第52話『魔法少女と揺れる観測者』
柔らかな土の上で、手毬が弾んでいる。
空へ放たれたそれは、ゆるやかな弧を描き、
ためらいもなく、また戻ってくる。
受け止める手。
まだ小さな手が、やさしく返す。
その往復だけが、静かな庭に小さな律動を刻んでいた。
風が、ひとすじ通り抜ける。
揺れた髪が光を受け、
そのまま静かにほどけていく。
白い袖が、ふわりと重なった。
――ぽん。
「姉さま、もう一回せん?」
弾む声は、手毬の軌道に重なる。
「ふふ……いいよ」
穏やかな声が、静かに応じる。
また、ぽん。
同じ距離で、
ただそれだけのやりとりが繰り返されているのに――
その場の時間だけが、わずかにやわらいでいた。
「ねえ、姉さま」
声が、ほんの少しだけ近づく。
手毬の軌道が、わずかに緩む。
「どこにも、行かんでね」
――ぽん。
ほんの一拍、間が落ちた。
風の音だけが、やわらかく通り抜ける。
受け止める手は、迷わない。
「……だいじょうぶよ」
やさしい声が、そっと重なる。
返される手毬。
その軌道は、もう揺れていない。
「そばにいる」
言葉は短く、
けれど確かに、その場に留まった。
触れずとも分かるあたたかさが、
ふたりのあいだに、静かに在り続けていた。
* * *
あたしは、昔から少しだけズレていた。
同じものを見ているはずなのに、
みんなが見ていないところばかりに、先に目がいく。
声の間。視線の揺れ。指先が迷う、ほんの一瞬。
そういうのを、気づけば拾ってしまう。
「すごいね」って言われて、
そのあと、少しだけ距離ができる。
……それなら、最初から何も言わない方がいい。
見なくていいものまで、見えてしまうから。
その“ズレ”は、現実にも滲んだ。
――あたしには、少しだけ人と違うものがある。
視線を置いた場所。意識を向けた一点。
そこだけが、わずかにズレる。
本気でやれば、もっと動く。
止めることだって、できる。
でも、それはやらない。
あれは――本当に危ないときだけ。
ほんの少しだけ。
触れたかどうかも分からない程度にしておけば、
気づかれない。
見えていても、拾わない。
できても、やらない。
ひとりでいることが、いちばん楽になるはずだった。
――そのはずだったのに。
気づけば、
二人の存在に意識が向くようになっていた。
たかちゃんと、こころん。
クランフィールドの中では、何も変わらないまま。
それでも。
あのとき、ふたりと出会ってから、
“向こう側”と“こっち側”の境目が、少しだけ曖昧になった気がしている。
今の名前も、今いる場所も――
自分のもののはずなのに、
どこか、馴染みきらないままの感覚だけが残る。
……まあ。
今さら気にしたところで、どうにもならないんだけど。
それでも、どこかで——
置いてきたままのものが、まだある気がする。
* * *
【5月6日(水)10:41/常盤高校・中休み/Lunaria】
教室のざわめきが、ひとつの場所へと吸い寄せられていく。
視線の中心は、机の上。
息を呑む気配が、わずかに重なる。
「――ちゃんと見ててね。今、ここに入れるから」
机の上のトランプ一枚。
さっき示された――ハートの7。
それが指先で弾かれ、山の中へ滑り込む。
そのまま、彼女はデッキを大胆にかき混ぜた。
ほんの一瞬。
周囲の視線が、わずかに揺れる。
「一番上のカード、めくってみて」
その声に促されて、
隣にいた生徒が、おそるおそる山の一番上をめくる。
その瞬間――
ハートの7が、山の一番上に戻っていた。
「えっ、ちょっと待って!」
「今、山の中に入れたよね!?」
驚きの声が、ざわめきとなって広がる。
「ほら、魔法みたいでしょ?」
笑い声と拍手が重なる。
その中心にいるのは、ひとりの女子生徒。
肩にかかるショートボブと、淡くくすんだグレーの髪がやわらかく揺れる。
制服は整っているのにどこか力が抜けていて、
自然と“ラフ”な印象を残している。
「ねえ、もう一回やって!」
「次はもっと難しいやつ!」
周りの声に、少しだけ肩をすくめる。
「いいよ、じゃあ次はちょっとだけ本気出す」
軽い調子。
カードに向けられた目だけが、さっきまでとは別のものになる。
その場の空気は、完全に彼女を中心に回っていた。
(……意図してないのに、まとまってる)
無理に盛り上げているわけでもない。
引っ張っているわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、場が整っている。
——星乃ひより。
ボーイッシュな外見で女子に人気があるとか、
真偽の分からない噂もいくつかある。
(……関わる気はない)
そのはずだったのに。
人だかりの中心。
トランプを扱う彼女と、ふいに視線が絡む。
一見、眠たそうに見える目。
けれど、その奥だけが妙にクリアで、こちらの位置を正確に捉えている。
(……気配は消していたはず)
星乃が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ねえ、宮下さん」
気配が、こちらへ寄る。
さっきまで人だかりの中心にいたはずなのに。
「最初に見せたやつ、分かった?」
軽く、試すような響き。
「……分かる範囲なら」
わずかに楽しそうに目を細める。
「じゃあさ。どこで入れ替えたか、分かる?」
周囲の視線が寄る。
……面倒だ。短く終わらせる。
