第58話『Re:Play 再点火』
【5月13日(水)6限目終了後/日向高校・体育館倉庫前/越智隆之】
――ピーッ!
終了の笛が、体育館へ鋭く響いた。
「はい、測定器具ちゃんと戻せよー。
急がなくていいから、怪我すんなよー」
低く通る戸田先生の声と同時に、張りつめていた空気が一気に緩む。
反復横跳び用のラインを剥がす音。
測定用マットを運ぶ音。
床を擦るシューズの反響。
六限目の体育を終えた体育館には、どこか解放感みたいな空気が広がっていた。
今日は測定系のメニューが中心だった。
反復横跳び。
上体起こし。
立ち幅跳び。
交流会準備も重なっていたせいか、体育館には測定器具が普段より多く並んでいる。
久しぶりにまともに動いたせいか、体育館の熱気がまだ身体へ残っていた。
俺は体育館シューズの紐を結び直しながら、そのまま倉庫前へ視線を向けた。
記録用ボード、ラインテープ、コーン、
折りたたみマット。
今日は測定系のメニューが中心だったせいか、倉庫前には器具が妙に多い。
開きっぱなしの倉庫扉の奥で、河田が測定器具用の収納ラックを押し込もうとしていた。
ラックの脚が奥の棚へ微妙に引っかかっている。
角度が悪い。そのまま押しても入らない。
河田は小さく息を吐いて、もう一度押し込もうとする。
だが、うまく動かない。
俺はそのまま倉庫の中へ入った。
「そっち離せ」
「……えっ?」
河田が顔を上げる。
俺は返事を待たず、ラックの下側へ手を掛けた。
少し浮かせて角度を変えると、引っかかっていた脚が外れ、ラックはそのまま奥へ滑り込んでいく。
「あ……」
河田が目を丸くする。
「ありがと、越智くん。
こういうの慣れてるよね」
「別に、角度の問題だ」
そのまま手を離す。
倉庫の中には、少し湿気を含んだ空気が滞っていた。
小窓から差し込む夕方の光が、積み上がったマットの表面を白く照らしている。
河田はスマホの画面を確認しながら、
少し困ったように笑った。
「交流会用の広報、
“イベント”だけだと固い気がしてさ」
そう言いながら、体育館の方へ軽く視線を向ける。
「こういう普段の部活風景とか、
学校の空気も載せられたらいいかなって」
「なるほど。
イベントだけじゃなく、日常側も見せたいわけか」
河田は倉庫脇へ置かれた記録ボードを見下ろす。
「明日までにまとめたいんだけど、思ったより作業多くて……ちょっと甘く見てたかも」
「写真って、選別だけでも手間増えるからな」
そう返した、そのときだった。
河田がスマホを持ち直した拍子に、
足元のバスケットボールが軽く転がった。
俺は片手でそれを止め、
勢いを逃がしながらケースの中へ戻す。
河田が、不思議そうにこちらを見ていた。
「……どうした」
「えっ?」
一瞬だけ視線が揺れて、河田は小さく笑う。
「ううん、なんでもない」
すると――
「二人とも、まだ片付けしてたのっ!?」
聞き慣れた声と同時に、犬神が勢いよく倉庫へ顔を出してきた。
「なんか体育館のにおいする〜!」
その後ろから、夕方の風が少しだけ流れ込んでくる。
犬神はすぐに河田のスマホへ視線を向けた。
「広報用の写真?」
「うん。交流会前に、学校の日常も載せられたらなって」
「そうだね〜!
写真あると学校の空気伝わるもんねっ!」
犬神が楽しそうに笑う。
その直後だった。
――ダンッ。
体育館の奥からボールの反響音が響いた。
続いて、シューズが床を擦る音が重なる。
「バスケ部、もう始まってるみたい」
倉庫の扉の向こうでは、準備運動の列ができていた。
次の瞬間、犬神が声を弾ませた。
「わっ、あの先輩だっ!」
「ほらっ!
この前言ってた、バスケすごい先輩っ!」
その反応に視線を向けると、
体育館の中から足音が近づいてくる。
「長谷川先輩、お疲れさまですっ!」
犬神がすぐに手を振る。
「おう、犬神。今日も元気だな」
「テスト終わったのでっ!」
「ははっ、顔に出すぎだろ」
小さく笑う声が返る。
「河田も、広報のやつか?」
「あ、はいっ。
交流会用に、部活の写真も少し撮れたらなって……」
河田がスマホを持ったまま小さく会釈する。
「ああ、この前言ってたやつな。
別に構わねえよ。交流会前だし、好きに撮っていい」
「ありがとうございますっ」
長谷川の視線がこちらへ向く。
「……なんだ。越智かよ。
眼鏡なんかしてたから気づかなかったぞ」
「……あれっ?」
犬神の視線が、俺と長谷川の間を行ったり来たりする。
「えっ!? えっ!?
