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第50話『月影の犬神神社』

暗闇のはずだった。

だが視界に広がっていたのは――影のない白だった。


境界も奥行きも曖昧で、足場の感触すらない。

それでも、自分が立っていることだけは明確に認識できた。


呼吸。

思考。

感覚。


異様なほど鮮明だ。


――夢の中、だよな。


理屈では、そう結論づけられる。

だが現実と区別がつかないほど、感覚の解像度が高い。


まずは状況確認。

いつもの癖で、生体ログを呼び出そうとする。


……反応なし。


解析補助も、表示ログも沈黙したままだ。

どうやら、ここでは俺のスキルは機能していないらしい。


だが――


心拍 78。

体温 36.4。

呼吸 安定。


……身体ログは正常だ。


自分の生体状態だけは、変わらず把握できている。

それだけが、この空間で確認できる唯一の現実だった。


そのとき。

白の奥に、わずかなゆらぎが生まれた。


ゆっくりと、輪郭が形を取る。


長い銀の髪。


その髪は高い位置で二つに結ばれ、

月光の尾のように白い空間の中で静かに揺れていた。


輪郭は明確だ。

だが、何を纏っているのかだけが定義できない。


――Lunaria。


距離があるはずなのに、気配は近い。


触れられそうで、触れられない。

その不思議な均衡の中で――


心拍 78 → 84。


わずかに跳ねる。


やがて彼女が、静かに息を吸う。


「……たかちゃん」


その声は、夢とは思えないほど現実に近い質感を持っていた。


俺は一拍だけ考えてから口を開く。


「昨日、Lunariaに触れたとき――」


言葉を選びながら続ける。


「何かが見えた」


Lunariaの瞳が、わずかに細められる。


「神社だ」


白い空間の中で、その単語だけが浮かび上がる。


「かなり大きな神社だった。ただ――構造は分かるのに、現実として整合が取れていなかった」


俺は一度、言葉を区切る。


「……神社の周囲だけ、空間が切り離されているみたいだった」


一瞬の沈黙。


やがてLunariaが、ほんの少しだけ息を吐いた。


「……まだ消えてないんだ」


眉を寄せる。


「何がだ」


彼女はどこか楽しむように、小さく肩をすくめた。


「さあ?」


そして、ゆっくりと言った。


「でも――」


白い空間の静けさの中で、その声だけが響く。


「気になるなら、調べてみたら?」


その言葉は、音もなく白の奥へと溶けていった。


次の瞬間――


俺は自分のベッドの上で目を覚ましていた。


天井。

自室。

枕元のスマホ。


……現実。


ゆっくりと息を吐く。


窓の外には淡い朝の光。

いつの間にか、夜は終わっていた。


月の姿は、もう見えない。


それでも――

あれは夢にしては妙に感覚がはっきりしていた。


呼吸も、思考も、空間の輪郭さえ。

まるで現実を一枚、別の場所に写したような感覚だ。


……少なくとも、ただの夢とは思えない。


