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第49話『白昼のTrigger-Link』

【5月4日(月)午前10:41/PCショップ常盤店・キーボードコーナー/Lunaria】


蛍光灯の白い光が、

キーボードの表面に静かに落ちていた。


カチ、カチ。

乾いた打鍵音が重なり、新品特有の匂いがかすかに残る。


その感触を確かめるのは、嫌いじゃない。

指先が沈むたび、均一な反発が返ってくる。


「打鍵感、どう?」


こころんが、あたしの肩越しに覗き込む。


「……軽い。悪くはないけど」


隣のキーボードに手を移し、ホームポジションに指を置く。

A、S、D、Fに指を揃え、感触を確かめるようにゆっくり沈める。


隣で、たかちゃんが同じキーボードのキーを一つ押していた。


コト、と少しだけ重い音。


「タクタイルだな。中間に段差がある。

底まで押さなくても、入力されたのが分かる」


たかちゃんは、いつもの調子で淡々と説明する。


「……さっきのより、こっちのほうが指に来るわね」


もう一度キーを沈める。


コト。


その音に合わせるように、

すぐ後ろでこころんが、ふうんと頷く。


「ルナちゃんって、ちゃんと確かめて選ぶんだね〜」


「当然でしょ。キーボードは武器なんだから」


言い切ってから、ほんの少し視線を逸らす。

——本気だって、気づかれた気がして。


たかちゃんが静かに続ける。


「大会用なら耐久性優先だな。寿命は五千万回以上。持ち込み前提ならなおさら」


「……五千万回、ね。数字で安心するタイプ?」


「合理的だからな」


こころんの小さな笑いが、打鍵音に溶ける。


「ふふっ。二人とも、本気だなぁ」


あたしは小さく息をつき、そのまま隣のモデルにも指を伸ばす。


コト。コト。コト。

最後の一打で、指を止める。


「……これ、悪くない」


「ルナちゃん、これに決めちゃう?」


「悪くはないけど、まだ他も試したいわね」


こころんがくすっと笑い、ひらひらと手を振る。


「じゃあ、ちょっとお手洗い行ってくるね。二人で詰めといて〜」


軽い足取りが、キーボードの列の向こうへ紛れていく。


その背中が通路の向こうに消えた瞬間、

周囲のざわめきが一段だけ遠くなる。


打鍵音だけが、やけに近く響く。


気づけば、たかちゃんが隣に立っていた。

さっきより、ほんの少し距離が近い。


(……落ち着け、あたし)


「もう一回、打ってみろ」


迷いのない声に、

そっと指を伸ばす。


位置を示すように、隣からたかちゃんの手が伸びる。


キーを押し込む寸前、

たかちゃんの指が、あたしの指に触れた。


――その刹那。


世界が、わずかに軋む。


バチッ、と。


鋭い衝撃が神経の奥を走る。

視界の裏側で、何かが接続する。


時間が――ワンフレームだけ、抜け落ちる。


——ああ。これ、知っとる。


打鍵音と蛍光灯の白い光が戻る。


――そのはずだったのに。


輪郭が、わずかに揺らぐ。


蛍光灯の白が滲み、キーボードの黒が溶ける。

現実が一枚、剥がれた次の瞬間――

別の景色が視界に割り込んでくる。


⸻⸻


玄関先。

乾いた木の匂い。


幼い少女が、年配の男の隣に立っている。

唇をきゅっと結び、指先だけが震える。


少女が、ためらうように口を開く。


『……わたし、こころっ……』


息が、詰まる。


『あなたが、たかゆき……くん?』


⸻⸻


瞬きひとつで、景色が跳ぶ。


白い病室。

規則正しかった電子音が、ふっと途切れ、

モニターの波形が一直線になる。


その一瞬の静寂。


『いやだ……お父さんっ』


少女の声が、空気を裂く。


伸ばしかけた手が、大人の手に止められる。


⸻⸻


さらに、跳ぶ。


床に弾むバスケットボールの音。

割れるような歓声。

電光掲示板の光。

観客席が、どよめいている。


『俺が止める……!』


踏み込もうとした――次の瞬間、崩れる。


視界が傾く。

冷たい床。守れなかった何か。


⸻⸻


そして、最後に。


境内を裂く閃光。

石段の上の社殿が白く揺れる。

白に塗りつぶされる視界。

誰かの前に、迷いなく立つ背中。


喉の奥から絞り出す声。


『やめろ……!』


身体の芯を、何かが貫いた。


――『我が加護のもとにある』


⸻⸻


そこで、断ち切れる。


蛍光灯の白い光。キーボード。

触れたままの指先。

熱だけが、まだ消えない。


現実の輪郭が戻る。


繋がった先にあったのは——

たかちゃんの記憶。


(……そうか。あのときの光……)


