれたツインテール。
白しか存在しない世界の中で、そこへ結ばれた白いリボンだけが、不思議なほど鮮明だった。
「顔に出てるわよ」
姿を現すなり、それが第一声だった。
「何がだ」
「気になって仕方ないって顔」
Lunariaは肩を小さくすくめる。
「そんなつもりはない」
「自覚ないのね」
間髪入れず返ってきた。
どうやら今回も、向こうのペースで話が進むらしい。
「答えは見つかった?」
「いや」
短く返すと、Lunariaは小さく頷いた。
「でしょうね」
「ずいぶんな言いようだな」
「だって、まだ入口にも立ってないもの」
意味深な言い回しだった。
その真意を問いただそうとしたが、
それより早くLunariaが続けた。
「犬神神社……調べたんでしょ?」
「少しだけな」
否定する理由はなかった。
「それで?」
「分からないことが増えた」
調べれば調べるほど、辻褄が合わなくなる。
何かへ近づいている感覚はある。
それなのに全体像だけが、霧の向こうへ遠ざかっていくようだった。
「そういうものよ」
Lunariaは白い空間のどこか遠くへ視線を向ける。
「知ってるんだな」
「それなりには」
「どこまで知ってるんだ」
彼女は少しだけ笑った。
「それを教えたら面白くないじゃない」
予想通りの返答だった。
問い詰めても答える気はない。
それくらいは、もう分かっている。
「それに」
Lunariaがこちらへ視線を戻す。
「自分はカードを伏せたままなのに、相手にだけ手札を見せろなんて、フェアじゃないと思わない?」
「……どういう意味だ」
「あたしに秘密があるように――
あなたにだって『誰にも言えない秘密』がある」
俺は言葉を失った。
否定はしなかった。
いや、できなかった、という方が正しいのかもしれない。
「別に悪いとは言ってないわ」
彼女は小さく笑う。
「でも、理屈ばっかり追ってると、
大事なものを見落とすわよ」
その言葉だけが妙に耳へ残った。
その意味を考えようとした。
だが、聞き返す前に、Lunariaは何事もなかったように話題を切り替えた。
「そういえば、クランフィールドの地区大会、出るんでしょ?」
「ああ」
「たかちゃんって、よく見てるわよね」
「……何のことだ」
Lunariaは小さく笑った。
「数字だけで勝てるなら誰も苦労しないわ。
ステータスだけじゃ、勝てない相手もいるもの」
その言葉の真意は読み切れなかった。
それでも、その一言だけは妙に引っ掛かった。
「それを証明するつもりか」
Lunariaは小さく笑う。
「試してみれば分かるわ」
思わず苦笑する。
「自信だな」
「当然。負ける気ないもの」
ゲームの中で何度も見てきた。
Lunariaは強い。
そして、その強さを誰より理解している。
だから、その言葉に迷いは一切なかった。
少しの沈黙のあと、Lunariaが静かに口を開く。
黒紫の瞳が真っ直ぐこちらを見据えていた。
「犬神神社のこと、知りたいんでしょ?」
俺は黙る。
否定する理由はなかった。
彼女はわずかに口元を上げる。
「決勝で、あたしに勝てたら――」
ほんの一拍置いて、続けた。
「教えてあげてもいいわ」
冗談を言っている顔ではなかった。
「本当か」
「本当。勝てたらね」
その瞬間だった。
白い空間へ一本の細い亀裂が走る。
夢が終わる。
そう直感した。
景色が音もなく崩れ始める中、それでもLunariaだけは最後までその場へ立ち続けていた。
「たかちゃん」
「なんだ」
「神社を追うのは勝手だけど」
崩れていく白の中で、彼女の姿だけが揺らがない。
「近付きすぎないことね」
「理由は」
Lunariaは答えない。
ただ――ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「そのうち分かるわ」
次の瞬間、白い世界は静かに砕け散った。
*
【5月17日(日)朝/越智家/越智隆之】
見慣れた天井が視界に入る。
夢だったとは思えないほど、今回も現実感があった。
耳には、Lunariaの言葉だけが残っていた。
『――近付きすぎないことね』
その響きは、ただの忠告とは思えなかった。
しばらく天井を見つめたまま、息を吐く。
今日は文化交流会に続く、スポーツ交流会の日だ。
午前は常盤高校のテニスコートで、犬神たちテニス部の応援。
午後は神田、河田たちと打ち上げへ行く予定になっている。
答えは、あとで確かめればいい。
*
着替えを済ませ、一階へ降りる。
キッチンでは母さんがエプロン姿で朝食を並べていた。
食卓には茶碗や小鉢が並び、朝の支度は整っている。
「あら、隆之。おはよう」
「おはよう、母さん」
「朝ごはんできるから、こころちゃん起こしてきてくれる?」
「ああ」
返事だけして階段へ向かった。
昨夜も遅くまでクランフィールドをしていたのだろう。