俺は枕元のスマホを手に取る。

時刻を確認する。


午前七時。

まだ夢の残像みたいな感覚が、頭の奥に残っていた。


昨日、触れた瞬間に視えた光景が脳裏をよぎる。

そして、Lunariaの声。


『気になるなら、調べてみたら?』


……なら、結論が出るまで突き止めるだけだ。


あのときに見た神社が、実在するのか。


もし存在するなら――

まず確認すべき場所は一つだ。



午前九時前。

約束の時刻には、まだ少し早い。


犬神神社の石段に、やわらかな風が吹き抜けていた。

境内には、まだ人の気配はない。

鳥居の向こうで、朝の光が静かに社殿を照らしている。


俺は石段を上りきると、一度だけ境内を見渡した。


――あのときに視た神社とは、構造が一致しない。


規模。

配置。

空気の密度。


すべてが完全に一致しているわけではない。

だが――神社そのものは違うのに、周囲の空間だけがどこか似ている。


参道の長さ。

社殿の位置。

石灯籠の並び。


――神社を取り巻く配置だけが、妙に一致している。


視界に入る情報が、自然と頭の中で組み上がっていく。

……敷地面積から考えると、この神社の構造は単純すぎる。


少なくとも――

この境内だけでは説明がつかない。


地下か。

それとも、過去の構造か。


そんな仮説を立てながら社殿の方へ視線を向けた。


その時。


「越智くん!」


鳥居の前から声がした。


石段を上ってくるのは、犬神だった。

朝の光を背に、こちらへ手を振っている。


「おはよーっ!」


「朝から元気だな」


犬神は俺の隣まで来ると、境内をぐるりと見渡した。


「神社、朝だと空気違うよね〜。光がきらきらしてて、ちょっと特別な感じ」


「……そうだな」


少し間を置いてから言う。


「昨日……妙な夢を見た」


夢、というには正確ではない。

だが――現時点では、その表現が最も誤差が少ない。


犬神が目を瞬かせる。


「夢?」


「ああ」


社殿の方へ視線を向ける。


「この神社に似た場所だ」


境内を見渡す。


「だが――あの神社は、規模が違う」


犬神が、はっとしたように声を上げた。


「それ、お父さんに聞いたことある!」


少し身を乗り出すように続ける。


「昔の犬神神社ね、もっと大きくてさ。

参拝客も多くて、町の中心みたいな神社だったらしいよ!」


「でもね」


少しだけ声の調子が落ちる。


「戦争の空襲で社殿が焼けちゃって、

それで今の大きさに建て直されたんだって」


犬神は、どこか懐かしそうに境内を見上げた。


俺は、黙って境内を見渡した。


石灯籠。

社殿。

参道。


あのときの神社の構造が、頭の中で重なる。


……辻褄が合う。

少なくとも、無関係とは思えない。


俺は小さく息を吐く。


「……資料が必要だな」


「資料?」


「ああ。神社の過去の記録が残っている可能性がある」


少し考えてから言う。


「日向図書館に行けば、郷土資料があるはずだ」


犬神の表情が明るくなる。


「それいいかも!

