第55話『白の残像と、近づく距離』
【5月9日(土)昼/宮下家・Lunariaの部屋】
(……なんで、こうなった)
昨日の時点では、昼前にファミレスへ行くだけの話だったんだけど。
どうして今、星乃があたしのベッドを占領しているのか、理解が追いつかない。
学校で待ち受けの「もふラビ」を見られて、そこから少し話した。
気づけばそのまま、駅前の新しいファミレスへ行く約束まで決まっていた。
あの店を出るまでは、まだ想定内だった。
帰り際に、ふと星乃が言った。
待ち受けで見た「もふラビ」を、実物で見てみたい――
その一言で、なぜか今に至る。
あたしのベッドに腰掛けた星乃は、
枕元に置いていたもふラビのぬいぐるみを抱え込み、満足そうに笑っていた。
……意味が分からない。
初めて来た場所を遠慮なく見回す視線が、棚や机へ次々と移っていく。
それだけで、いつもの空気がどこか別物になっていた。
しかも、さっき慌てて片づけたせいで、誤魔化しきれない痕跡があちこちに残っていた。
机の端に追いやられたリップとヘアブラシ。
椅子の背に掛けっぱなしのパジャマ。
そして――
少しだけ開いたクローゼットの隙間から、
あの時、たかちゃんたちと別れたあとにわざわざ戻って買った乙女ゲームの箱が覗いていた。
『月下のシークレット・ロマンス』
……よりによって、それ。
(……あそこだけは、見られたら詰む)
星乃の視線がクローゼットへ向きかける。
(……まずい)
指先をわずかに動かす。
クローゼットの扉が、ぴくりと揺れた。
……閉まらない。
(なんでなんよ、閉まってって……!)
もう一度、力を込める。
扉は数センチだけ動いて止まり、『月下のシークレット・ロマンス』の箱がゆっくり傾いた。
「ん?」
星乃が首を傾げる。
(お願いやけん、今だけ言うこと聞いて……っ)
次の瞬間。
ばんっ、と勢いよく扉が閉まった。
「うわっ!?」
「……古い家だから」
できるだけ無表情で言う。
「いや絶対ちがうでしょ」
じっとこちらを見ていた星乃が、ふっと吹き出す。
「宮下さんって、隠してるつもりでも分かりやすいね」
(……ば、バレとる)
「どういう意味?」
できるだけ平坦に返す。
「もっと何でも無表情で処理するタイプかと思ってた」
「勝手なイメージ押しつけないで」
短く返しながら、さりげなくクローゼットの前に立つ。
その動きまで見て、星乃はまた笑った。
「でも、部屋きれいだね」
「……さっき片づけたから」
言ってから、しまったと思う。
「へぇ……少し待ってって言ってたの、これ?」
星乃の口元がゆるむ。
「ひよりのために、ちゃんと片づけてくれてたんだぁ」
「……今のなし」
「いや、自分で白状したよね?」
誤魔化すように視線を外す。
抱えていたもふラビをベッドに戻し、
立ち上がった星乃の手が、棚の一角でふと止まった。
「わ、見つけた。これこれ!」
白いうさぎのぬいぐるみ。
三日前、ゲーセンであんな取り方をした景品を、星乃はちゃんと覚えていたらしい。
その横には、もふラビのグッズたちがきっちり並んでいた。
色違いに、季節限定、小さなキーホルダー型まで。
……気づけば、少しずつ増えていた。
「……こんなにいるの?」
「……うん。まあ」
指先で、もふラビの耳をそっと整える。
少し恥ずかしい。
こういうものを誰かに見られること自体、
ほとんどなかったから。
「思ってたより、可愛い趣味してるね」
「……もう、うるさい」
そう返しながら、少しだけ頬が熱くなる。
「ていうか、宮下さんの家って静かじゃない? お母さんとか、出かけてる?」
少しだけ間が空く。
「……お母さんと、おばあちゃんなら昼勤」
「そっか、おばあちゃんも一緒に住んでるんだ。ふたりとも、どんな仕事してるの?」
「……動物愛護センター」
「えっ」
星乃が身を乗り出すように振り向いた。
「保護犬とか、保護猫とかいるとこ?」
「……まあ、そういうのも」
「すご。めっちゃいい仕事じゃん」
返事に困って視線を逸らす。
