第53話『それぞれの進み方』
【5月6日(水)放課後/常盤町・ゲームセンター/Lunaria】
「……嘘でしょ。今の、なに?」
電子音と笑い声が、遅れて戻ってくる。
現実とのズレだけが、耳に残る。
――空気が、止まっていた。
遅れて、視線を上げる。
そのズレを共有した存在が、すでにこちらを見ていた。
星乃ひより。
景品口の中に、白いうさぎが落ちている。
さっきまで届かなかったはずのそれが、今は静かに転がっていた。
「今のさ、普通の落ち方じゃなかったよね?」
(……見られた)
距離も、視線の角度も、立ち位置も。
ごまかせる範囲は、もう分かっている。
結論だけが静かに確定する。
――なら。
「……あのときの、お返しよ」
「お返し?」
星乃が少しだけ首を傾げる。
「今日、学校で“いいもの”見せてもらったし」
わずかに視線を外しながら続ける。
「……“魔法”って言ってたでしょ。あれと同じよ。
種明かしは秘密だけど、ね」
わずかに口元だけで笑う。
軽く流すつもりの一言だったが、完全な否定になっていないことは、分かっていた。
「いやいや、UFOキャッチャーで手品やる人初めて見たんだけどっ!」
星乃の視線だけは変わらないまま、こちらを捉え続けていた。
「ねえ……それさ、毎回できるやつ?」
距離が一歩だけ近づく。
踏み込みすぎない、けれど逃げきれない位置。
「……気分次第、かな」
「いや絶対できるやつじゃん」
星乃がふっと笑う。
「まあいいや。言わないよ、別に」
(……ひとまず、誤魔化せた)
やりにくいけど、嫌じゃない。
ほんのわずかに肩の力が抜ける。
「そういうの、バラすの好きじゃないし。だから安心していいよ」
その言葉に、わずかに思考が止まる。
安心できる状況ではないが、敵対されていないことも確かだった。
「――その代わりさ」
星乃が、わずかに距離を詰める。
「今度は、ちゃんと見せてね。“魔法”」
「……気が向いたらね」
視線を外しながら答える。
拒絶はしないが、踏み込ませもしない。
「はい出た、“そのうちやるってやつ”」
「違う。そういうまとめ方やめて」
「いや今の完全にその流れだったよね?」
「違うってば。そういう話じゃない」
少しだけ強めに返す。
星乃は一瞬だけ黙る。
――が、すぐに楽しそうに笑った。
「魔法でも手品でもさ、バラさない方が夢があって面白いでしょ」
その一言が妙に残る。
張り詰めていたものが、わずかに緩む。
「で、それ欲しかったやつ?」
景品口の方を指す。
「……あ」
そうだった。そんなことより――
そのまま、景品口に手を入れる。
指先に触れた瞬間、思っていたよりもやわらかい感触が返ってくる。
(……ふわふわ)
そのまま引き上げると、白いうさぎのぬいぐるみが腕の中に収まった。
思わず抱きしめると、頬がわずかに緩む。
「……かわいい」
(……これ、ええやん。――早よ帰って、もふラビと並べたい)
「へぇー。そんな顔するんだ」
その声に、はっと視線を上げる。
目が合った瞬間、緩んでいた表情をわずかに引き締める。
――しまった。
「……べ、別に」
誤魔化すみたいに視線を外す。
腕の中のぬいぐるみを、そっと持ち直す。
それでも、さっきのやわらかさが、
まだ手のひらに残っていた。
――店の奥から、一定のリズムが流れてくる。
その音に重なるように、声がかかる。
「なんかゲームでもやってく?」
「……いいけど」
星乃が一瞬だけ考えて、
「じゃあ、太鼓でもやろっか」
振り返るようにして言い、そのまま歩き出す。
太鼓の超人の筐体は、ちょうど一台だけ空いていた。
バチを手に取ると、手の中でわずかに重さを転がしながらバランスを確かめる。
違和感はない。木の反発も、握りの感触も問題ない範囲に収まっている。
隣では、星乃が手首を軽く鳴らす。
「難易度どうする?」
「任せる」
「じゃあ、おに」
「いいよ」
曲が始まる。
最初の一打でリズムを拾い、そのまま流れに乗せる。
譜面が視界を流れる。
反応と入力が、ほとんど同時に重なる。
隣の打音が、ぴたりと揃う。
ズレも、力みもない。
(……上手い)
連打も、切り返しも崩れない。
感覚で叩いているように見えるのに、精度は崩れない。
終盤、譜面密度が一段上がる。
それに合わせて意識を引き上げ、そのまま流れを崩さず叩き切る。
最後の一打まで、手は止まらない。
――曲が終わり、表示が切り替わる。
フルコンボ。
――両方。
星乃が、ふっと息を吐く。
そのまま、横目でこちらを見る。
「やるじゃん」
「そっちも」
バチをくるくる回していた手がふと止まり、
視線が合う。
「……ねえ、星乃さん。
今日、学校でさ」
言葉を選ぶように、一瞬だけ間を置く。
「なんで、あたしに声かけてきたの?