町の昔の本とか、いっぱいあるよ!」


「じゃあ、行ってみる?」


「……ああ」


そう言って、俺たちは鳥居の方へ歩き出そうとした、

そのとき――。


犬神がふいに足を止めた。


「……え?」


「どうした」


犬神は境内の奥を振り返る。

石灯籠の向こう、社殿の影が静かに揺れていた。


「……今、なんか聞こえなかった?」


眉を寄せる。


「いや」


犬神は少しだけ不思議そうな顔をしたまま、

耳を澄ますように立ち尽くした。


「……“そばにいる”って聞こえた気がしたんだけど」


「声?」


犬神は小さく頷く。


「うん。なんか……優しい声」


鳥居の向こうを、風が静かに吹き抜けていく。


「……俺には聞こえなかったな」


だが、周囲に人の気配はない。

少なくとも――俺の耳には、何も届かなかった。


「そっか〜。じゃあ、気のせいかなぁ」



日向図書館は、町役場のすぐ近くにある。

公共施設が集中している区域だ。


建物自体は古いが、管理は行き届いている。

余計な装飾もなく、静かな空気が保たれていた。


自動ドアをくぐる。


ドアが閉まると、外よりも館内の空気はわずかに冷えている。

本の紙とインクの匂いが、静かな空間に漂う。


温度。湿度。静けさ。

すべてが、本の保存に最適化されている。


こういう場所は嫌いじゃない。

思考が散らない。


犬神は館内を興味深そうに見回していた。


「わぁ……図書館って久しぶりかも」


「学校にもあるだろ」


「あるけど、なんか違うんだよ〜。本がいっぱいって感じ!」


語彙が小学生並みだ。


「郷土資料は二階らしい」


「おっ、いいねいいね!」


犬神が先に階段を上がる。


最短経路を取り続けるアルゴリズムみたいに、

迷いなく駆け上がっていく。


……反応が早すぎる。ほんと、犬か。


そんなことを考えながら、俺も後を追った。


二階は一階よりも人が少なかった。

郷土資料の棚が並ぶ区画に足を踏み入れる。


空気がわずかに重い。

長く保管された本特有の匂いが、静かに漂っている。


郷土資料は基本的に貸出されにくい。

保存年数も、その分長くなる。


棚のプレートに目を向ける。


郷土史

地域文化

神社・祭礼


狙い通りだ。


背表紙を順に確認していく。


『日向町史』

『神媛県民俗資料集』

『日向の神社史』


どれも古い本だ。

紙の色が飴色に変わり始めている。


この状態なら、少なくとも数十年前の出版だろう。


「越智くん、なにか見つかった?」


背後から犬神が顔を覗き込んできた。


距離が近い。


「犬神神社の資料を探してる」


「わたしの家の神社だよね?」


「そうだ」


棚から一冊取り出す。


『日向町史 上巻』


この手の資料は索引を見るのが一番早い。


索引を開く。


――犬神神社。


該当ページを確認する。

ページを開いた。


犬神神社は、日向町でも古い社の一つである。

創建年代は不明だが、江戸後期にはすでに存在していた記録が残る。


「そんな昔からあるんだ」


犬神が小さく声を上げる。


さらに読み進める。


明治期から昭和初期にかけては、

地域の守り神として広く信仰されていた。

だが、具体的な記述は残っていない。


ページの中央には写真があった。


白黒の古い写真。


今よりも大きな社殿。

長い参道。

境内には人が集まり、祭りの最中のようにも見える。


「……今とだいぶ違うな」


「ほんとだ」


犬神も写真を覗き込む。


現在の犬神神社は、当時と比べて規模が縮小している。

だが、この写真では境内の規模も参拝者の数も明らかに違う。


――地域の中核だったと見るのが自然だ。


……あのとき視た神社と、重なる部分はある。

だが、同一と断定するには――まだ情報が足りない。


ページをめくる。

別の項目が目に入った。


神媛かひめ地方大災害(大正期)


犬神が顔を寄せてくる。


「大災害?」


「この地方で、過去に大きな地震が発生したらしい」


本文を読む。


大正十二年、神媛地方を中心に大きな地震が発生した。

周辺地域では家屋の倒壊や山崩れが相次ぎ、大きな被害が報告されている。


さらに続きがある。


しかし日向町では、

被害は比較的軽微であったと記録されている。


犬神が不思議そうな顔をした。


「どうして無事だったんだろ……?」


「地形とか、震源の位置とか。理由はいくらでもある」


さらに読み進める。


当時の記録には、

「犬神の加護ではないか」とする言い伝えも残る。

ただ、詳細は不明である。


犬神が、顔をほころばせる。


「うちの神社、守り神なんだ〜。

 ……昔から、犬の神さまって言われてるけど」


「郷土史は大体そういう話になる」


迷信と歴史は、よく混ざる。


――大正十二年、か。


関東大震災と同年の大災害。

……偶然なのか?


