第62話『看板娘は忙しい』
【5月16日(土)朝/Aroma Café ササクラ・2階自室/笹倉一香】
ふわぁ……。
なんか甘い匂いがする。
クッキーだ。
もう一回、くんくんっと匂いを確かめる。
うん。
絶対クッキー。
……でも、なんでこんな朝早くから?
カーテンの隙間から朝日が入り込んでいて、
床に光がすーっと伸びている。
外では小鳥がちゅんちゅん鳴いていた。
あたしはベッドの上でぐーっと伸びをする。
枕元の時計を見て――
「……まだ七時じゃん」
土曜日なのに早起きとか、
ちょっと損した気分なんだけどっ?
……いや、違う違う。
クッキーの匂いに起こされたんだ。
……たぶん。
そのとき、
かたんとドア下の猫扉が揺れた。
ぽすっ。
ベッドへ飛び乗る音がして、足元へふわりと毛が触れる。
トラだ。
しっぽをぴんと立てながら、ベッドの上をのしのし歩いている。
ごろごろごろ。
しっぽの根元の毛だけが、ぶわっと膨らんでいた。
……今日は、かなりご機嫌らしい。
朝日を浴びた淡いオレンジ色の毛並みが、
少しだけ金色に見えた。
「おはよ、トラ〜」
あたしはベッドの端に腰掛けながら、そっと頭を撫でる。
「ニャア〜♪」
満足そうに目を細める。
……この子、絶対自分が可愛いって分かってるんだけどっ?
思わずトラをぎゅーっと抱きしめる。
すーっ。
お日様みたいな香り……。
「ニャッ!」
けりけりけりっ。
後ろ足がびしばし飛んでくる。
「いたたたたっ!?」
腕の中から抜け出したトラは、
もう何事もなかったみたいに、あたしの足へ顔をすり寄せてきた。
すりっ。
すりすりっ。
……どうやら朝ごはんのおねだりらしい。
「蹴ったの誰だっけ〜?」
さっきまであんなに暴れてたのにね、
切り替え早すぎでしょ。
ほんと、ちゃっかりしてるんだから。
部屋を出ると、トラは行き先が分かっているみたいに先を歩いていく。
洗面所の横に置いてある猫用のお皿へ、カリカリを入れる。
がつがつ。
すごい勢いで食べ始めた。
あたしはその場にしゃがみ込む。
「そんなにお腹空いてたの?」
返事はない。
がつがつ食べ続けている。
夢中すぎでしょ。
……ぐぅ〜。
あたしのお腹まで鳴っちゃった。
ふわりと、鼻をくすぐる焼き菓子の香りが、
二階の廊下まで流れ込んでくる。
こんなタイミングで来るのはずるい。
……でもその前に。
顔を洗って、歯磨きも済ませなきゃ。
部屋に戻って、クローゼットからお気に入りの服を引っ張り出して、手早く着替える。
鏡の前で髪を整えて、
「よしっ」
小さく頷く。
部屋を出ようとした、そのとき――
「ごちそうさまでした〜っ!
元気チャージ完了〜っ!」
階段の下から聞こえてきたのは、お姉ちゃんの元気すぎる声だった。
朝からテンション高すぎなんだけどっ?
*
階段を降りると、店内にはいつもの朝の香りが広がっていた。
焼きたてのクッキー。
紅茶の茶葉。
それから、ママが並べているアロマオイルのやさしい香り。
この匂いをかぐと、
なんだかいつもの朝って感じがする。
入口近くでは、お姉ちゃんがリュックを背負いながら出かける準備をしていた。
「今日は帰り遅くなるかも〜っ!」
「気を付けてね〜」
あたしがそう返すと、お姉ちゃんはなぜか満足そうに笑う。
「じゃあ行ってきまーすっ!」
ばたん。
扉が閉まる。
「……嵐が通り過ぎたみたいなんだけど」
「ふふっ」
カウンターの向こうで、ママが小さく笑った。
「梓、今日も元気ね」
「いつも通りでしょ?
朝から元気すぎるんだけどっ」
そう言うと、ママはますます楽しそうに笑う。
「一香も朝ごはんにしましょうか」
「あっ」
言われた瞬間、お腹がぐぅっと鳴った。
……タイミング良すぎじゃないっ?