「別に、あたしがやってるわけじゃないし」
「でも、なんとなく納得。
そういう家で育ったんだなって感じする」
「……意味分からん」
「だって、部屋にもふラビいっぱいいるし。
宮下さんって、動物好きそうだよね」
「……まあ、嫌いではない」
星乃がくすっと笑い、ふと机の端へ目を向けた。
小さな写真立てだった。
祖母と、まだ幼かった頃のあたしが並んで写っている。
短く切った前髪に、今より少し丸い頬。
祖母はやわらかく笑っている。
その隣であたしは、
笑っているつもりなのに、妙にむすっとして見える。
「これ、宮下さん?」
「……そう」
「わ、かわいいね。ちっちゃいのに顔そのまま」
「……見なくていい」
星乃はそのままデスクの方へ歩き、あたしには見慣れたPCまわりを、物珍しそうに見回した。
普段は何とも思わないその場所が、他人の目を通すだけで妙に気恥ずかしい。
「え、宮下さんもゲーミングPCなんだ」
「……そうだけど、なに」
「うちにもあるよ。格ゲーやるから」
「……意外。音ゲーだけかと思ってた」
「失礼だなぁ。ゲーセン通ってるのも、そのためだよ。
対戦台あるし、家より集中できるんだよね」
「……まあ、たまにボコされるけど」
少しだけ、見る目が変わる。
「で、宮下さんは?」
間を置いて、答える。
「……クランフィールド」
「へぇ、あの人気のやつ? 名前だけ知ってる。どんなゲームなの?」
意外そうでもなく、茶化すでもなく、
純粋に興味を向けられている声だった。
邪険にはできなかった。
「四人で組んで戦うやつ。役割分担と連携が大事」
「へぇ……なんかちゃんと難しそう。そういうの好きかも」
「慣れたらそうでもない」
「宮下さん、強いの?」
「……普通」
「その返し、絶対強い人のセリフじゃん」
「……あたしより強い人、いるし」
言いながら、キーボードの位置を無意味に直した。
それを見ていた星乃の視線が、
机の端に置かれた小さなマスコットへ移る。
月光をまとった白銀のもふラビ。
この前PCショップで引き当てた、シークレット仕様の戦利品だった。
「それもクランフィールドの?」
「……うん。たまたま出た、シークレット」
「かわい。こういう限定ものってテンション上がるよね」
さらに棚のもふラビへ目を向けて、星乃の口元がゆるむ。
「好きなのは知ってたけど、ここまでなんだ」
「……見れば分かるでしょ」
「そりゃ、推しだもんね。
宮下さんがそんなに夢中になれるゲームだったら、ひよりもちょっとやってみたいかも」
その一言が、妙に耳に残る。
何気ない調子だった。
それでも、嘘には聞こえなかった。
「……向いてるんじゃない?」
「それ、褒めてる?」
「知らない」
星乃が肩を揺らして笑った、そのときだった。
パーカーのポケットの中で、彼女のスマホが震える。
取り出した画面を見て、「あっ」と声を上げた。
「そういえば今日、明星結乃神社、
知ってるでしょ? そこのお祭りだった」
「……祭り?」
「うん。屋台いっぱい出るやつ。地元じゃそこそこ有名」
聞き流すつもりで、差し出された画面へ目を向ける。
提灯。
境内の写真。
出店一覧。
限定御守り。
その下に、小さく協賛店舗の名前が並んでいた。
視線が止まる。
「……え」
「なに?」
見覚えのある店名だった。
県内でもかなり人気のベーカリー。
テレビ特集で何度も紹介されていた、有名店。
行列必至で、午前中に売り切れることも多い。
そして名物は――
「チョコクロワッサンの店……来るの?」
「え、知ってるんだ」
「……べっ、別に」
その返事に、星乃がいたずらっぽく笑う。
「顔が“知ってます”って言ってる」
「言ってない」
何層にも重なったクロワッサン生地。
割れば、中から濃厚なチョコがとろけてあふれる。
画面越しでも伝わってきたやつだ。
(……あれは反則)
「数量限定って書いてあるよ」
その一言で、胸に嫌な予感が駆け抜けた。
「……まだあるかな」
「行ってみる?」