俺が先にログアウトしたあとも、こころはしばらくオンラインのままだった。
二階へ上がり、こころの部屋の前で足を止める。
軽く二度ノックした。
「こころ」
返事はない。
「起きてるか」
もう一度声を掛けても反応はなかった。
ここまで静かなら、まだ眠っている可能性が高い。
「入るぞ」
必要事項だけ告げてドアを開ける。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を柔らかく照らしていた。
棚には『CLANFIELD』の公式アートブックが何冊も収まり、その特等席には推し精霊獣の精巧なフィギュアが飾られている。
その隣には、イベント限定らしい《もふラビ》のぬいぐるみも並んでいた。
机には生徒会の資料とゲーム雑誌。
物は多い。
だが、散らかった印象はない。
本人なりのルールで、カテゴリごとに整理されているのだろう。
当の本人は――
こころは毛布を蹴り飛ばしたまま眠っていた。
寝返りを繰り返した結果だろうか。
下着姿のまま、《フレネック》の巨大なぬいぐるみに顔をうずめるようにして横になっている。
ベッドの下に目をやれば、丸まった毛布のそばに、
抜け殻のようなパジャマが転がっていた。
寝ぼけて自分で脱ぎ捨てたのだろう。
落ちていた毛布を拾い上げ、静かに掛け直した。
「風邪を引くぞ」
当然ながら返事はない。
規則正しい寝息だけが、小さく部屋へ響いていた。
呼吸のリズムは安定している。
睡眠の質に問題はなさそうだ。
「朝だ」
肩を軽く揺する。
反応なし。
「朝食に遅れるぞ」
反応なし。
「起きろ」
その途端、こころが小さく唸りながら寝返りを打った。
「ん〜……」
直後。
ぎゅっ。
「……」
腕を掴まれた。
……抱き枕と認識されたらしい。
頬を寄せたまま離す気配はない。
体温だけが伝わってくる。
それ以上でも、それ以下でもない。
【生体ログ:越智隆之】
▶ 心拍数:72 → 78 → 81
▶ 呼吸深度:+0.8
▶ 体表温度:微上昇
▶ 判定:覚醒直後による一時的変動
▶ 備考:測定誤差の範囲内。……おそらく。
「たかちゃ〜ん……」
寝言。
意識レベルは依然として低い。
「あと五分〜……」
拘束は継続中だった。
「こころ、起きろ」
「ん〜……」
肩を揺すっても離す気配はない。
【生体ログ:朝比奈こころ】
▶ 覚醒レベル:12%
▶ 会話応答:やや可能
▶ 認知機能:省電力モード
▶ 食事関連ワード:高感度反応
▶ 抱き枕認識対象:俺
▶ 判定:正常運転
意識はまだ睡眠状態。
それにもかかわらず、会話だけは成立している。
どういう処理能力だ。
「朝だ」
「やだ〜……」
「母さんが呼んでる。朝ごはんだ」
「ごはん〜……」
反応した。
食事関連ワードだけは正常に認識しているらしい。
念のため別の食事ワードで検証する。
「ブロッコリー」
「……チハルちゃん、お弁当作ってあげるからねぇ……」
想定外の反応あり。
仮説を更新する。
どうやら睡眠中でも、食事と犬神に関する情報は優先的に処理されるらしい。
論理的には、もう起きていてもおかしくない。
理解に苦しむ。
「ごはんっ!?」
こころの目が勢いよく開く。
数秒間、動きが止まる。
俺の腕。
抱きついたままの自分。
視線が何度か往復し、状況を整理しているらしい。
「……あれ?」
「起きたか」
「たかちゃん?」
「起きたなら離せ」
再び沈黙。
数秒遅れて状況を理解したらしい。
こころの頬が一気に赤く染まる。
「あーーーーっ!?」
悲鳴が響き渡る。
その声を背中で聞きながら、俺は何事もなかったように部屋を後にした。
*
手すりに軽く触れながら一段ずつ降りていくと、階下からは味噌汁の香りがふわりと漂ってきた。
鰹出汁の優しい匂いが鼻先をくすぐる。
ひんやりとした朝の空気の中、その温かさだけがやけに穏やかに感じられた。
キッチンでは母さんがエプロン姿で、味噌汁をよそいながらこちらに気づいて振り返る。
「……あら、今の悲鳴ってこころちゃん?」
「ああ」
「……あなた、また何かしたんじゃないでしょうね?」
「起こしただけだ。何もしていない」
「その言い方がもう怪しいのよ」
母さんは呆れ半分、面白がるように笑った。
少しして。
「たかちゃ〜んっ!!」
階段を駆け下りる足音が近づく。
ほどなくして、こころが勢いよく姿を現した。
寝癖の残る髪を揺らしながら、明らかに不服そうな表情でこちらを指差してくる。
「ひどいよ〜! 朝からびっくりしたんだから!」
「起こしただけだ」
「勝手に部屋入ってこないでよぉ!」
「ノックはした。母さんから許可も得ている」
「それ、部屋まで入っていいとは言ってないでしょ〜!!」
「起こさないと意味がない」
「もぉ〜……そういうことじゃないの!」
こころは両手をぶんぶん振りながら、さらに声を張り上げる。
「乙女の秘密、見られちゃったじゃん!