テーブルの上には、トーストとスクランブルエッグ。
それから小さなサラダとホットミルク。
「いただきますっ!」
焼きたてのトーストをひと口かじる。
さくっ。
バターの香りがふわっと広がった。
うん。
やっぱり朝はこれなんだよね。
「おはよう、一香」
カウンターの奥から声がする。
振り向くと、パパが焼き上がったクッキーの天板を持って立っていた。
「パパ、おはよ〜♪」
「今日はママのアロマ教室の日だからな」
「そっか」
「あ、だから朝からクッキー焼いてたんだ」
「正解」
パパが少しだけ笑う。
「教室のお客さんに出すんだよ」
「なるほど〜」
「梓もいないし、今日は忙しくなりそうだな。
看板娘がいてくれると助かる」
あたしは少しだけ考えるふりをする。
……まあ、本当は断る気なんてないんだけど。
「仕方ないなぁ。別にいいけどっ?」
そう答えると、パパとママは顔を見合わせて笑った。
なにその反応。
ちょっと気になる。
朝ごはんを食べ終える頃には、
店内にも少しずつお客さんの気配が増え始めていた。
あたしは控室代わりのスペースで、いつものエプロンを手に取った。
白を基調にした制服風のデザイン。
このエプロンを着ていると、
「今日も頑張ってるねぇ」なんて常連さんによく声を掛けられる。
……ちょっと恥ずかしいんだけど。
でも、これ着るとなんだか店員さんっぽくて好き。
腰の後ろでリボンをきゅっと結ぶ。
エプロンの裾をぴしっと伸ばす。
鏡を見て確認。
うん。
たぶん大丈夫。
両手を胸の前でぎゅっと握る。
「よーしっ!」
お姉ちゃんがいなくったって――
あたしだって、
少しくらいは役に立てるはずなんだからっ。
*
開店してしばらくすると、
お店にも少しずつお客さんが増え始めた。
「いらっしゃいませっ♪」
入口のベルが鳴るたびに声を掛ける。
お水を運んで、注文を聞いて、空いたお皿を下げる。
別に初めてじゃない。
小さいころから見てきたし、週末はこうして手伝うことも多い。
なんだかんだで、
こうしてお店を手伝う時間は好きなんだよね。
「一香ちゃん、今日もお手伝い?」
常連のおばあさんが声を掛けてくる。
「う、うん。
今日はちょっと忙しいみたいだから」
「ふふっ。偉いわねぇ」
おばあさんは楽しそうに笑った。
むぅ。
なんでみんな、そうやって笑うんだろう?
あたし、お店を手伝ってるだけなんだけどなぁ。
そのときだった。
カラン♪
入口のベルが鳴る。
「あっ」
思わず声が出た。
ネイビーのロングスカート。
肩まで伸びた黒髪。
九条詩織お姉ちゃんだった。
「おはようございます」
いつも通りの穏やかな声。
詩織お姉ちゃんが来ると、なんだか安心するんだよねぇ。
「おはよーございますっ!」
「ふふっ。今日も元気ね、一香ちゃん」
そう言いながら、詩織お姉ちゃんは慣れた様子でカウンターの奥へ入っていく。
白いエプロンを身につけ、紅茶の準備を始める。
詩織お姉ちゃんって、
大人っぽいし、仕事できるし、優しいし。
しかも美人さんで、なんだかキラキラしてるし。
常連さんから人気なのも、なんだか分かる。
あたしもお店を手伝ってるんだけどさ、
看板娘って言われたら――
たぶん詩織お姉ちゃんの方が、すっごく似合う。
……なんかずるい。
「あたしも、もうちょっと大人っぽくなりたいんだけどなぁ……」
思わずぼそっと呟く。
「何か言った?」
「べ、別になんでもないんだけどっ!」
「ふふっ」
そのあとも、
お水を運んだり注文を聞いたりしているうちに、
店内の席は少しずつ埋まり始めていた。
ランチ目当てのお客さん。
紅茶を飲みながら本を読む常連さん。
その一方で、二階ではママのアロマ教室も始まっていた。
あの部屋はママの仕事場で、
お姉ちゃんのお気に入りの秘密基地みたいな場所でもある。
階段の方から、
時折楽しそうな話し声が聞こえてくる。
「この香り、好き〜」
「こっちもいいわねぇ」
そんな声が聞こえてくるたびに、
お姉ちゃんもどこかで混ざってそうな気がする。
パパはカウンターの奥で忙しそうに動いていた。
