第61話『憧れは、香りの中で』
【常盤高校・特別棟三階/科学部特別展示教室/Lunaria】
教室内の照明が落ちると、それまで漂っていたざわめきがゆっくり静まっていった。
誰かが息を呑む気配がする。
視線は自然と教室中央へ集まり、
小さなステージのように作られたスペースへ注がれていた。
窓側から差し込む昼の白い光と、机下へ仕込まれた暖色ライトが交わる。
重なり合った光の中で、空間が淡く揺らいで見えた。
普通の科学部展示とは、明らかに何かが違う。
それは展示というより、“ステージ”に近かった。
――スポットライトが灯る。
「みんな〜っ!
ようこそ、日向高校科学部特別展示へ〜っ!」
弾む声と同時に、教室中央へ光が集まった。
その中心へ軽やかに踏み出したのは――
金色のポニーテールを揺らした女子生徒だった。
白衣の裾には淡いレモン色のライン。
胸元には小さな試験管型のチャーム。
袖口には透明素材のフリルがあしらわれていて、ライトを受けるたびに小さく光を返している。
研究用の白衣のはずなのに、
どこかアイドル衣装を科学部仕様に仕立て直したみたいだった。
彼女は観客席を見渡しながら、眩しいくらいの笑顔を浮かべた。
「今日みんなをご案内するのは〜っ!」
そう言いながら、ステージ全体を抱き込むみたいに両手を広げる。
「午後のカフェテラスですっ♪」
観客席から小さなどよめきが起こる。
「今やってるのは、“空間印象制御”の実験展示っ!
香りと記憶の結びつきを利用して、“雰囲気”そのものを変えられないかっていう研究なんだ〜!」
そう言いながら、机の上に置かれた小型の装置へ手を伸ばした。
――プシュッ。
細かな霧が光の中へ解ける。
柑橘の香りがふわりと広がった。
「いい匂い……」
観客席のどこかで、小さな声が漏れる。
まるでカフェの扉を開けたみたいに、教室の空気が少しだけ軽くなる。
「まず最初は、席に着いた瞬間の香り〜っ!
ちょっとだけ想像してみてね〜っ♪」
彼女は軽やかにターンする。
ポニーテールがふわりと舞い、スポットライトを受けて金色の軌跡を描いた。
「窓から風が入ってきて〜、
注文したドリンクが届いて〜♪」
説明しているというより、情景を演じている。
観客の視線が自然とその動きを追っていた。
彼女自身も、それを楽しんでいるみたいだった。
「そして〜っ!」
もう一度、装置へ手が伸びる。
甘い香りが少しだけ重なる。
焼きたてのスコーンみたいな香りだった。
教室のあちこちで、小さく息を呑む音がした。
「じゃーんっ♪ 午後三時っ!
おやつの時間です〜っ♪」
両手をぱっと軽やかに広げると、
観客席から小さな笑い声がこぼれた。
それを見た彼女が、また嬉しそうに笑う。
科学部の展示のはずなのに、不思議と誰も難しい話を聞いている気がしない。
香りが変わるたびに空気が揺れる。
まるで見えない指揮者が、
教室中の人たちの視線を少しずつ導いているみたいだった。
ステージの中心に立つ太陽みたいに。
視線も、笑顔も――
自然とあの人へ集まっていく。
「香りは単体ではなく、複数の層を重ねて構成しているんです」
横から、静かな声が添えられる。
ステージ脇に立っていた黒髪の女子生徒が、ワイヤレスマイクを口元へ寄せた。
……見覚えがあった。
ショーが始まる前、窓際で紅茶を飲んでいた人だ。
「柑橘系で第一印象を軽くして、そのあとに甘めの香料を重ねることで、空間全体の温度感を調整しています」
柔らかな声だった。
けれど不思議と――その説明だけで、
さっきまで魔法みたいだった演出の仕組みが見えてくる。