周り、もっと分かりやすい反応してたでしょ」
視線は逸らさない。
まっすぐ、こちらを射抜いてくる。
「わざわざ、あたしじゃなくてもよかったと思うけど――」
星乃は、わずかに目を細めた。
「……あー」
軽く息を抜く。
「宮下さん、他の人と見てるとこ違ったから」
指先で、空中に軽く円を描く。
「もう“分かってる側”の目だったし」
口元だけ、わずかに緩む。
「だから、気になった。
ちょっと試してみたくなってさ」
その言葉が、静かに落ちる。
(……やっぱり)
視線を外す。
「……ふふっ、変な人ね」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
星乃が、意味ありげに笑う。
それ以上は踏み込まない。
周囲の音が戻る。
ゲームセンターのざわめきが、いつも通りに流れている。
それでも――
さっきまでとは、少しだけ違う空気が残っていた。
* * *
【5月7日(木)放課後/日向高校・科学部/越智隆之】
部室のドアに手をかけた瞬間、思考の端に同じ単語が浮かぶ。
――また、か。
まだ明確には定義できないが、処理の流れのどこかに微細な引っかかりが残っている。
原因は特定できない。再現性もない。
ログとして残すには曖昧すぎる。
それでも消えない違和感だけが、ノイズのように残留していた。
……前回。月城の発言。
『また、しっぽでも見えちゃいましたかぁ?』
――あの一言だけが、妙に長く尾を引いている。
(……どこまで把握している)
考えても結論は出ない。
現時点では、仮説すら成立しない。
――なら切り替えるしかない。優先順位は明確だ。
中間テスト。可視化可能な範囲の問題から処理していく。
ドアを開けると、部室の空気は予想どおり軽かった。
テスト期間につき部活動は停止中。周囲の雑音が減り、音の輪郭がはっきりしている。
紙をめくる乾いた音と、ペン先がノートを走る細い摩擦音。
無駄なノイズが削ぎ落とされ、すべてが予測可能な範囲に収まっている。
――観測には、これ以上ない条件だ。
神田、犬神、河田。すでに揃っている。
「じゃあ、ここからやる」
プリントをテーブル中央に置く。
「範囲は三つ。出題傾向から優先順位を決める。まず――」
「全部だな」
神田が即座に被せてきた。
「後回しにする理由がない」
「えっ!? 最初からフルコースなの!?」
犬神が思わず声を上げる。
「でも……なんとかなる、かな?」
河田の口元がわずかに緩む。
「……合理的だな。それでいこう」
判断は早い方がいい。
犬神はすでに机に身を乗り出していた。
「じゃあ、わたし読むねっ!」
問題文を声に出して追い始める。
音読と同時に処理しているようだ。
この形式なら効率は悪くない。
河田は隣でノートを開き、一定のリズムでペンを走らせている。筆圧は安定していて、余計な迷いがない。
――役割は回っている。
「ここ、こうなるんじゃないか?」
神田が途中の式を指でなぞる。
「それは違うな」
「その前提だと、この条件が崩れる」
「ああ……そっちか」
神田の指がわずかに止まり、すぐに位置を修正した。
流れは途切れない。
ペン先の音だけが、一定のリズムを刻んでいる。
河田と犬神は、そのやり取りをそのままなぞっている。
紙の上に同じ式が重なっていく。
犬神の音読が続く。
「えっと、ここは――あれ?」
声が止まる。
紙をめくる音も、ペンの音も、わずかに途切れる。
「……どこで止まった?」
「ここまでは分かるんだけど、そのあとがちょっと……」
指先が途中で止まっている。
河田のペンも、同じ場所で止まっていた。
インクがわずかに滲む。
「……なるほど」
神田が短く息を吐く。
「それ、理解してるっていうより、追ってるだけだろ」
犬神の視線が上がる。
「えっ、でも分かってるよっ!? ……たぶんっ!」
「“たぶん”の時点でアウトだな」
「うっ……」
河田の口元がわずかに緩む。
「……わたしも、同じところで止まってた」
停止位置は一致している。個別のミスではない。
「そこ、分解する」
プリントを手元に引き寄せる。
「この式は三段階で考える。まず条件を固定して、そのあと――」
言葉にして整理する。順序を明確化し、構造に落とす。
「ここまでいいか」
「……うん」
河田の返答が、わずかに遅れる。
ペンの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
そのまま小さく声が落ちる。
「そういえばさ――
今度の他校交流会、科学部も何か出すんだよね?」
神田が視線を上げる。
「笹倉先輩と神堂先輩が、準備を済ませている」
「えっ、なにそれっ!」
犬神の声が弾む。空気がわずかに揺れる。
「中身までは知らない」
「えぇ〜〜っ!?」
「中間テスト明けだ。こっちに回ってくる余裕はない」
ペンを走らせながら、河田が小さく笑う。
「たしかに……今それどころじゃないよね」
そのまま手を止めて、
「あっ、そうだ」
「テスト終わったらさ、週末どっか行かない? たまにはみんなで遊びたいし」
一瞬だけ考える。
「どこにだ」
「常盤町とか近いしさ、けっこうお店あるし」
「あ……」
ノートを追っていた犬神の手が、わずかに止まる。
「来週の土曜はテニスの練習でさ、日曜に試合があるんだぁ」
「試合?」
「うん。他校交流会で、常盤高校で試合があって。
だから、あんまりゆっくりは遊べないかも」
ペン先を止めたまま、河田が口を開く。
「――じゃあさ」
「日曜、みんなでテニスの応援、行く?」
犬神の視線が跳ねる。
「えっ、いいのっ!?」
「常盤町だし、みんなで応援行くのもありじゃない? 犬神さんも来てくれたら心強いでしょ」
――現時点では、条件が必要だ。
基準を緩める理由はない。
人差し指を一本立てる。
「条件付きだ」
「えっ?」
「赤点回避。落としたやつは打ち上げなしだ」
「きびしっ!?」
河田の口元がわずかに緩む。
「でも、その方が頑張れるかもね。
神田くんは、どうかな?」
「問題ない」
「それ、賛成ってこと?」
「そう解釈していいが、その話は後だ」
河田の手元が止まる。
「よし、絶対赤点回避するっ」
「わたしも……みんなで打ち上げ行きたいから、頑張るっ!」
さっきまでの熱は、消えていない。
今は――まだ優先すべきものがある。
「優先順位は崩さない。続けるぞ」
ページをめくる音が、静かに重なった。




