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第51話『連休明けの誤差《ラグ》』

【5月6日(水)朝通学/日向高校/越智おち隆之たかゆき


五月の朝は、思ったよりも静かだった。

連休明けの空気がまだ残っている。


日向高校へ続く坂道。

生徒たちが、ゆるやかな列を作って上っていく。


全体の流れは、表面上は保たれている。

それでも――どこか揃っていない。


足音の間隔は、一定に見えてわずかにばらつく。

会話のテンポにも、受け渡しにほんの一拍の遅れがある。

視線は前を向いているはずなのに、焦点が浅い。

わずかなズレが、空気に滲んでいる。


……完全には同期していない。

環境の初期化直後、といったところか。


「おはよーっ、越智くん!」


背後から、聞き慣れた声。

反射的に振り向く。


犬神千陽。


すでに距離を詰めてきている。

周囲の流れの中で、ズレが生じていない。


「連休明けにしては、元気だな」


「えへへ、元気だよ〜っ!

GWさ、いろいろあったよねっ! わたしね――」


そのまま言葉が溢れてくる。

内容はまとまっていないが、テンポは一定だ。


……通常運転。

短く相槌を返しながら、歩幅を合わせる。


気づけば、隣にもう一人いる。


「……久しぶりだな」


神田優希。

いつの間にいたのか、同じ列に自然に合流していた。


神田の視線が、こちらの目元で一瞬止まる。


「……越智、メガネにしたのか?」


「ああ」


短く返す。

神田は一度観察してから、小さくうなずいた。


「……違和感はないな」


それだけ言って、視線を外す。

それ以上の言及はない。評価は終了らしい。


「でしょでしょー!」


なぜか犬神が割って入る。


「似合ってるよねっ!? それ、わたしが選んだんだよっ」


わずかに誇らしげな表情を浮かべる。


「まあ、視認性は上がってる」


「そういうことじゃないってば〜!」


神田の視線が、二人の間を一度だけ往復する。


「……連休の間に、ずいぶん距離詰まったな」


歩幅。間合い。

犬神の接近の頻度は、明確に増えている。


……そう認識されても不自然ではないな。


「……そういう流れになっただけだ」


「え〜!? 違う違う〜っ!」


「ちゃんと、ふたりで決めたことなんだからね〜っ!」


犬神は頬をふくらませて、ぶーっと息を鳴らす。


わずかに間を置いて、神田が口を開いた。


「ふたりで、か。……まあ悪くないな」


その言葉に、無意識に指先がフレームへ触れる。


視界の補正は問題ない。選択としては、妥当だ。


そう思える。

……犬神と選んだからか。


三人で、そのまま坂を上っていく。

――このズレも、まだ日常の範囲内だ。


坂の終わりが見えたころ。

前方に、もう一人の姿があった。


河田亜沙美。


こちらに気づいて、軽く手を振る。


「おはよ。みんな揃ってるね」


いつも通りの声。


――だが。

一瞬、視界に違和感が走る。


河田のレンズ越しではない、直接の視線。

光の反射が違う。

その下で、落ち着いたブラウンの髪が揺れる。

細く編まれた三つ編み。


「……コンタクトにしたのか?」


気づいた言葉が、そのまま口に出る。


「うん。イメチェンってやつ?」


少しだけ視線を逸らして、

三つ編みに指をかけながら、河田が軽く笑う。


そのまま一歩だけ距離が近づく。


――印象が変わる。

輪郭の取り方が、わずかに違う。


「え、ちょっと待って!」


すぐ隣で、犬神の声が弾む。


「めっちゃ雰囲気変わってない!?」


「え〜、ほんと?」


「いやほんと! なんかこう――」


言葉を探すように、手をせわしなく動かす。


「“ちゃんとお顔が見える”感じ!」


語彙が曖昧だ。

だが、言いたいことは分かる。


「ふふっ、それ、どういう意味よ〜」


河田が苦笑する。


「……あ、違う」


「――かわいいっ! なんか、すっごくいい感じ!」


「……あ、えっと……ありがと。

 でもちょっと照れるかも」


わずかに間を置いて、神田が口を開いた。


「……お前ら、連休の間に視認手段、逆転してるよな」


犬神が楽しそうに口を挟む。


「どっちも似合ってるし、いいと思うよっ!」


……言われてみれば、その通りだ。

悪い変化ではないな。


意識を前へ戻す。


河田の視線が、こちらに向いていた。

目元で、わずかに動きが止まる。


一拍、遅れて――


「……あ」


「聞いてたけど……メガネ、似合ってるね」


一度、視線を外しかけて。

もう一度だけ、こちらを見る。


「……どうかな?」


軽い調子のはずなのに、

声のトーンがわずかに揺れる。


……コンタクトにするとは、聞いていたはずだ。

それでも――反応は、初見に近い。


「問題ない」


短く答える。


「視認性が上がっている分、印象も安定している」


「ちょっと越智くん〜!」


犬神がすかさず割って入る。


「そこは“可愛い”って言うとこでしょ〜!?」


「別に、今のでも成立してるだろ」


神田が淡々と補足する。


「“ちゃんと見えてる”って意味ならな」


「もー! 二人とも分かってないってば!」