「人の記憶は、香りと結びつきやすいと言われていますから」
会場の視線は自然と彼女にも集まる。
「香りそのものではなく、そのとき感じた空気や感情まで思い出すことがあるんです」
感覚だけじゃない。
香りも、演出も。
ちゃんと設計されている。
ステージ脇では、銀髪の女子生徒が腕を組みながら教室全体を静かに見渡していた。
部員たちが動き回る中、その人だけは一歩も動かない。
教室全体を一番把握しているのは、
きっと彼女なんだろう。
ステージの中心で観客を惹きつけるあの人。
その演出を支える、紅茶の似合う黒髪の女子生徒。
さらに裏側では、たかちゃんと見覚えのない男子生徒が機材の調整を続けている。
誰か一人では成立しない。
けれど今この瞬間だけは、すべてが一つのステージとして完成していた。
「……思ってたより、すごいね」
隣で、星乃が小さく息を呑む。
その視線は、ずっとステージ中央へ向けられていた。
「あの人さ……」
星乃が小さく首を傾げる。
「どっかで見たことない?」
言われてみれば――と思う。
陽だまりみたいな金色の髪。
楽しそうに弾む声。
人を惹きつける笑顔。
――どこかで。
そう思った瞬間。
ふと、祭りの日の光景が頭をよぎる。
白い巫女装束。
背中へ流れる長い金色の髪。
参拝客に囲まれながら、少し慌てたように笑っていた姿。
不思議と、気づけばみんなの視線が集まっていた。
記憶はそこまで浮かんだ。
「……たぶん。
あのときの巫女さんやと思う」
*
「それでは次の空間へ移動しま〜すっ♪」
観客席から小さな拍手が起こった。
彼女はその拍手にぱっと顔を輝かせた。
レモン色のラインが入った白衣が、動きに合わせて軽やかに揺れる。
「次はね――」
彼女はステージの上を弾むように歩く。
観客席の視線が自然とその後を追った。
「雨上がりのお庭ですっ!」
そう言って装置のつまみを回した。
――。
何も起きない。
「……あれ?」
会場が静かになる。
もう一度回す。
やっぱり出ない。
「えっ?」
彼女は首を傾げた。
観客席から小さなどよめきが起こる。
あちこちで顔を見合わせる姿が見えた。
「ちょ、ちょっと待ってねっ!?」
噴霧器を持ち上げる。
横から見ていた黒髪の女子生徒が、わずかに目を細めた。
ステージ脇の銀髪の女子生徒も、無言のまま様子を見ている。
「そうだっ、こういうときは――」
彼女は真剣な顔で頷いた。
「強制再起動っ!」
そして――迷いなく本体へ手を伸ばす。
「物理っ!」
ぽんぽん。
軽く本体を叩く。
会場から笑いが起こった。
「お願いっ!動いて!」
ぽんぽんぽんぽん。
今度は少し本気で叩く。
……太鼓の連打みたいなリズムやった。
そう思ってた、そのとき。
彼女の動きがぴたりと止まる。
「あ」
――。
「カートリッジ刺さってなかったぁ〜っ!?」
教室中がどっと笑いに包まれた。
「うそでしょ〜〜っ!?」
慌ててカートリッジを押し込む。
カチッ。
次の瞬間――。
――プシュッ。
細かな霧が舞い上がった。
今度はちゃんと作動する。
会場から拍手が起こった。
「……今のは見なかったことにしてね〜っ!」
両手を合わせてお願いポーズ。
さらに笑いが広がる。
一方で、ステージ側の反応は対照的だった。
黒髪の女子生徒は小さく息を吐き、
銀髪の女子生徒はこめかみを押さえていた。
けれど――。
誰も嫌な顔はしていない。
むしろさっきより空気が柔らかくなっていた。
「改めましてっ!」
彼女は気を取り直したように笑う。
「雨上がりのお庭へようこそ〜っ♪」
再び装置のつまみが回る。