祭りそのものには興味はない。
人混みも得意じゃない。
でも。
(……確認くらいは、したいんよね)
「売り切れてたら、すぐ帰る。それだけ」
「はい、気になってるってことね」
「違う。様子見に行くだけだから」
「もう、素直じゃないなぁ」
気づけば、あたしたちはそのまま部屋を出る流れになっていた。
「早くしないと、ほんとになくなるかもよ」
「……分かってるから、急かさないで」
上着を掴み、慌てて部屋を出る。
棚の上のもふラビたちが、並んだままこちらを見送っている気がした。
* * *
【5月9日(土)午後/明星結乃神社/Lunaria】
鳥居の手前から、甘い匂いがしていた。
たこ焼きやイカ焼きの香りに混ざって、焼きたての生地と溶けた砂糖の匂いが流れてくる。
……もしかして、あのベーカリーの屋台かもしれない。
匂いを追うように目を向けると、境内は思っていたより賑やかだった。
提灯の列。
小さな屋台。
子どもの笑い声。
鈴の音と、人のざわめき。
「うわ、けっこう人いるね〜」
星乃が楽しそうに声を弾ませる。
(……早く目的だけ済ませて帰りたい)
そう思いながら、視線だけは屋台の並ぶ方へ向いていた。
「あっ、あれじゃない?」
参道の奥に、人だかりができている。
木製の看板。
県内で有名なベーカリーの名前。
「……ほんとだ」
気づいたときには、もう声に出ていた。
「あはは、また顔に出てる」
「別に。ただ確認しただけ」
「確認だけで目、ちょっと輝いてたけど」
「……見間違いでしょ」
無視して列の長さを見る。
まだ並べば間に合いそうだった。
「先に買っちゃおっか」
「……お願い」
「ふふっ、素直じゃん」
笑いながら先に列へ向かった星乃が、ふと足を止めた。
さらに奥、社殿の前に小さな列ができている。
その先へ視線を伸ばしたとき、
白い巫女装束の女性が――記憶ごと視界へ飛び込んできた。
背中へ流れる長い髪が、
光を受けて金色にほどけている。
どこか不慣れな所作で、
それでも丁寧に人へ何かを手渡しながら、静かに微笑んでいる。
喉の奥から、勝手に言葉が零れた。
「……姉さま」
「え? 姉さま?」
「……ううん。なんでもない」
瞬きをひとつして、視線を戻す。
心の奥だけが、妙にざわついていた。
(……姿が、少し重なっただけ)
そう言い聞かせても、落ち着かない。
あの白い姿。
神域の空気。
忘れられるはずもない。
「宮下さん?」
不思議そうに顔を覗き込む。
「……なんでもないって言ったでしょ」
星乃は少しだけ首を傾げてから、
「……まあいいや。先、買いに行こ」
歩き出しながらも、あたしの視線だけが白い装束を追っていた。
「……気になるの? あの巫女さん。ちょっと可愛くない?」
「……別に。所作が気になっただけ」
星乃が覗き込みながら、同じ先へ視線を向けた。
社殿の前では、その巫女が次の参拝客へ頭を下げている。
その一礼は綺麗だった。
けれど、次の動きに移るたび、わずかにためらいが滲む。
袖を持つ手の位置。
足の運び方。
笑顔になるまでの、ほんの一拍。
考えるより先に、違和感だけが分かった。
(……まだ、慣れてない)
そう思った瞬間――
彼女の次の一歩が浅くなる。
裾が足元に絡み、こてん、と前につんのめった。
「あっ……!」
列の何人かがざわつく。
白い袖がばさっと揺れ、巫女は慌てて体勢を立て直した。
「だ、大丈夫ですっ……ボク、こういうの慣れてないんだからぁ……っ」
言ってから、自分で口元を押さえる。
「……あ」
数秒の沈黙。
参拝客の空気が止まり、次の瞬間、あちこちから笑い声がこぼれた。
「かわいい〜!」
「頑張ってー!」
巫女は真っ赤になりながら何度も頭を下げる。
「し、失礼しましたぁ……!」
隣の星乃も、珍しく言葉を失っていた。
それから、堪えきれずに笑った。
「あははっ……なにあの人。めちゃくちゃ目立つね」
「そう?」
「うん。なんか、見ちゃう。
祭りのバイトの人かな、あれ」
その横顔をちらりと見る。