詩織お姉ちゃんは紅茶を淹れている。
そして、あたしは――
「お待たせしましたっ♪」
注文を聞いて、料理を運んで。
気づけば、もうお昼が近づいていた。
*
カラン♪
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませっ♪」
……あ。
入ってきたのは、最近よく見かけるお兄ちゃんだった。
いつも静かで、
なんだか不思議な人。
今日もまっすぐ、いつもの窓際席へ向かう。
お兄ちゃんが席に着くと、
詩織お姉ちゃんがお水を持って近づく。
「神田くん、こんにちは」
「……こんにちは、九条先輩」
へぇ〜。
神田さんっていうんだ。
そういえば最初に見たときは、
確か越智お兄ちゃんたちと一緒だった気がする。
「今日はいつもの紅茶でいいかしら?」
「お願いします。あと、モーニングも」
会話終了。
短っ。注文まで、早っ。
あたしは思わず二人を見比べた。
なんか慣れてる感じがする。
……う〜ん、気のせいかな。
いや。
たぶん気のせいじゃない。
あたしはちらっと窓際を見る。
神田お兄ちゃんって、
いつも詩織お姉ちゃんがいる日に来てる気がするんだよねぇ。
それって、もしかして――。
いやいや、さすがに考えすぎかな。
……でもなぁ。
注文を受け終えた詩織お姉ちゃんが、カウンターへ戻ってくる。
今のうちに聞いちゃお。
「ねぇねぇ」
「どうしたの?」
「神田お兄ちゃんってさ」
詩織お姉ちゃんが首を傾げる。
「よく来るよね?」
「そうね。もう常連さんだもの」
即答だった。
うーん。
そこじゃないんだけど。
お水を運んだり、お皿を下げたりしているうちに――
神田お兄ちゃんの前には、いつの間にかモーニングが並んでいた。
もう普通に食べ始めてるし。
空いたトレイを持って、カウンターへ戻る。
ちょうどそのとき、
詩織お姉ちゃんも戻ってきた。
今がチャンス。
「あのお兄ちゃんさ」
「ええ」
「詩織お姉ちゃんがバイトの日に来ること、多くない?」
その瞬間。
詩織お姉ちゃんは一度だけ瞬きをした。
おっ。
今のは見逃さなかった。
これは何か反応あるかも――
と思ったんだけど。
「そうだったかしら?」
返ってきたのは、本当に不思議そうな声だった。
「えっ」
思わず声が出る。
「いや、絶対そうなんだけどっ?」
「ふふっ」
詩織お姉ちゃんは小さく笑う。
「偶然じゃないかしら」
……そんなわけないと思う。
だってあたし、何回も見てるし。
むしろ気付いてないの、詩織お姉ちゃんだけなんじゃ……?
「……ふーん」
あたしは腕を組む。
なんだか探偵になった気分。
でも。
気付いてないのが詩織お姉ちゃんだけなら、
それはそれでちょっと面白いかも。
神田お兄ちゃんは、相変わらず黙々とモーニングを食べていた。
このお兄ちゃん、
店の空気にすっかり馴染んでるんだけどっ?
結局、そのあとも特に何も起こらなかった。
……まあ、起こったら起こったで困るし。
*
神田お兄ちゃんは、
いつものように静かに帰っていった。
あたしもまた、
注文を聞いて、料理を運んで、片付けて。
「ふぅ〜……」
カウンターの端に腕を乗せる。
さすがにちょっと疲れたぁ……。
でも。
「ありがとうね、一香」
ママにそう言われると、悪い気はしない。
「べ、別に当たり前だしっ?」
……えへへっ。
カラン♪
入口のベルが鳴る。
「あっ」
入ってきた姿を見て、思わず声が漏れた。
同じクラスの犬神 諭くん。
ピアノ仲間で、連弾相手。
そして――
あたしより少しだけピアノが上手い、
ちょっと悔しいやつだ。
「こんにちは」
さとしくんは店内を見回しながら、小さく手を上げた。
「もー、来るの遅かったんだけどっ?」
「ごめんね。ピアノ教室が長引いたから」
そう言いながら、さとしくんは持っていた楽譜ファイルを軽く持ち上げる。
……そうだった。
今日は新しい曲を合わせる日だったんだ。
「ちゃんと楽譜、持ってきたよ」
「……ふーん」
慌てて何でもない顔をする。
別に約束は忘れてたわけじゃないしっ?