今度の香りは甘くない。
濡れた土。
若い葉。
雨上がりの風。
そんな印象が鼻先をかすめた。
さっきまでのカフェテラスとはまるで違う。
同じ教室のはずなのに、景色だけが入れ替わったみたいだった。
「わぁ……」
隣で、星乃がまた小さく息を呑む。
その目は、さっきよりもずっと真っ直ぐステージへ向けられていた。
「雨が止んだばかりのお庭ってね〜」
彼女はステージの上を軽やかに歩きながら続ける。
「なんだか、じっとしていられなくなるのっ♪」
その動きに合わせるように、香りがゆっくり教室全体へ広がっていった。
「外へ出たくなる感じとか〜」
くるり、と小さくターンする。
「深呼吸したくなる感じとか〜」
ポニーテールが光を弾いた。
観客席のあちこちで、自然と表情がやわらぐ。
気づけば、誰もが彼女の次の言葉を待っていた。
「以上っ! 午後のカフェテラスと、雨上がりのお庭でした〜っ!」
最後に深く一礼する。
一瞬の静寂のあと、教室中から拍手が湧き上がった。
「すごーい!」
「面白かった!」
「香りでこんなに変わるんだ」
あちこちから感想が飛び交う。
彼女は少し照れたように笑いながら、大きく手を振った。
「ありがと〜っ!」
スポットライトがゆっくり落ちる。
教室の照明が戻り、ショーの空気が少しずつ日常へ戻っていく。
それでも、さっきまでステージだった場所には、
まだ熱だけが残っている気がした。
「あのさ……」
「ん?」
「ちょっと話してくる」
星乃の視線は、まだステージ脇にいるあの人へ向いていた。
「……そう」
あたしが返すより早く、星乃は歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って」
慌ててその後を追う。
人の間を抜けながら近づいていくと、あの人はちょうど機材の片付けを終えたところだった。
「す、すみませんっ!」
金色の髪がふわりと揺れる。
「ん?」
振り向いたその人は、さっきと変わらない笑顔を向けてきた。
「あっ、見学ありがと〜っ!」
「……あのっ!」
星乃が一歩前へ出る。
「さっきのショー、すごく良かったです!」
「ほんとっ!?」
「はいっ!
なんか……本当にその場にいるみたいで」
「見てるだけなのに、気づいたら引き込まれてました」
「えへへ〜っ♪」
嬉しそうに笑う。
「そう言ってもらえると、《《ボク》》も頑張った甲斐あるな〜っ!」
その声を聞いた瞬間だった。
星乃が小さく息を呑む。
「やっぱり……」
「ん?」
「もしかして、この前のお祭りの時、明星神社にいました?」
数秒だけ間が空いた。
けれど次の瞬間――
「あ〜〜〜っ!」
ぱっと表情が弾ける。
「友達に頼まれて巫女さんやってた時のっ!」
彼女は思い出したように目を丸くした。
「……あっ」
両手で顔を覆う。
「もしかして……
恥ずかしいところ、見ちゃってた?」
「え?」
「ほらっ!
転びそうになったやつ〜っ!」
「あっ……」
星乃も思い出したらしい。
「だ、大丈夫でしたよっ!
そんなに気にすることじゃないですっ!」
思ったより大きな声が出た。
彼女が少し驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
「その……」
星乃は少しだけ視線を泳がせた。
「巫女姿、すごく素敵でしたし」
「その……綺麗でした」
笹倉さんは言葉を失ったみたいに目を丸くした。
それから照れたように笑う。
「えへへ……ありがとっ♪」
「あっ、まだ名前言ってなかったよね?」
胸元へ手を当てて、ぱっと笑った。
「笹倉梓っ!