ページをさらに進める。


別の年代の記述が現れた。


昭和二十年、終戦間際の空襲により

日向町は被災し、市街地の多くが焼失した。

犬神神社もこのとき社殿を失ったとされる。


犬神が、はっとしたように目を見開く。


「え……それ……」


一瞬、言葉が止まる。


「お父さんが言ってたやつかも……戦時中の空襲で、一度焼けて、建て直したって」


「この記録だとそうなるな」


その下には続きがあった。


現在の社殿は、戦後に再建されたものである。


俺はもう一度、最初の写真を見る。


白黒の社殿。

長い参道。

賑わう境内。


今とは、まるで別の場所だ。


犬神も黙って写真を見ていた。


「……なんか変な感じ」


「どういう意味だ」


「うちの神社なのに、知らない場所みたい……でも、なんか懐かしい感じもする」


犬神の視線が、写真に落ちたまま動かない。


……再建されている以上、差異が出るのは当然だ。

だが、それで片付く違和感でもない。


俺は町史を閉じた。


百年前の災害。

戦時中の空襲。


そして、今の神社。


歴史として見れば、ただの変遷だ。


それよりも――


触れた瞬間に流れ込んだ神社の光景。


そして、この記録。


まだ断定はできない。

それでも、参道の長さや社殿の位置――いくつかの一致点は無視できない。


その認識だけが、頭の中に静かに残った。


本を棚へ戻す。


犬神はまだ写真のページを見ていたが、やがて「ふーっ」と小さく息を吐いた。


「……なんか、うまく言えないんだけど」


「どうした」


「昔の写真なのにさ、どこか知ってる場所みたいで――神社のことなのに、ちゃんと知らない感じっていうか」


そう言ってから、犬神は本を閉じた。


「知らなかった日向町、ちょっと分かった気がしてさ、なんか良かった!」


――悪くない視点だ。


過去を知ることは、現在を測る基準になる。

……得るものは、ゼロではない。


「そろそろ出るか」


「うん! とりあえず今日はこんな感じで!」


……今日は。


つまり、また来るつもりらしい。


俺たちは本を棚に戻し、図書館の階段を降りた。



図書館の自動ドアが閉まる。

外の空気は、館内より少しだけ暖かかった。


五月の風が通りを抜けていく。


隣で、犬神が大きく伸びをした。


「んーーーっ!」


「静かすぎて眠くなったー」


「それは、お前だけだ」


俺はそう言いながら、

さっき読んだ内容を頭の中でなぞる。


日向町史。

神媛県の大災害。


まだ、結論には遠い。


だが、あのとき視た神社と、先程の写真。

無視できない一致がある。


なら、もう一度確かめるしかない。


俺は通りの先を見る。

――鳥居の方向だ。


「……犬神」


「ん?」


隣で、犬神がこちらを見る。


「もう一度、神社を見ておきたい」


「えっ、ほんと?」


「ああ」


「図書館の資料と、現地の構造をもう一度照合したい」


「ふふっ、越智くんらしいね〜!」

「何かわかるといいな。……行こ、今すぐっ!」


犬神は嬉しそうに笑い、そのまま弾むように歩き出した。


相変わらず落ち着きがない。


……やっぱり、犬みたいだな。

感情と行動の連動が分かりやすい。

無駄な遅延がない。


ああいうタイプは、競技では強い。

反応速度も含めて、テニスとも相性がいいはずだ。


俺は一歩遅れて、その後を追った。



通りの先には、犬神神社の鳥居が見えていた。


鳥居をくぐる。


昼前の犬神神社は、思ったより静かだ。

音が、ひとつ抜けている。


参拝客の姿はない。

境内には、五月の風と木々の葉が擦れ合う音だけがあった。


犬神は鳥居をくぐったところで足を止め、境内を見渡した。


「やっぱり落ち着くなぁ、ここ」


「……そうか」


俺は境内を観察する。


社殿。

参道。

石灯籠。


図書館で見た古写真の構造が、頭の中で重なっていく。


「越智くん?」


犬神が首をかしげる。


「どうしたの?」


「少し確認する」


俺は参道の中央で立ち止まった。


視線を巡らせる。


社殿の位置。

参道の長さ。

灯籠の配置。


――生体ログ、起動。


視界の情報が整理されていく。


【環境分析ログ:IKG_0021】

─ 対象:犬神神社(現存構造)

─ 鳥居→社殿距離:31.4m

─ 社殿軸線偏差:東+1.3°

─ 石灯籠配置:左右対称(誤差±4cm)


現在の構造は、明らかに簡略化されている。


図書館で見た写真。

再建前の構造。


そして――


Lunariaとの接触時に流入した神社構造。


この三つは完全には一致しない。

だが、誤差として処理するには整合性が高すぎる。


生体ログによる取得ではない。

それでも、あのとき流れ込んだ情報は、

視覚記録として明確に保持されている。


だからこそ、照合が可能だ。


【拡張構造推定ログ:IKG_0022】

─ 旧参道推定距離:57.8m

─ 推定旧境内面積:約6,900㎡

─ 現在構造との差異:+178%


【構造照合:接触由来視覚データ】

─ 社殿位置:一致

─ 参道軸線:一致

─ 灯籠配置:高精度一致


【照合一致率】

─ 89.3%(外部入力データとしては異常値)