……新しい曲のこと、
ちょっと思い出すのが遅かっただけだもん。
「じゃあ、あとで合わせる?」
「うん」
さとしくんは軽く頷いた。
その様子に、なぜだか少しだけ悔しくなる。
なんか余裕あるんだよね、さとしくん。
*
二階へ上がると、あたしは自分の部屋のドアを開けた。
棚には発表会の写真や、これまでにもらった小さなトロフィーが並んでいる。
そして部屋の奥には、いつもの電子ピアノ。
今日の主役は、たぶんこっちだ。
ベッドの上では、トラがお腹を見せて気持ちよさそうに寝ている。
朝はあんなに騒いでたのに――
食べて寝るだけとか、気楽すぎなんだけど。
さとしくんは電子ピアノの前へ向かうと、慣れた様子で楽譜を開いた。
「じゃあ、今日はこの曲だね」
「わ、分かってるしっ」
あたしも隣へ腰を下ろす。
譜面台の上には、新しい連弾曲の楽譜。
今日、二人で初めて合わせる一曲だ。
「一回、通してみる?」
「うん」
さとしくんが軽く頷く。
二人で鍵盤へ指を置いた。
――ポーン。
最初の音が部屋に響く。
続いて、旋律が流れ出す。
これまで何曲も連弾してきたから、
呼吸を合わせることには慣れている。
……合うんだけど。
まただ。
なんか悔しい。
同じ譜面を弾いているはずなのに、
さとしくんの音の方が綺麗に聞こえる。
演奏が終わる。
最後の音が消えるのを待ってから、さとしくんが口を開いた。
「少し前、リズムが少し走ってたかも」
そう言って、楽譜の一か所を指さす。
「うぅ……」
「もう一回合わせる?」
「うん、次こそはっ!」
もう一度、鍵盤へ指を置く。
今度はさっきよりも息を合わせるように、
静かに演奏が始まった。
そのまま続けていると――
「ニャア♪」
ぽろん、ぽろん♪
いつの間にかトラが電子ピアノへ飛び乗ってきた。
「ちょっ、トラっ!
『猫踏んじゃった』弾いてる〜!」
慌てて抱き上げると、さとしくんが少しだけ笑った。
「トラもピアノ弾きたかったのかも」
「勝手に連弾に参加しないでぇ!」
二人で顔を見合わせて、思わず笑った。
トラをベッドへ戻して、鍵盤へ向き直る。
「よーし、もう一回っ」
指が鍵盤の上を走る。
重なって、離れて、また重なる。
最初はずれていた音も、少しずつ揃うようになっていく。
最後の音が消える。
ふと見ると、
トラがベッドの上でじっとこっちを見ていた。
あ。
しっぽの根元、またぶわってなってる。
「……トラも、聴いててくれてたのかな」
さとしくんもベッドへ目を向ける。
「そうかも。
さっきの合わせ方も、良かったと思うよ」
「……そう?」
思わず聞き返してしまう。
悔しいけど。
やっぱりさとしくんは上手い。
でも。
前よりちゃんと合わせられた気がした。
窓の外では、午後の光がゆっくり傾き始めている。
一階からは、紅茶と焼き菓子の香りがふわっと漂ってきた。
土曜日の笹倉カフェ。
いつもの景色。
いつもの匂い。
いつものピアノ。
今日は全部が、ちょっとだけきらきらして見えた。
ベッドの上では、
トラも安心したみたいに丸くなってる。
「……もう一回やる?」
さとしくんと、ふと目が合った。
相変わらず余裕そうな顔してるし。
「望むところなんだけどっ」
あたしはもう一度、鍵盤へ指を置く。
いつか――
さとしくんみたいに、
もっと素敵な音を弾けるようになりたいなぁ。




