第56話『再起動《リスタート》の昼休み』
【5月13日(水)昼休み/日向高校・屋上/越智隆之】
屋上へ続く扉を押し開けた瞬間、視界が一気に開けた。
五月の風が、正面から流れ込んでくる。
数日間続いていた緊張感が、ようやく緩み始めていた。
そして、その開放感を最初に言語化したのは――
やはり犬神だった。
「終わったぁぁぁ〜〜〜っ!!」
屋上に出た瞬間、犬神は両手を高く上げた。
「……その声量、たぶん校庭まで届いてるぞ」
神田が、眉を寄せながら言った。
「再起動完了って感じだな」
俺がそう言うと、犬神は勢いよく振り返る。
「高校初の中間テスト終了だよっ!?
これはもう、叫んでも許されるやつだよ〜っ!」
「許可制だったのか」
「だって今、めちゃくちゃ解放感あるんだもんっ!」
犬神はフェンスへ身体を預け、そのまま大きく伸びをする。風に髪が揺れ、制服のリボンが小さく跳ねた。
「……あっ、分かる。なんか一気に肩の力抜けた感じ」
河田が、小さく笑いながら髪を耳へ流す。
犬神がまだフェンス際ではしゃいでいる横で、神田は先にベンチへ腰を下ろし、淡々と弁当袋を開いていた。
河田もその隣へ座り、俺も空いていたスペースへ腰を下ろす。
中間テスト最終日。
試験が始まる前まで、犬神は珍しく落ち着きなく問題集を見返していた。
神田は最後まで古文単語を確認し、河田は問題集の端を指で押さえ、最後まで視線を机へ落としていた。
最後の答案が回収された瞬間、その張りつめた空気は一気に崩れた。
犬神は屋上で叫び、河田はようやく肩の力を抜いた。
神田は相変わらず淡々としているようで、さっきより明らかに言葉数が増えている。
……再起動直後の環境変化。
そう表現するのが近い。
神田が弁当箱を開きながら言った。
「で、手応えはどうだったんだ」
「神田くん、珍しく気にしてる?」
河田が意外そうに笑う。
「確認だ。赤点回避が打ち上げの条件だったからな」
「へぇ〜、意外と律儀なんだね」
「条件は条件だ」
神田らしい返答だった。
参加するとも、楽しみにしているとも言わない。
ただ否定もしないあたり、彼なりに参加する気ではいるらしい。
神田が続ける。
「俺は問題ない。数学と理科は誤差範囲。英語も大きく外してはいない。古文は滅びればいい」
「神田くん、古文だけ扱い雑すぎない!?」
犬神はそう言いながらこちらへ戻ってきて、当然みたいに俺の隣へ座った。
「古文単語は非合理だ。日常使用頻度が低すぎる」
「それ言ったらテスト範囲だいたいそうだよ〜っ!」
「数学は使える。少なくとも、答えが一つに定まるからな」
河田が、どこか力の抜けた表情を見せる。
「……ほんと数学だけは信頼してるんだね」
小さな笑い声が、風に混ざって抜けていく。
俺は弁当の卵焼きを口に運びながら、神田の言葉を整理する。
神田の自己評価は、おそらく正確だ。
最後まで古文単語を確認していた時点で、他教科はほぼ固まっている。
少なくとも、赤点回避を心配する側ではない。
俺自身も、大きな問題はなかった。
出題傾向は想定範囲内。時間配分にも乱れはない。
予測と実測の誤差は、小さい。
残る問題は――犬神と河田だ。
「犬神は、手応えどうだ?」
「わたし?」
犬神は考えるように視線を上げた。
「えっと……たぶん、大丈夫っ!」
「“たぶん”が付いたぞ」
神田が即座に反応する。
「でも今回はほんとに頑張ったもんっ! 高校のテストってもっと、こう……問題見た瞬間に世界が終わる感じかと思ってたけど、思ってたより戦えた!」
「高校の中間テストにしてはスケールが大きいな」
「だってテストって、自分との戦いじゃんっ!」
犬神の比喩は毎回スケールが大きい。
だが、高校最初の中間テストが、ひとつの区切りとして機能しているのは事実だった。
入学直後の浮ついた空気が終わり、授業内容が初めて“数値”として返ってくる。
自分の立ち位置が、そこで一度可視化される。
「……まあ、言いたいことは分かる」
そう前置きしてから、俺は続けた。
「少なくとも、勉強会の時点では解答精度は上がっていた」
「……えっ」
犬神の動きが止まる。
犬神は、一度流れを掴めば理解は早い。
今回は最後まで集中も途切れていなかった。
「途中式の飛ばし方も減っていた。
問題文を最後まで確認するようになっていたから、前より雑なミスは減っていたはずだ」
「そ、それって……」
犬神の表情が、分かりやすく明るくなる。
「越智くん的には、わたし頑張れてたってこと!?」
「努力量は見えていた」
「やったぁ〜っ!」
犬神がその場で軽く跳ねた。
「褒めた判定でいいんだよねっ?」
「判定は任せる」
「じゃあ褒められたことにするっ!」
犬神の勢いに押されるみたいに、河田が小さく笑った。
「ふふっ、もう完全に褒められた顔してるよ?
