第54話 『芽生えはじめた想い』
【5月8日(金)放課後/日向高校・生徒会室/河田亜沙美】
放課後の生徒会室は、思っていたよりも静かだった。
紙をめくる音。
ペン先が走る、かすかな音。
生徒会長の朝比奈先輩は資料に目を落としたまま、淡々と確認を進めている。
その隣で、副会長の高橋先輩がページを揃える。
仕草ひとつにも無駄がない。
斜め向かいでは、書記の先輩が手際よく議事録をまとめていて、会計が帳簿に数字を打ち込んでいる。
すぐ近くには、森川さんと月城さんも座っていた。
ここに来るのも、こうして席に座るのも、まだどこかぎこちない。
でも――ここで、自分の役割をきちんと果たしたい。
「それでは、他校交流会の進行について、最終確認を始めます」
朝比奈会長の声が、静かに室内に広がる。
それまで続いていた紙をめくる音が、すっと収まる。
「まずは風紀委員からの報告をお願いします」
「はい、ウチらですね〜」
森川さんが軽く手を挙げる。
その動きに、椅子がわずかに軋む。
「特に大きな問題はありませんでした〜。
当日の動線も、事前に確認しておけばスムーズにいけると思います。
混雑しそうなところも一応チェックしてあります」
「……補足、よろしいですかぁ?」
一拍置いてから、月城さんがやわらかく言葉を重ねる。
「時間帯によって、人の流れが少し変わりそうなので……
常盤高校に移動するタイミングも含めて、当日の朝にもう一度確認しておくと安心だと思いますよ〜」
朝比奈会長が小さく頷く。
「ありがとうございます。動線については当日朝にも再確認を入れましょう」
「はーい、了解です〜」
森川さんが肩の力を抜いたまま答える。
その横で、月城さんは静かにメモを取っていた。
「では次に――広報担当」
小さく息を整える。
(……落ち着いて、いこう)
そっと、用意していた資料を持ち上げる。
「あ、あの……交流会の告知について、です」
声が少しだけ揺れる。
それでも、言葉は止まらなかった。
「ポスター案と、校内放送の原稿をまとめてきました。
来週から掲示と放送を開始すれば、十分に周知できると思います」
ちゃんと前を向いて、伝える。
手元の資料を前に差し出す。
視線を上げると、高橋先輩と目が合う。
その隣で、朝比奈会長も資料に目を落としていた。
ページをめくる、わずかな音。
「……よくまとまっていますわね。とても分かりやすいですわ」
凛とした声が落ちる。
一拍おいて、朝比奈会長が顔を上げた。
「構成も整理されていますね。実行に移して問題ないでしょう」
「引き続き、この内容で進めてください」
「……っ、はい」
わずかに息が軽くなる。
その後も、細かな確認がいくつか続いた。
「――それでは、本日の確認は以上とします」
「各自、当日に向けて準備を進めてください。解散です」
椅子が引かれる音。
紙を揃える音が、静かに続く。
張り詰めていた空気が、ふっとほどけていく。
*
生徒会室の扉を閉めた瞬間、
ふっと肩の力が抜けた。
(……はぁ)
ちゃんと話せたし、やりきれた――
そんな実感が、じんわりと胸に残っている。
階段を降りて、二階へ。
足を踏み出した先、ふと視界の端に見えたのは――
理科準備室の奥にある、小さな部屋。
科学部の部室。
(……あ)
ほんの一瞬、足が緩む。
昨日の放課後。
あの部屋で、ノートを挟んで向かい合っていた時間が、そっと重なる。
淡々とした声。
無駄のない説明。
でも――分かるまで、ちゃんと付き合ってくれた。
(……越智くん)
ほんの一瞬、息が止まる。
胸の鼓動が速くなる。
(……ほんと、なにやってるんだろ、わたし)
それでも――
あの人に、もう一度ちゃんと向き合いたい。
中間テストを乗り越えて――
胸を張れる自分でいられたら。
「河田さーん、待ってや〜」
振り返ると、階段を降りてきた森川さんが手を振っていた。
その隣で、月城さんもふわっと微笑んでいる。
「お疲れさん〜。一緒に帰ろか〜?」
「……うん、一緒に帰ろ」
軽く頷いて、三人で並んで歩き出す。
夕方の廊下は、さっきまでの賑わいが嘘みたいに落ち着いていた。
「さっき、ちょっと緊張してたやろ。大丈夫やった?」
「えっ、あ、うん……なんとか、できた、かな」
「なんや、ええ顔してるやん♪
ウチもああいうの、ちょい緊張するわ〜」
くすっと笑われて、思わず目をそらす。
(……え、顔に出てた? 恥ずかしいな……)
「ふたりとも、ちゃんと届いてましたよぉ」
月城さんが、穏やかな声で言葉を重ねる。
「……なんか、月城さんってマイペースだよね。
そういうとこ、ちょっと羨ましいかも」
「……そう見えるんですねぇ。ふふっ」
そのまま三人で、昇降口を出た――そのとき。
「あら、三人とも」
静かな声がかかった。
振り向くと、白衣姿の女性。
保健医の早川先生が、こちらを見ていた。
「早川先生……」
「河田さん、元気そうね」
落ち着いた笑みで、少しだけ背筋が伸びる。
「この前みたいに、無理してない?」
「えっ、あ……大丈夫です」
「ならよかった。顔色もいいし――ちゃんと前向けてる顔してる」
(……ちゃんと見てくれてたんだ)
「テスト前だし、無理はしすぎないようにね」
「はい……ありがとうございます」