「入れ替えてない。最初から上にある」
「あはは。正解。でも、少し惜しいかな」
星乃が一歩踏み込む。
不思議と、不快ではない。
「右手はフェイク。そこは“誘導”のためのノイズ」
「君が『始まった』と思ったときには――もう、終わってたんだ」
星乃が、くすっと笑う。
「ちゃんと見えてるね。――じゃあ、これは?」
至近距離。
彼女の右手の指先が軽く弾かれる。
ハートの7が視界の中で跳ね上がり、反転して落下の軌道へ入る。
その軌道を星乃の手が追うと――
次の瞬間、カードが視界から消えた。
消えたままの軌道をなぞるように、彼女は空を掴む。
その指先には――
いつの間にか同じカードが挟まれていた。
「……左の袖口」
移動だけを追う。
「右手の振りで視線を流す。その間に、左で滑らせてる」
現象を分解する。
驚きは、もう残っていない。
「えー、つまんない」
不満そうに口を尖らせながらも、その瞳はわずかに楽しげだった。
軽く首を傾げながら、楽しそうに覗き込む。
「こういうの、好き?」
「……嫌いではない」
そう答えると、星乃は満足そうに微笑んだ。
「そっか。じゃあさ、今度――」
ほんの少し間を置いて、
「“ひよりの魔法”見せてあげるね」
その言葉だけが、妙に引っかかる。
押しつけるでもなく、拒否もできない距離。
そういう詰め方をする人なんだと思った。
* * *
【5月6日(水)放課後/常盤町・ゲームセンター前/Lunaria】
駅前の流れを抜け、そのまま足を止めることなく、
ネオンの滲む入口をくぐる。
自動ドアが開いた瞬間、
聞き慣れた音がそのまま身体に入ってくる。
クレーンゲームの電子音。格ゲーの掛け声。奥から一定のテンポで響く太鼓のリズム。
わざわざ確認するまでもない。
配置も混み方も、もう見慣れている。
視線だけを奥へ滑らせる。
太鼓の筐体。音の密度。空き状況。
(……空いてる)
そのまま足を向けようとして――
ほんのわずかに、視界が横へ引かれる。
景品コーナー。
ガラス越しに並ぶぬいぐるみの中で、
ひとつだけ輪郭が浮かび上がる。
白いウサギ。
丸いフォルム。もふもふの毛並み。少しだけ傾いた耳。
その瞬間、思考より先に反応が跳ねた。
(……え、ちょっと)
足が止まる。
視線が、そのまま固定される。
もう一度、しっかり見る。
位置。形。質感。
――かわいい。
(……いや、待って)
視線が離れない。
ガラス越しに、アームの可動域と景品の重心を同時に追う。
(……今の配置だと、難しい)
あたしのデスクの端に置いてある、もふラビのぬいぐるみがよぎる。
その隣に――並ぶ白。
(……これ並べたら、絶対ええやん)
はっとして、軽く首を振る。
(……何考えよん、あたし)
それでも。
ガラスの向こうにいるそれから、視線だけが外れない。
白いうさぎのぬいぐるみが、
じっとこちらを見ている気がする。
――まるで、取ってとでも言うみたいに。
気づけば、筐体のすぐ前まで来ていた。
指先が、ガラスに触れそうな距離で止まる。
ほんのわずかに、呼吸が浅くなる。
――目の前にある。
(……欲しい)
ガラス越しに、配置をなぞる。
アームの可動域。景品の重心。引っかかるポイント。
この配置じゃ難しい。
でも、取れないわけじゃない。
コインを入れる。
軽い金属音が、やけに大きく響いた。
操作パネルに指を置き、左右と前後を微調整しながら、最短で狙いの位置に合わせる。無駄な動きはない。
(……ここだ。対戦よろ)
ボタンを押す。
アームが降り、狙った位置を掴んで持ち上がる。
そのまま保持されるはずだった景品は、
わずかに重心を外して滑り、景品口の手前で落ちる。
……惜しい。
(……そこ外す?)
一瞬だけ視線が止まるが、すぐに配置を見直す。
むしろ形は悪くない。さっきのズレで、引っかかりやすい角度に変わっている。
(……次で、確実に取る)
間を置かず、コインを追加する。
思考は冷静なまま、手だけが先に動く。
さっきよりもわずかに奥を狙い、同じ手順で位置を合わせる。
(……ここで決める)
ボタンを押すと、アームが降りる。
引っかかる位置は正確。
そのまま持ち上がり、今度こそ収まる――はずだったのに、わずかにバランスを崩して滑り落ちる。
……また、届かない。
ほんの数ミリ。
それだけで、結果は変わる。
(……なんで、取れるはずなのに――)
白いうさぎだけが、目に残る。
三回目。
200円玉が、指先でわずかに重く感じる。
(――これがラストチャンス)
コインを入れ、ほんの少しだけ強くボタンを押す。
迷いなく降りたアームが、狙った位置を正確に掴み、
そのまま持ち上がる。
このまま持っとれば、あたしの勝ち。
――そう思った直後、
掴みが緩み、白いぬいぐるみがアームの隙間から外れていく。
景品口の外へ――落ちそうになる。
(……使いたくなかったけど)
視線が無意識に追い、その軌道も距離もすべて見えていた。
意識を重ねる。
触れない距離のまま、空間だけを引き寄せた。
その軌道が――止まった。
落ちかけたそれが、わずかに引き戻され、
そのまま景品口の上へ滑り込んだ。
「……嘘でしょ。今の、なに?」
「……っ」
心臓が跳ねる。
喉がわずかに詰まり、ガラス越しに視線が絡む。
そこにいるのは――星乃ひより。
あたしと彼女のあいだで、
“見ているだけ”では済まない領域に――
足を踏み入れていた。