……その切り替えの速さ、ちょっと羨ましいかも」
「いや、だって越智くんが褒めるのって超レアだよっ!?」
……こころにも、以前似たようなことを言われたことがあったな。
それはそうとして、河田の変化は観測しやすかった。
――以前の河田なら、こういう会話の輪に自然に入ってくることはなかった。
少なくとも今は、会話の流れそのものへ自然に入れている。
「河田の方はどうだった」
俺が聞くと、河田は一瞬だけ目を伏せた。
その後、手元の弁当箱を軽く持ち直す。
「……正直、まだ結果が出るまでは分からないけど」
「前よりは、解けたと思う。
少なくとも、問題見た瞬間に頭が真っ白になる感じは少なかった」
「それ、絶対頑張った成果出てるよっ!」
犬神がすぐに反応する。
「ありがと。犬神さんが音読してくれたから、ちゃんと集中できたし」
「えへへっ、わたし役に立った?」
「うん、かなり」
河田はそう言ってから、こちらを見る。
視線が一瞬だけ合い、すぐに逸れた。
「あと……越智くんが手順ごとに分けてくれたところ、すごく分かりやすかった。
前だったら、たぶん途中で諦めてたと思う」
「理解はしていた。ただ、手順の整理が追いついてなかっただけだ」
「……そういう言い方、ちょっと安心するかも」
「事実だ」
「……今回は、ちゃんと戦えたから大丈夫」
河田は、どこか安心したみたいに笑う。
その声には、自分なりの手応えが残っていた。
「じゃあもう、日曜の打ち上げ行けるじゃんっ!」
「金曜に結果返るまでは未確定だ」
神田の修正は早い。
「でも手応えはあるもんっ!」
「手応えと点数は別だ」
「神田くん、そこは夢を持たせてよ〜っ!」
「誰か一人でも赤点なら中止だ。条件は変わってない」
「うぅ……でも、大丈夫だもん」
犬神は少しだけ頬を膨らませる。
それでも表情は明るい。
河田が、確認するように顔を上げて口を開いた。
「日曜って、午前がテニス部の交流試合なんだよね?」
「うんっ! 隣町の常盤高校で試合するんだ〜。玲奈先輩も出るし、たぶんけっこう本格的な交流試合になると思うっ」
「常盤高校か」
神田が視線を上げる。
「科学部の交流会も、常盤高校だったな」
「そうそう。今週金曜が科学部で、日曜がテニス部だね」
河田が指折り確認するように言う。
テストが終わった直後にもかかわらず、予定はすでに次へ進んでいる。
金曜の科学部交流会。日曜のテニス部交流試合。
その後の打ち上げ。
停止していた学校行事が、一気に動き始めたような感覚がある。
「日曜の午後、常盤町で打ち上げって話だったよな」
俺が確認すると、犬神の目が明確に輝いた。
「そうっ! 常盤町のアミューズメント施設!