そのやり取りに、森川さんが口を挟む。
「そうそう、無理しすぎんようにしときや〜。テストにも響くもんなぁ」
「そうね。あなたたちも同じよ。無理はしすぎないこと」
「……風紀委員やってると、余計に周りのこと気になってまうんですよねぇ」
「ええ、知ってるわ。頑張ってくれてるものね」
早川先生は、視線をやわらげる。
「でもね、あなたたちみたいに“見てる側”が無理しすぎると――気づけるものも、見えなくなるのよ」
その言葉に、天音が「うっ」と小さく笑う。
「耳が痛いわ〜……」
「……はい。無理、しすぎないようにしますねぇ」
「ふふ、それでいいの。ほどほどにね」
軽く手を振って、早川先生はその場を離れていった。
「……ええ先生やなぁ。
周りの子らに人気あるんも、頷けるわぁ」
「うん……ちゃんと見てくれてるんだなって思った」
「ほな、うちらも気ぃつけなあかんな〜。生徒会としても」
月城さんが、穏やかに続ける。
「そうですねぇ。そういうときは、少し力を抜くのも大事だと思いますよぉ」
(……そうだよね。前みたいにならないように、気をつけないと)
校庭に出ると、外の空気がひんやりしていた。
傾きはじめた光が、あたりをやさしく照らしている。
「中間テスト、もうすぐですねぇ」
「……うん、そうだね。もうそんな時期なんだ」
「今回ちょっと危機感あるんよなぁ」
森川さんが肩をすくめる。
「……わたしもちょっと、自信ないかも」
思わず、苦笑いがこぼれる。
(赤点、回避しないと……)
「いや、ウチはもう赤点と縁切れへん関係やで〜」
顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。
「……じゃあ、神頼みでも、しちゃいますかぁ?」
「神頼み?」
「近くに神社、ありましたよねぇ。ほら、あそこ」
下り坂の先――
夕焼けの中に、ひっそりと鳥居が見えていた。
「あ、うん……たしかに」
鳥居の方へ目を向ける。
(……懐かしい)
(小さい頃、あそこでよく遊んでたんだよね)
少しだけ楽しそうに、月城さんが続ける。
「テスト、うまくいきますように、って。
……お願いするには、ちょうどいい場所なんですよぉ」
「ええやん、それ。なんか叶いそうな気ぃするわ〜」
森川さんが、楽しそうに笑う。
「……どうする?」
「……ほな、みんなで行ってみよか〜」
三人の足音が重なった。
夕焼けの色が少しずつ濃くなっていく。
*
犬神神社は、思っていたよりも空気が澄んでいた。
鳥居をくぐると、足音だけが少し響く。
夕方の光が、木々の隙間から差し込んで――
足元に、やわらかな影を落としていた。
(……あの頃と同じで、なんだかほっとした)
「……静かやねぇ。なんか、落ち着くわ」
「……うん、なんか安心するね」
境内を見渡しながら、そのまま奥へ進む。
境内の奥。
狛犬の前で、月城さんがふと足を止めた。
「……いい子たちですねぇ」
そう言って、自然に手を伸ばす。
石の表面を、そっと撫でる。
「シロちゃんと……クロちゃん」
「なんやそれ〜、急に名前つけたん?」
「ふふっ、なんとなく、です」
「その名前、ワンコみたいやなぁ。……そういえば狛犬もワンコやったわ」
思わず、くすっと笑いがこぼれる。
月城さんはそのまま、社殿の方へと歩いていく。
少しだけ振り返って、
「……せっかくですし、お願いしていきましょうかぁ」
その言葉に、つられて頷く。
社殿の前で足を止める。
賽銭箱に小銭をひとつ落として、軽く一礼し――手を合わせる。
(……越智くんに教えてもらったこと、無駄にしたくない――ちゃんと応えられるように)
指先に、ほんの少し力がこもる。
鈴の音が小さく揺れた。
顔を上げると、すぐ横で月城さんが静かに手を下ろす。
「……ありがとうございますぅ」
「なあ、ふたりとも何お願いしたん?」
森川さんが、くるっと振り返る。
「……内緒」
「わたしも、秘密です〜」
「なんやそれ〜、気になるやん」
「あのさ……」
「ん?どしたん?」
「犬神の神さまって……本当にいるのかな」
自分でも、なんでそんなことを聞いたのか分からなかった。
さっきの月城さんの仕草が、少しだけ気になって――
「ん〜、どうなんやろなぁ?」
――そのとき。
月城さんが、そっと社殿を見上げる。
「……いると思いますよぉ」
「え?」
「ここって……やさしい光の中で、
なにかに見守られてる気がするんです」
「たとえば――ふわふわした気配が、すぐ近くにあるみたいな……」
「えっ、なにそれ……ちょっと好きかも、そういうの」
「愛衣ちゃん、そういうの好きやもんなぁ」
「好きですよ。ロマンがあって、いいですよねぇ」
境内を抜ける風が、そっと頬をなでていく。
外に出るころには、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
隣に並ぶふたりの気配が、さっきよりも少しだけ近くなる。
(……この人たちとなら、きっと一緒にやっていける)
足取りが、ほんの少しだけ軽くなる。
(勉強も、生徒会も。
そして、この気持ちも――ちゃんと向き合っていこう)
夕焼けの中、やわらかな風が背中をそっと押していく。