【推定結論】

─ 現在の犬神神社は旧境内の一部。

─ 接触時流入データと旧構造は高い整合性を持つ。


――整合は取れる。


だが、噛み合いすぎている。


通常、外部入力は誤差を含む。

それに対して今回は、ズレがほとんどない。

……基準そのものが固定されていた。


社殿の位置。

参道の方向。


そこだけが、異様に鮮明だ。


俺は境内を見回す。


もし、あれが単なる情報混入ではないとしたら。


あれは――再建以前の犬神神社の構造。


……そう考える方が自然だ。


だが――なぜ俺に、あの光景が視えたんだ。

記録にも残っていないはずの構造を。


……Lunariaとの接触。

あれ以外に、思い当たる要因はない。


あの神社は――妙に静かだった。

鳥の声も、虫の声もない。


奥行きだけが、異様に深かった。


――そのとき。


石段の下から、元気な声が弾けた。


「ゲンキー! 待てってばー!」


聞き覚えのある声が、境内に広がる。


振り向いた視線の先。

石段を駆け上がってくる、小さな影。


犬神の弟――さとしだ。


その足元を、転がるように追いかけてくるのは――


ゲンキ。


まだ体つきの幼い、柴犬の子犬。

足取りは少しおぼつかないが、それでも全力で石段を駆け上がってくる。


犬神の姿を見つけた瞬間、尾をぶんぶん振って一直線に突っ込んできた。


「よしよし、ゲンキ〜っ!」


犬神はしゃがみ込み、表情を緩めながら抱きとめる。


ゲンキは嬉しそうに前足をばたつかせ、手をぺろぺろと舐めはじめた。


「こらゲンキ、飛びつくなって〜!」


後から追いついた諭が、少し息を弾ませながら笑う。


「今日さ、朝からずっとテンション高いんだよね〜」


それから、ふとこちらに気づく。


「あれ? 越智さん来てたんだ。

お姉ちゃん、何やってたの?」


「ん? ちょっとね、この神社のこと、いろいろ調べてたの!」


「ふーん……あ、そうだ」


諭が、思い出したみたいに顔を上げる。


「学校でさ、この神社、夜になると女の人の声が聞こえるって噂あるらしいよ」


そう言いながら、うらめしそうに手を揺らして笑う。


「えっ、ちょっとやめてよ〜っ! そういうの!」


「そんなビビる? 変なの〜」


軽く笑って、ゲンキの首元をぽんぽんと叩いた。


どこにでもある昼前の神社。

そのはずだった。


だが。


ゲンキが、ふと動きを止めた。


そして――

まっすぐ、こちらを見る。


「ワンッ!」


その瞬間。


――視界が、わずかに軋む。


【生体ログ警告:ASU_0097】

─ 聴覚信号:検出

─ 音声解析:犬鳴き声

─ 信号変換:異常


ノイズが走る。


通常の変換処理を逸脱。


次の瞬間。


音ではない。


“意味”が、直接流れ込んできた。


《――その娘は、境界に立つ者。》


思考が、止まる。


ログが、一瞬だけ空白になる。


《――力を選ぶな。》


《――ただ――》

《――そこに在れ。》


……。


現実が、ゆっくりと輪郭を取り戻す。


ゲンキは、何事もなかったように犬神の手を舐めている。

さっきの視線はもうない。ただの子犬だ。


俺は、ゆっくり息を吐いた。


――聴覚情報の誤変換。


生体ログの解析機能は、入力された音声を意味単位で補完することがある。

ゲンキの鳴き声を、言語として再構築した。


……そう考えるのが合理的だ。


俺は、さっきの言葉を反芻するように思考を巡らせる。


その娘は、境界に立つ者。

力を選ぶな。ただ――そこに在れ。


意味が、あまりにも整いすぎている。


――“その娘”。


照合が走る。


一致は、“ひとつ”ではない。


俺は境内を見渡す。


社殿。参道。石灯籠。

すべて、いつもの犬神神社だ。


異常はない。


……ないはずだ。


接触時に流れ込んだ光景。図書館の資料。

そして、今の“変換”。

偶然にしては、出来すぎている。


……思考を、いったん停止する。

今の段階では、結論を出すだけの材料がない。


――ログに刻む。

ただ、それだけだ。


「越智くん?」


犬神が不思議そうな顔でこちらを見る。

その隣で、諭も首をかしげてこちらを見ていた。


「さっきから、ずっと神社見てるけど……どうかした?」


「いや」


俺は社殿の屋根のラインを見ながら答える。


「少し、構造を見ていただけだ」


「こういう建物って、配置がきれいに揃っていることが多い」


「参道、鳥居、社殿の軸線とか」


犬神は一瞬まばたきをして、言葉の意味を探るようにこちらを見る。


「……じくせん?」


その横で、諭が小さく首をかしげる。


「なんかむずかしいやつ?」


俺は参道の先を指差す。


「鳥居から社殿まで、一直線になっているだろ」


「こういう配置は、意図して設計されていることが多い」


「神社は、ただの建物じゃないからな」


俺は参道の石を見下ろす。


「参道と社殿の軸も、ほとんどズレていない。

数センチ程度だろう」


犬神は参道の先を見て、目を丸くした。