犬神が楽しそうに笑う。

河田も少しだけ肩をすくめ、やわらかく微笑んだ。


「……ありがと。越智くんらしいね」


会話は続いている。

流れも、いつも通りだ。


それでも――

視界の中の情報が、わずかに更新されている。


……ほんとに変わったな。


俺はそう思いながら手をかざし、朝日に包まれた校舎を見上げていた。


* * *


教室に入ると、空気が少しだけざわついていた。


連休明け特有の緩さ。

席に着いても、教室全体の意識はまだ完全に戻っていない。


その中に、別のざわめきが混じっている。


「え、越智メガネじゃん」

「マジ?」

「なんか雰囲気変わってね?」


「河田もじゃない? コンタクト?」

「ほんとだ、めっちゃ印象違う」


会話の断片があちこちで浮かんでは消える。


俺は自分の席に着き、机の上に鞄を置いた。


すぐ前と隣で、河田と犬神がまだ何か話している。

連休前と比べて、二人の距離感はほんの少しだけ近い。


……変化量としては、わずか。

だが、ゼロではない――確かに。


「はい、席についてくださいね〜」


教室の前方から、やわらかな声が届く。

担任の杉本が教卓に立っていた。


ざわつきが、ゆっくりと収束していく。


「連休明けで、まだちょっとぼーっとしてる人もいるかもしれませんね」


「さて……中間テスト、来週から始まりますよ〜」


一瞬、空気が止まる。


「今のうちに、少しずつ準備していきましょうね」


次の瞬間、教室の空気がガラリと変わった。


「え、もう!?」

「……あ、そういえば」

「終わった……」


各所から声が上がる。

予想通りの反応だ。


「テストの範囲は、あとでプリントで確認してくださいね〜」


やわらかな口調のまま。

強く言っているわけではないのに、それだけで十分に現実は伝わる。


俺は配られたプリントに目を落とす。


教科ごとの出題範囲。日程。

情報として整理する。


……問題ない。

必要な時間と手順を組めば、対応は可能だ。


「越智くん」


横から犬神の小さな声がする。


「テストってさ、何からやればいいのかな?」


「範囲通りに出るなら、対策は立てやすい」


一拍置いて、言葉を足す。


「……やることは、はっきりしてる」


「そっかぁ……」


納得したような、していないような返事。


前の席で、河田がプリントを見ながらため息をついた。


「……今回はちょっと頑張らないとだなぁ」


軽い調子だが、背中にはわずかな緊張が残る。


そのまま、肩越しにこちらを振り向いた。


「勉強会とか、やる?」


犬神が即座に顔を上げる。


「え、やりたい!」


反応が早い。


「……やるなら、効率は考えた方がいい」


俺はプリントから視線を上げる。


「役割分担した方が時間は無駄にならない」


「役割分担?」


「得意科目ごとに教える側を分ける」


「なるほど〜!」


犬神が大きくうなずき、身を乗り出す。


「じゃあさ、越智くんは全部担当ね!」


「非効率だな」


即答する。


「えー!」


「ふふっ、頼りすぎはダメだよ?」


河田の小さな笑いが、その場の空気をわずかにやわらげる。

それでも教室のざわめきは、まだ完全には収まっていなかった。


連休の空気は、確実に終わっている。


思考を切り替える。

次にやるべきことは明確だ。


* * *


【5月6日(水)放課後/日向高校/科学部】


視界に入る配置は、いつもと変わらない。


窓際のソファでは、九条詩織が足を組んだまま読書を続けている。

その視線は、紙面からほとんど動かない。


中央のテーブルでは、神田が端末を操作している。

入力のリズムが一瞬だけ途切れ、すぐに戻る。


奥の実験スペースでは、笹倉が自作の噴霧器――多層嗅覚演出デバイスを手にしていた。

側面に装填された複数の小瓶がわずかに揺れ、淡い柑橘と焙煎したコーヒーの香りが微量に拡散している。

どこか不思議だが、悪くない。


「よしっ……あとちょっと……」


指先でバルブを細かく調整する。


――プシュッ。


「あっ」


一瞬、圧が抜けた。

噴霧の広がり方が、わずかに乱れる。


「……セーフ!」


「今の見た!? 危なかった〜!」


「それは操作ミスだな」


神田の指摘は妥当だ。


「挙動が不安定だ」


俺は短くそう言った。


連休明けでも、科学部の空気は変わらない。

人の立ち位置、音の重なり、会話の間――いずれも平常範囲内だ。


「できたっ!」


笹倉が嬉しそうに高々と噴霧器を掲げる。


「今回めっちゃいい感じなんだけど!」


「テーマは“午後のカフェテラス”! 交流会で出す予定のやつだからっ」


一度、手元に引き寄せ、バルブを軽くひねった。


「雰囲気はいいが……抽象的すぎるな」


「いいのいいの、ボクの感覚だからっ!」


――プシュッ。


その瞬間、空気にわずかな変化が走った。

柑橘の成分バランスが、ほんのわずかに崩れる。


「……あれ?」


笹倉の手が止まり、もう一度バルブへ触れる。


――プシュ、シュッ。


「……ちょっと待って、これ……」


バルブをひねった勢いで、手元がぶれる。

噴霧の向きが横へ逸れた。


「あっ」


――プシュッ!