まだ心の準備できてなかったのにぃ!」
「部屋は整理されていた」
「そこじゃないってば……! ……うぅ、もうお嫁にいけないよぉ……」
こころは力なく項垂れた。
「はいはい、朝から元気ねぇ。転ぶから階段ではしゃがないの」
「だってたかちゃんが〜!」
「心当たりがない」
あるとすれば、蹴り飛ばしていた毛布を掛け直したくらいだ。
「絶対あるもん!」
「ふふっ。でも、その様子ならちゃんと目は覚めたみたいね」
「それとこれとは別なんだから〜!」
頬を膨らませたまま、こころも食卓へ向かう。
「まだ許してないんだからね〜」
食卓に並んだ朝食を見た瞬間――
こころの表情が一変した。
さっきまで頬を膨らませていたのに、今度は目をきらきらと輝かせながら席へ駆け寄る。
その変わり身の早さに思わず感心するほどだった。
焼き鮭に卵焼き、湯気の立つ味噌汁。
こんがり焼けた鮭の皮は朝日を受けて艶やかに光り、卵焼きからはほんのり甘い香りが漂う。
炊きたての白米からは湯気とともに優しい甘みのある匂いが立ち上り、香ばしい鮭の香りと混ざって食欲を刺激した。
いつもの朝食だ。
だが、こころにとっては十分ごちそうらしい。
「わぁ〜! 今日は鮭なの〜?」
「そうよ。昨日スーパーでいいのがあったの。朝はしっかり食べなさいね」
「やった〜♪」
さらに卵焼きを見つけて嬉しそうに身を乗り出す。
「卵焼きもある〜!」
「こころちゃんが好きだから作ったのよ」
「やったぁ〜♪ お母さんの朝ごはん、ひさしぶり〜!」
「夜勤が続いてたものね。たまには、お母さんにも作らせてちょうだい」
「そのぶん、今日はいっぱい食べる〜!」
「はいはい。隆之の分もちゃんと残してあげてね?」
「一つで十分だ」
「そう言っても、こころちゃんが全部食べちゃいそうなんだもの」
「食べないよ〜! ……たぶん!」
「たぶんか」
こころは味噌汁の湯気を胸いっぱいに吸い込み、幸せそうに目を細めている。
俺も席につき、箸を取る。
「いただきますっ!」
元気よく手を合わせるこころに、母さんも微笑みながら手を合わせた。
「はい、いただきます」
「どうやら機嫌は直ったらしいな」
「だって朝ごはんは別腹なんだもん」
「意味分かってないだろ」
「細かいことはいいの〜」
理屈は通っていない。
それでも、こころなら不思議と成立してしまう。
俺も椀を手に取り、味噌汁を一口飲む。
立ち上る湯気が頬をかすめ、出汁の旨味と味噌のまろやかな風味がじんわりと口いっぱいに広がる。
具は豆腐とワカメ。どちらも定番の組み合わせだ。
だからこそ、この味噌汁が一番落ち着く。
寝起きの身体に、その温かさがゆっくり染み渡っていった。
「今日のお味噌汁、どう?」
母さんが何気なく尋ねてくる。
「うまい」
「やっぱりお母さんのお味噌汁が一番好き〜!」
「ふふ、ありがとう」
それだけで満足そうに笑う母さんを横目に、俺はもう一口味噌汁を飲んだ。
じんわりと身体に染み渡る温かさと、湯気の向こうにある穏やかな食卓。
――それがあまりにも現実的だからこそ、ふと、あのときの白い空間が脳裏をよぎった。
音もなく、風もなく、時間さえ止まっているような、温もりの欠片すらない静寂。
Lunariaはその中心に立っていた。
白の中に溶け込むようでいて、決して見失えない存在感。
夢だったはずなのに、その視線を思い出した瞬間、
説明のつかない違和感が走る。
『――あたしに勝てたら教えてあげてもいいわ』
クランフィールド地区大会決勝。
Lunariaとの対戦の先に、何かが待っているというのか。
……ただの夢だ。
そう割り切るには、あまりにも鮮明すぎた。
まるで、これから起こる何かを前もって見せられたような――そんな嫌な感覚。
「たかちゃん?」
こころの声で現実に戻る。