さっきまで列の先を気にしていた視線が、
今は社殿の前ばかり追っていた。
(……星乃さんこそ、顔に出とるよ。人のこと言えんやろ)
*
「はい、次の方どうぞー!」
店員の明るい声に、列がひとつ進む。
列の脇に伸びる参道では、春の陽射しが石畳を白く照らしていた。
提灯の列が風に揺れ、その影が丸く地面に落ちている。
焼きたての香りが、さっきより近い。
何層にも折り重なった生地の匂い。
溶けたチョコの甘さ。
少し焦げた砂糖の香ばしさ。
熱を含んだ空気が、人の流れを縫うようにこちらまで漂ってくる。
(……反則。早く食べたい)
「宮下さん、顔に出てる」
隣で、星乃が笑った。
「出てない」
「いや出てる。さっきから列しか見てないし」
「進み具合を確認してるだけ」
「……食べたい人の言い訳なんだよなあ、それ」
返す言葉がない。
星乃は薄いベージュのパーカーの袖をまくり、楽しそうに列の先を覗き込む。
気づけば、あたしの視線も列の先に向いていた。
そのまま、また一歩進む。
ガラスケースの中に並んだクロワッサンが見えた。
艶のある焼き色。
角までしっかり膨らんだ層。
端から少しだけ溶け出したチョコ。
まだ表面に熱が残っているのか、
光を受けてやわらかく艶めいていた。
(……あ、これ絶対うまいやつ)
喉の奥で、小さく息が鳴る。
「次のお客様ー!」
気づけば、もう目の前だった。
焼きたての熱が、ふわりと頬に当たる。
「どうする? 一個ずつにする?」
横から覗き込む声がした。
少し考えるふりをして、
「……二つください」
最初からそのつもりだったのに――
言葉にすると、妙に気恥ずかしい。
「え、二つ?」
星乃が目を丸くする。
「……一つは、星乃さんの分」
「え、なにそれ。やさし」
「違う。ひとりで二つ持つと食べにくいだけ」
「その言い訳、無理あるよ?」
店員がこらえきれないみたいに笑いながら、
「はい、お待たせしました。熱いうちが勝負ですよ〜」
白い紙袋を二つ差し出した。
それを受け取り、支払いを済ませると、
紙袋の底からじんわりと熱が伝わり、指先まで期待が広がっていく。
もう待てなくて、つい足早に境内の端の空いた石段へ向かう。
さっ、とさらに歩幅が速くなる。
「え、かわい。そんな急ぐんだ?」
「……さっき言ってたでしょ。熱いうちが勝負なんよ」
その返しに、隣で星乃がくすっと笑った。
社殿の脇へ続く石段はひんやりしていて、
人の流れから少し外れるだけで、空気まで静かだった。
並ぶように石段へ腰掛けると、ひんやりした冷たさが熱の残る身体に心地いい。
紙袋から、まだ温かいチョコクロワッサンを取り出す。
ひとつを星乃へ差し出した。
「ありがと。やっぱ優しいじゃん」
「うるさいなぁ……もう」
「いただきま〜すっ」
星乃が先に、ひとくち頬張る。
ぱきっ、と小さな音。
中のチョコが割れ、続いて層がさくりと崩れる。
その音が、妙にはっきり耳に残った。
「……うわ」
「これ、やば。めっちゃ美味しい」
「……ふふっ、でしょ?」
思わず緩んだ口元のまま返してから、しまったと思う。
「今の“でしょ”、めっちゃ嬉しそうだったね。ドヤってたし」
「……え、意味分からん」
誤魔化すように、手元のクロワッサンを口に運ぶ。
表面は軽い。
なのに内側はしっとりしていて、噛むたびに層がほどけていく。
ぱらりと落ちた欠片が膝の上ではね、
少し遅れて、まだ形の残る温かいチョコが舌の上で濃厚にとろけた。
甘さだけじゃない。
生地の香ばしさが追いかけてくる。
(……これ、ええやん。ちょっと幸せかも)
来た価値は、十分すぎるほどあった。
思わずもう一度、紙袋の中を覗く。
「あははっ、宮下さんってさ。
好きなもの食べると、ほんと顔に出るよね」
「……だっ、出してない」
「これ、好きな人いたら秒でバレるタイプだ」
「なんで、今その話になるの?」
隣でくすっと笑ったのが分かって、
視線を逸らしたまま、紙袋ごと持ち直す。
「……でもさ、実際どうなの?