その流れで、小瓶が倒れる。


――コトン。


横に流れた霧が小瓶の中身を直接叩く。

未調整の香料が、噴霧流に巻き込まれる。


甘い匂いの奥に、苦味。

遅れて、焦げに近い揮発臭。


室内の環境は、明らかに想定値を外れていた。


「……混ざってるな」


「え、ちょっと待って待って、ボクそんなつもりじゃ――」


言い終わる前に濃度が一段階上がる。部室の空気が別のものへと置き換わっていく。


「笹倉先輩、それは失敗だ。確定で」


「まだ分かんないって! ここから化けるかもしれないし!」


九条詩織が静かに本を閉じた。


「……失敗ね」


断定。


「ええええ!?」


そのタイミングで扉が開く。


「おつかれさーん」


森川天音と、月城愛衣。


……笹倉カフェ以来だ。


流れ出た空気が、そのまま二人を包む。


「うわっ!? なにこの匂い!? あかんやつやんこれ!」


「す、すごいですねぇ……!」


刺激への反応は明確だった。


「お、越智くんやん。この前ぶりやな〜」


「こんにちはぁ……この前は、ありがとうございましたぁ」


二人の腕には、風紀委員の腕章が巻かれている。


「珍しいな。科学部に来るなんて」


神田が呟く。


「せやから許可もろてるで。神堂先輩からな〜」


その一言で判断は済む。部長公認なら問題はない。


「ふたりとも、この前カフェ来てくれてありがとね〜。楽しかった?」


噴霧器を抱えたまま、笹倉が顔を上げる。


「笹倉先輩、めっちゃよかったです〜! あのお店、また行きたいですわ、ほんま!」


「そうですねぇ。とっても素敵なお店でしたぁ」


残留していた香りの中で、会話の比重が上がる。

空気は徐々に落ち着きを取り戻していく。


その奥で、九条が口を開いた。


「……で、今日は巡回?」


「安全確認ですね。火気とか、薬品とか〜」


「形式上は、な」と神田がぼそりと呟く。


「仕事してるで〜、一応やけどな?」


軽い調子だが、視線は設備の配置を追っている。

月城もまた、言葉数は少ないが視線の動きに無駄がない。


「きちんと管理されてますねぇ。安心しましたぁ」


評価としては問題ない。


「なあ、森川」


神田が声を落とす。


「お前の声、どこかで聞き覚えがあるな」


「えっ?」


森川がわずかに首を傾げる。


「……クランフィールドだな」


「……あれ? 神田やったよなぁ……?」


言葉が途切れる。


「あ、待って。うちのクランフィールドに“KanDa00”ってメイン盾おるけど……」


思わず神田を指差し、そのまま固まる。


「……まさか」


「そのまさかだ」


神田が短く返す。


「お前、あまちゃんだろ」


「うわぁ〜! マジで!?

 うち、神田に守られてたんかっ!」


「っていうか――」


天音が身を乗り出す。


「神田(KanDa00)って……そのまんまやん!」


……こころんの件は、まだ露見していない。

神田の反応から判断しても、VC上の音声一致は検出されていない。


――使い分けている。

あれだけ自然なら、判別は困難。


その流れの中で、森川の視線がこちらに向いた。


「……じゃあさ」


少しだけ言い淀んで、


「たかちゃんって――越智くん、なん?」


「……そうだ」


「へぇ〜。なるほどなぁ。世間、狭いな〜ほんま」


「てか、VCでも理系っぽい声、二人並んどったし……あれで気づけって話やん!」


……クランフィールド、か。

その単語を起点に、思考が別の情報へと接続される。


Lunariaに触れたときに見た異様な神社。

そこにいた白い犬。


そして――


月城愛衣。


前回の確認時、生体ログは乱れていた。

正常な記録は取れていない。


加えて――

犬神が口にした不可解な一言。


「しっぽが見えた」と。


記録上、その事実は確認できない。


未解決――

だが、何かが繋がっている……?


「なあ、越智くん」


横から森川の声が飛ぶ。


「さっきからさ、愛衣ちゃんのこと、めっちゃ見てるやん」


「……なんかイヤらしく見えるで〜?」


「……誤認だ」


天音の口元がわずかに歪み、視線が細まる。


「なんやなんや〜?」


袖を軽く引き上げ、一歩踏み出す。

そのままこちらを見据えた。


「早速、風紀委員の出番かぁ?」


「違う。観察だ」


「それもう完全に怪しいやつのテンプレセリフやんっ!」


肩を揺らして笑う天音の横で、


「ふふっ……見られるのは、悪くないかもですねぇ」


月城の口元が、やわらかく緩む。


「――もしかして」


一瞬、空気が止まる。


「また、《《しっぽ》》でも見えちゃいましたかぁ?」


――。


その一言だけが、わずかに遅れて場に残る。


拭いきれない違和感だけが――


誤差ラグのように、尾を引いていった。

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