えっと、名前なんだっけ?」
「PLAYX NODE TOKIWA」
河田が答える。
「そう、それっ! プレイクス・ノード・トキワ!」
施設名を口にしただけで、犬神の声色が少し明るくなる。
「そこ、ボウリングもあるんだよね?」
「あるよ。ゲームコーナーと温泉もあるみたい。
ご飯食べるところも入ってるって」
「えっ、温泉もあるの!?」
犬神の反応が一段階上がる。
「試合して、そのあとみんなで遊んで、温泉入って、ご飯食べる……最高じゃんっ!」
「お前、試合後にその予定を完走するつもりなのか」
神田が、犬神の勢いを遮るみたいに言った。
「もちろんっ! 体力なら任せて!」
「犬神の体力基準で予定を組むな」
「え〜っ」
河田が考えるように首を傾ける。
「でも、温泉入ってからご飯っていいかも。試合の後だし、疲れも取れそう」
「だよねっ! 私も賛成っ!」
犬神が勢いよく身を乗り出す。
「ボウリングは?」
「やってみたい。あんまり得意じゃないけど」
「大丈夫っ! わたしもたぶん得意じゃない!」
「そこ自信持つところか?」
神田の指摘は妥当だ。
犬神は気にせず、こちらへ顔を向ける。
「越智くんは? ボウリングできる?」
「普通には」
「その“普通”が一番信用できないんだよね〜」
「否定はしない」
「しないんだ!?」
ボウリング自体は、経験がないわけではない。
回数は多くないが、母と義父、それからこころに付き合わされる形で、何度か行ったことはある。
ただ、投球動作自体は単純ではない。
重心移動、リリース角度、回転、レーンの状態。
それらを調整すれば、ある程度の再現性は出せる。
もっとも、今それを説明しても意味はない。
「神田くんは?」
河田が聞く。
「必要最低限はできる」
「二人とも答え方が似てるね」
「越智と同系統に分類されるのは不服だ」
「こっちもだ」
「即答!?」
犬神の声だけが、また屋上へ響く。
この四人で昼休みを過ごしていることに、以前ほどの違和感はない。
犬神が場を動かし、河田がそれを受け、神田が余計な熱量を削り、俺が必要な情報を整理する。
誰かが無理に場を繋いでいるわけでもない。
それでも、会話だけは不思議と途切れなかった。
「でもさ」
犬神がフェンスの向こうを見ながら言った。
「高校で初めてのテストが終わって、みんなで日曜に応援来てくれて、そのあと打ち上げって……なんか、すごく高校生っぽいよね」
その言い方は曖昧だが、言いたいことは分かる。
授業、部活、科学部、勉強会、テスト。
個別だった出来事が、少しずつ一本の流れになり始めている。
「高校生っぽい、か」
「実際、高校生だからな」
「そういうことじゃないの〜っ!」
犬神の声が、すぐに跳ね返る。
「でも、分かるかも」
河田は指先を遊ばせながら、自然に笑った。
「最初の頃は、何をするにも落ち着かなかったけど……今は、ちょっと楽しみって思えるようになった」
「うんうんっ! そういう感じ!」
犬神がすぐに頷く。
「中学の頃よりは、だいぶ自然になったな」
神田がそう言うと、河田は目を丸くした。
「……だったら、いいな」
しばらくして、校舎の方から昼休みのざわめきが戻り始める。
「戻るぞ。次の授業に遅れる」
神田はそれだけ言って、先にベンチから立ち上がった。
「えぇ〜、まだ時間あるじゃんっ!?」
犬神が不満そうに声を上げる。
「テスト終わってすぐに授業って、ちょっと現実に戻される感じするよね」
河田が弁当袋をまとめながら言った。
「要するに、普段通りに戻ったってことだ」
俺はそう返し、屋上の扉へ向かう。
犬神はまだ屋上の景色を眺めながら、楽しそうに声を弾ませていた。
「日曜日、テニスの試合も頑張って、そのあとの打ち上げ楽しみだ〜っ!」
その声に、河田も自然と笑っていた。
「……犬神さんの試合、いっぱい応援するからね」
「えへへっ、期待されてる〜っ!」
犬神は嬉しそうに振り返り、その場で小さく跳ねる。
中間テストは終わった。
赤点回避が確定したわけでもない。
それでも、止まっていた学校の日常は――
もう次の予定へ向けて動き始めていた。