二人とも知り合いなのっ!?」
「中学んときの後輩。
同じ学校だったんだよ」
「えぇぇっ!?」
犬神の反応が大きい。
河田も少し驚いたようにこちらを見る。
「そうだったんだ……」
「……なあ、越智」
言いかけて、一瞬だけ言葉が止まる。
「……膝、もう平気なのか?」
「問題ない」
短く返す。
「あのときの続き――
まだ勝負、決まってなかったよな」
「……」
「やるか?」
「えっ、えっ……?
なんか空気変わってないっ!?」
あの頃の感覚が――思考より先に研ぎ澄まされていく。
「……ブランクあるだろ。
ハンデやるよ」
長谷川が軽くボールを弾ませる。
「俺から一点取れたら、お前の勝ちでいい」
「随分余裕だな」
「じゃなきゃ勝負にならねえだろ」
「あとで後悔するなよ」
長谷川がボールを床へ落とす。
――ダンッ。
乾いた反響音が、体育館へ低く広がった。
周囲の部員たちも、なんとなく空気の変化を察したらしい。
「え、マジでやるの?」
「長谷川先輩、なんか本気っぽくね?」
そんな声が小さく聞こえる。
長谷川がボールをこちらへ放った。
回転。
軌道。
速度。
右手で受け止めた勢いのまま、低い位置でドリブルへ移る。
――ダンッ。
身体が先に、リズムを思い出していく。
心拍数の表示が、視界の端へ一瞬だけ浮かんだ。
72。
78。
83――
俺は一瞬だけ目を閉じる。
《生体ログ:停止》
いつもなら見えているはずの数値が――
今はもう邪魔だった。
「良い顔してるじゃねぇか」
「別に」
「ふっ、相変わらず可愛げねえな」
沈黙が落ちた、その一瞬――
ボールを左右へ細かく揺らしながら距離を測る。
(……不用意には動けない)
長谷川は距離を崩さないまま、こちらの動きへじわりと重心を合わせてくる。
誘っている。
抜かせて、止める気だ。
そこへ合わせるように、肩を入れ替えながら切り返す。
低いドリブルのまま、そのまま身体を抜け込ませる。
――ダンッ。
「っ……!」
長谷川の反応が、一瞬だけ遅れる。
――行ける。
そのまま床を蹴って身体が迷いなくリングへ伸びていく。
右手側へ身体を流した、その瞬間――
長谷川の腕が、
踏み切った身体へ重なるように伸びてくる。
「その癖、変わってねえな」
――止められる。
その感覚が脳裏をよぎった。
『ちゃんと、見えてからでいい。
それからで――間に合う』
夕方の公園。
低く弾むボールの音。
あの声が、
一瞬だけ身体の奥で重なる。
空中で――ボールを左手へ切り替える。
「っ、ダブルクラッチかよ……!」
ワンテンポ遅れて放たれたシュートが、
角度のない位置から静かにリングへ吸い込まれた。
――シュッ。
乾いた音と共に、ネットだけが揺れる。
「えっ……!?」
犬神の声が響く。
「今、空中で持ち替えたっ!?」
周囲からどよめきが広がる。
「は……?」
「マジで?」
「長谷川先輩、抜かれた……?」
ボールが床へ落ちる音だけが、
少し遅れて響いた。
長谷川がゆっくり振り返る。
その表情から、さっきまでの笑みは消えていた。
「……マジかよ。
まだ動けるじゃねえか」
俺はずれた眼鏡を静かに押し上げる。
「10秒弱ってところか。
随分あっさりだったな」
* * *
「……あ」
思わず息を呑む。
交流会前の部活風景を撮る。
ただ、それだけだったはずなのに――
いつの間にか、スマホを持つ指が止まっていた。
越智くんの姿が長谷川先輩の横を抜け、
気づいたときには――
シュートだけが静かにネットを揺らして。
ざわめきだけが少し遅れて、
体育館へ広がっていく。
「うわぁぁっ……!
越智くん、めちゃくちゃバスケうまいじゃんっ!!」
犬神さんの声が響く。
周りのバスケ部員たちもざわついている。
でも――そんな声が、少し遠かった。
私はただ、
コートの中にいる越智くんを見ていた。
(……知らなかった)
こんな顔、するんだ。
いつも冷静で、感情を表に出さなくて、
どこか一歩引いたところから周りを見ている人。
でも今、
ボールを持った越智くんは真っ直ぐ前だけを見ていた。
いつもの静かな視線じゃない。
その目には、
普段の冷静さとは違う熱が宿っていた。
ああ……。
越智くんって、こういう人なんだ。
誰かを支えるみたいに、
周りを見ながら、自分のことは後回しにして。
なのに今だけは、
全部を置き去りにして、自分のためだけに走っていた。
胸の奥に小さな熱が灯る。
(……ずるいよ)
そんなの好きになるに決まってる。
“憧れてた”だけじゃない。
ただ――
この瞬間を、
忘れたくないと思った。