「え、そんなの分かるの?」


「目測だがな」


犬神は参道の方を見て、少し目を見開く。


「すごい……でも、わたしには分かんないや」


その横で、諭が楽しそうに息をもらす。


「……神社とにらめっこしてる人、初めて見たかも」


犬神は軽くうなずき、口元をゆるめたまま言う。


「たしかに……ちょっと珍しいかも、ね」


俺は視線を社殿から外した。


「ただ見ていただけだ」


犬神はゲンキの頭を撫でながら言う。


「でもさ」


「越智くんがそんな顔してると、なんか――」


少し考えてから、笑った。


「神社の秘密でも見つけそうだよね」


俺は小さく息を吐いた。


……秘密、か。


もし本当にあるなら――

まだ材料が足りない。


「じゃ、そろそろ帰ろっか」


犬神が立ち上がる。


「お昼近いし!」


「おなかすいたー」


諭がそう言いながら、軽く背伸びをする。


「……ああ」


俺は社殿をもう一度だけ見て、視線を切った。


* * *


夜。


自室の机の上、ディスプレイの光が静かに部屋を照らしている。


今日の出来事を整理する。


ログは残す。

思考より先に、記録だ。


俺はキーボードに指を置いた。


Excelのログシートを開く。

今日の観測記録を、新しい行に入力していく。



【観測ログ:050】


Lunaria接触由来データ異常観測


■観測事項

・接触時に流入した神社構造の確認

・図書館資料(旧犬神神社)との照合

・古写真照合一致率:72%(記録再構成時)

・旧境内推定面積:+178%



ここまでは、説明可能だ。


Lunariaとの接触時に流入した、神社の視覚情報。

それはおそらく、空襲以前の犬神神社の姿に近い。


図書館の資料とも一致する。


偶然。

あるいは、説明可能な記憶の再構成。


そう考えるのが合理的だ。


だが――


俺は次のセルへカーソルを動かした。


少しだけ手が止まる。


そして入力する。



■異常観測

・聴覚信号変換(ゲンキの鳴き声)


記録内容:


その娘は、境界に立つ者。

力を選ぶな。

ただ――そこに在れ。



俺はキーボードから手を離した。


聴覚情報の誤変換。


可能性としては成立する。

音声補完として処理すれば説明はつく。


だが――


出力内容の整合性が高すぎる。

偶然として片付けるには、不自然だ。


俺はExcelの画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


そして、最後のセルに入力する。



【暫定結論】


判断材料不足


【仮説】


・偶然の重なり

・未定義現象の可能性



カーソルが、次の空白セルへ移動する。

俺はそれを見つめたまま、少しだけ考える。


……今日は、ここまででいい。


Excelを保存し、PCを閉じた。


ふと窓の外を見る。


夜空には、満月が浮かんでいた。

静かな光が町を照らしている。


――思考が、わずかに途切れる。


その瞬間。


夢の中の声が、唐突によみがえる。


『……まだ消えてないんだ』


Lunaria。


俺は窓の外に浮かぶ月を見上げたまま、小さく呟いた。


「……まだ消えてない、か」


答えはない。


ただ、月だけが静かに光っていた。


* * *


深夜。


人の気配が消えた犬神神社は、昼とはまるで別の場所のように静まり返っていた。


満月の光が、境内をやわらかく照らしている。


鳥居。

参道。

石灯籠。


昼間、越智隆之が観察していたその配置も、今はただ静かな影を落としているだけだった。


風が、ゆっくりと木々を揺らす。

葉の擦れる音が、境内の奥へと流れていく。


――そのとき。


どこからともなく、歌声が聞こえた。


小さな、やさしい声。


それはまるで――


子どもをあやすような、子守唄だった。


♪ ゆれる ゆれる 月のかげ


月光が社殿の屋根を照らす。


♪ そっと そっと まぶたとじ


風が参道を撫でていく。


♪ だいじょうぶよ そばにいる


――誰に向けた声なのかは、分からない。


♪ ねんね ねんね こもりうた


境内には、誰の姿もない。


やがて。


子守唄は、ふいに途切れた。


まるで、最初から存在しなかったみたいに。


その瞬間。


社殿の奥の影が、わずかに揺れる。


白いものが、横切った。


犬――に、見えた。


だが。


影は一瞬、形を保てなかった。


輪郭が、月光の中でわずかに滲む。


それが本当に“生き物”だったのか、

確かめる間もなく――


気配は、消えた。


風が止む。


音が、ひとつも残らない。


境内は再び、深い静けさに包まれた。


満月だけが――

まるで、最初からすべてを知っていたかのように。

静かに、その場所を照らしている。


そして夜は、何事もなかったように更けていく。

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