宮下さんって、好きな人とかいるの?」
口元へ運びかけた手が、ふと止まった。
脳裏に、眼鏡越しの静かな視線がよぎる。
「……だから、なんで今」
「いや、なんとなく。そういう顔してるし」
「意味分からん。別にいないし。
……そういう星乃さんは?」
星乃は小さく笑い、社殿の方へ視線を向けた。
「んー、今ちょっと気になる人ならいるかも」
「……誰?」
「たとえばさ――さっきの巫女さんとか」
「……は? 女の人でしょ」
「女の人とか関係なく、なんか惹かれる人っているじゃん」
星乃は楽しそうに目を細める。
「ひよりも手品やってるから分かるんだけどさ、
つい見ちゃうんだよね。
目立つっていうか、自然と人を惹きつける感じ」
「……ああいう人、ちょっと憧れるかも」
人の流れの向こう、
白い装束が春の光の中に浮かんで見えた。
「そういえばさ、宮下さんもさっき見てたよね。
姉さまって言ってたじゃん。お姉さん、いるの?」
「……忘れて」
「ふふっ、忘れませーん」
そう言いながら、立ち上がる。
「よしっ。せっかくだし、おみくじ引いてこよ」
「……は?」
「ほら、屋台で食べたら次はおみくじ引く流れじゃん」
「そんな順番あるの?」
「あるある」
当然みたいに言って、あたしへ手を差し出してきた。
「行こ」
差し出されたその手を、少しだけ見つめる。
断る理由はいくらでもあるのに。
――軽くため息をついて、手を取った。
「……先に袋、捨ててからね」
「はいはい」
気になる人――か。
思い浮かびそうになった顔を、
考えるより先に振り払う。
それなのに――
胸の奥のざわつきだけが、なかなか静まらなかった。
*
鳥居を抜けるころには、空の色が少しやわらいでいた。
西に傾いた陽が、石畳の上へ長い影を落としている。
さっきまで賑やかだった境内の声も、
背中の向こうで少しずつ遠ざかっていった。
人混みなんて苦手なのに――
この妙な満足感が、
さっき食べたチョコクロワッサンの余韻なのか、
今日の空気のせいなのか、自分でも分からなかった。
隣では、星乃が屋台で買ったりんご飴を揺らしながら歩いている。
「なんか、思ったより楽しかったね」
「……まあね」
人は多かったし、予定外のことばかりだった。
でも、不思議と疲れだけは残っていない。
りんご飴を揺らしながら、星乃が笑う。
「チョコクロワッサンも当たりだったし」
「……それが目的だったから」
「あはは、正直」
そう言って一歩前へ出る。
振り返る仕草まで、どこか軽やかだった。
「ねえ、宮下さん」
「なに」
「……クランフィールド、ほんとに始めたら教えてくれる?」
――興味本位の響きじゃなかった。
足が、ほんの少しだけ止まりそうになる。
風が吹いた。
参道脇の木々が揺れ、
葉擦れの音が静かに重なっていく。
「……気が向いたら」
「なにそれ。歓迎してる?」
「してない」
「でも顔はちょっと嬉しそう」
「……うるさい。そっちこそ、嬉しそうじゃん」
気づけば、ふたりで笑っていた。
その笑い声が、夕方の空気にやわらかくほどけていった。
「もし始めたら、いろいろ教えてよ」
「……まあ、そのときは」
「はいはい、宮下さん語で“やる”って意味ね」
「勝手に解釈しないでよ」
即答したのに、また楽しそうに笑った。
(……やりにくい)
そう思う。
思うのに――
隣を歩く足音だけが、
不思議なくらい心地よく重なっていた。