顔を上げると、向かい側からじっとこちらを覗き込まれていた。
その様子を見た母さんも首を傾げる。
「どうしたの? さっきから上の空だけど」
「なんか難しい顔してる〜」
「してない」
「してるってば〜」
「母さんにもそう見えるわね」
二対一だったので反論はやめた。
こころは鮭をほぐしながら、楽しそうに話題を変える。
「私は今日は、お留守番〜。
ひよこちゃんの初心者講習会があるからね」
「クランフィールドのか」
「そうそう〜♪ ルナちゃんとあまちゃんも来る予定なんだよ」
それを聞いただけで嬉しいのか、こころの声はいつも以上に弾んでいた。
「たかちゃんも頑張ってね〜」
「俺は応援だ」
「犬神さんの?」
「テニス部全体」
「はいはい〜♪ そういうことにしとくね〜♪」
まったく信じていない顔だった。
「膝、無理しちゃ駄目だからね」
母さんが当たり前のように言う。
「見学だけだ。運動はしない」
「分かってるけど、心配しちゃうのよ」
「……分かった」
短く返事をして、ご飯を口へ運ぶ。
「そういえば長谷川くんとのバスケ勝負、聞いたよ」
「そうか」
「玲奈ちゃんから聞いたの。
『熱い試合だったみたいですわ』って」
「生徒会は情報が回るのが早いな」
「ふふふっ、生徒会ネットワーク、甘く見ちゃ困るよ?」
こころが得意げに笑うと、母さんもくすりと笑った。
「バスケって聞くと、お父さんを思い出すわね」
箸を持つ手が一瞬だけ止まる。
「あの人も学生の頃は、ずっとバスケをやってたもの」
「たかちゃん、小さい頃はお父さんによく教えてもらってたよね〜」
覚えている。
休日になると、近所の公園へ連れて行かれた。
ドリブル。
パス。
シュート。
何本外しても、怒られることはなかった。
『大丈夫。もう一本いこう』
そう言って笑いながら、何度でもボールを渡してくれた。
「あの人、隆之のこと褒めてたものね」
母さんが懐かしそうに微笑む。
「飲み込みが早いって、よく言ってたわ」
「……そうだったな」
それだけ返して、ご飯を一口運ぶ。
あの頃は、ただ言われるままボールを追いかけていただけだった。
「ちょっと意外だったかも〜」
「意外?」
「バスケ辞めてからのたかちゃんなら、長谷川くんの勝負も『受ける理由がない』って言いそうだったし」
そうかもしれない。
バスケを辞めてからの俺なら、勝負を挑まれても適当に流して終わらせていただろう。
それでも今回は、断る気にはならなかった。
「でもさ〜」
こころがにやりと笑う。
嫌な予感。
こういう顔をするときは、大抵ろくなことを言わない。
「最近のたかちゃん、なんだか楽しそう〜♪」
「気のせいだ」
即答する。
「そうかな〜? 犬神さんの影響、とか?」
悪戯っぽく笑いながら、こころは卵焼きを口へ運ぶ。
「ふふっ、こころちゃんの言うことも、あながち間違いじゃないかもね」
母さんが微笑む。
「最近の隆之、前より色んなことに顔を出すようになったじゃない?」
「……そうか?」
「そうよ。家に帰ってきても前より話すし、表情も増えた気がするわ」
「そんなに変わってない」
「本人はそう言うのよねぇ」
母さんは柔らかく笑った。
からかわれているわけでも、深い意味があるわけでもない。母親らしくそう思っただけなのだろう。
面倒だ。
そう思っていても、窓から差し込む柔らかな朝日が食卓を明るく照らし、食器の触れ合う小さな音と賑やかな会話が部屋に満ちている。
焼き鮭の香ばしさと味噌汁の湯気に包まれながら家族と過ごす朝も、悪くない。
穏やかで、平和で、何も起こらないはずの朝。
だからこそ、胸の奥に残る違和感だけが妙に際立っていた。
夢の中のLunariaの言葉。
そして説明のつかない予感。
それでも今は、考えても答えは出ない。
だから俺は、目の前の一日を進むしかなかった。