日向高校の二年で、科学部だよ〜っ♪」
「一年、星乃ひよりですっ!」
星乃が勢いよく頭を下げる。
あたしも軽く会釈した。
「……同じく、宮下です」
「よろしくね〜っ!」
笹倉さんは人懐っこい笑顔を向ける。
星乃の顔が、また少しだけ緩んだ。
……分かりやすっ。
「二人とも楽しんでもらえたなら嬉しいな〜っ♪」
そう言って、胸の前で両手をきゅっと握る。
見ているこっちまで、なんだか嬉しくなってくる。
やっぱりこの人は不思議だった。
ステージの上でも目立つのに、
こうして近くで話していても、目が離せない。
まるで――。
本物のアイドルみたいな人だな、とふと思った。
そのときだった。
「梓、次の実演まであと五分よ」
落ち着いた声が届く。
振り向くと、さっきステージ脇で説明をしていた黒髪の女子生徒が立っていた。
「あっ、ほんとだっ!」
笹倉さんが慌てて時計を見る。
「ごめんごめんっ!
次の準備しなきゃだった〜っ!」
そう言いながらも、最後にこちらへ向き直る。
「星乃ちゃん、宮下ちゃん。
来てくれてありがとっ!」
笹倉さんは気さくに手を振ってくれた。
それだけ残して軽やかに駆けていく。
途中で部員に呼ばれ、また別の来場者へ手を振り返しながら。
気づけば、周りには自然と人が集まっていた。
「……すごい先輩だったね」
星乃がぽつりと呟く。
「……そうね」
次の実演の準備をしながら笑う姿。
部員たちと話している姿。
来場者へ手を振る姿。
あの人が中心にいる理由が、少しだけ分かった気がした。
「行こっか」
そう声をかけると、
「……うん」
星乃は小さく頷いた。
けれど歩き出す直前まで、
もう一度だけステージの方を振り返っていた。
その理由を聞くほど、野暮じゃない。
だからあたしは何も言わず、人の流れに合わせて歩き出した。
背後では、また笹倉さんの明るい声が響いている。
教室の外へ出ても、その声だけはしばらく耳に残っていた。
* * *
【5月15日(金)夜/Lunaria自室】
部屋の照明を落とす。
静かになった部屋の中で、モニターだけが淡く光っていた。
大きめのパーカーにショートパンツ姿のまま、
椅子へ深く座る。
いつもの夜。
いつものログイン画面。
なのに今日は、少しだけ感覚が違っていた。
『CLANFIELD』
タイトルロゴが表示され、聞き慣れたBGMが流れ始める。
そのままログインすると、クランチャットが一気に開いた。
『C0c0r0n:ひよこちゃん招待するね〜っ!』
『KanDa00:了解』
いつも通りじゃない。
新しい仲間が増える夜だ。
それでも――
C0c0r0nが騒いで、KanDa00が短く返す。
そのやり取りを眺めていると、不思議と肩の力が抜けた。
そのときだった。
『ひよこ がクランへ加入しました』
通知ログが画面中央へ静かに流れる。
『ひよこ:うわぁぁっ! 本当に入れたっ!?』
その直後、歓迎メッセージが一気に流れ始めた。
『C0c0r0n:ひよこちゃ〜んっ! ようこそ〜っ♪』
『あまちゃん:いらっしゃいやで〜♪』
『KanDa00:困ったら聞け』
『たかちゃん:最初は移動と採取だけ覚えればいい』
『ひよこ:は、はいっ!!』
思わず小さく息が漏れる。
昼間、同じ空間にいた人たちが、今はまた“ログの向こう側”へ戻っている。
でも今日は、その名前の向こう側を知ってしまっていた。
日向高校。
体育館の壇上に立つ朝比奈こころ。
香りに満たされた科学部。
そこで機材を調整していた、たかちゃん。
――昼間見た光景が、少しずつ繋がっていく。
『C0c0r0n:ルナちゃん、ひよこちゃん紹介してくれてありがとね〜っ♪』
『Lunaria:別に。あたしは何もしてない』
『あまちゃん:ひよこちゃん一緒に遊ぼな〜♪』
チャット欄へ流れた文字を見つめながら、
気づけばあたしは、もふラビをぎゅっと抱きしめていた。
画面の中のC0c0r0nとたかちゃんは、いつも通りだった。
高校生として過ごしている、あの人たちの日常。
それを知ってしまったからか。
今日は少しだけ、
ログイン画面の見え方が違っていた。