視線が合った。


「……いまの、何……?」


たかちゃんの指が、ほんの一瞬止まる。


「……静電気だろ。今の」


合理的な声音。


「……うん」


——そういうことにしておけば、楽なのに。

指先だけが、まだ落ち着かない。


沈黙を切るように、

たかちゃんはもう一度キーを押す。


「反発は安定してる。これでいい」


いつも通りの、冷静な声。

あたしは、何事もなかったみたいに小さく頷いた。


——それでも。


触れた場所だけ、熱が消えなかった。


背後から、いつもの明るい声が飛んでくる。


「お待たせ〜。どう? 決まった?」


あたしは、キーボードから指を離した。


「……うん。これにする」


「お、いい感じじゃん♪」


たかちゃんが淡々と補足する。


「大会使用なら十分だ」


こころんが、あたしとたかちゃんを見比べて、

小さく首を傾げた。


「……なんか、空気変わった?」


一瞬だけ、視線がぶつかる。


「気のせいだ」

「……関係ないわ」


ほとんど同時だった。

それに気づいたこころんが、くすっと笑う。


「ふふっ、揃いすぎじゃない? 二人とも」


返す言葉がない。

あたしは、そっと視線を逸らした。


「じゃあ、次いこっか」


こころんの軽い足音が、売り場の奥へ続いていく。

たかちゃんと並んで、そのあとを追った。


電子部品コーナーの前で、たかちゃんが足を止める。

小さな抵抗セットとジャンパー線を、迷いなく手に取る。


「昨日言ってたやつ?」


「予備だ。在庫が不安定だった」


こころんが、くすっと笑う。


「ほんと、たかちゃんって抜かりないよね〜」


「欠品は予測可能なリスクだ」


その声は、いつも通り落ち着いている。


でも、ほんの一瞬だけ。

たかちゃんの視線が、自分の指先に落ちた気がした。


その空気を払うように、

こころんがレジ横の棚から、派手なパッケージの乙女ゲームを手に取った。


『月下のシークレット・ロマンス』


思わず、あたしの視線が止まる。


「ルナちゃん、こういうの興味あるっ?」


「まぁ……攻略対象のスペック次第、かな」


即答すると、こころんがくすっと笑う。


「ほらほら、そういうとこ。完全に攻略側の発想じゃん」


そう言いながら、パッケージをくるっと裏返す。


「えーっと……

“冷静沈着な理系男子。恋愛には極端に鈍感。攻略難易度Sランク”」


読み上げながら顔を上げ、たかちゃんへ視線を向ける。


「……完全に一致してる」


一瞬、沈黙。


たかちゃんがメガネの中央に指をかけ、

静かに押し上げた。


「それは違う」

「ゲームのキャラと現実を同一視するのは合理的じゃない」


「ちょ、ロマン全否定やめてっ!」


「そもそも前提が成立してない」


パッケージにちらりと視線を落とす。


「恋愛はゲームみたいに条件分岐が明確じゃない」


「つまり?」


「攻略難易度は算出不能だ」


その場の空気が、ふっと止まる。


次の瞬間、こころんが吹き出した。


「ちょっと待って、それはずるい!

 たかちゃんが恋愛を分析してるんだけど!」


「さては恋愛レベル、私の知らないところで上げてきたでしょ〜?」


こころんが、じっとたかちゃんを見る。


「そんなパラメータは定義されていない」


そのやり取りを横目に、あたしはもう一度パッケージへ視線を落とす。


「……でも、少しだけ気になるかも」


こころんの目がきらりと光る。


「え、どっち!?」


「操作性が気になるだけだから」


「……いやいや、乙女ゲームに操作性は求めないの!」


横で、たかちゃんが淡々と言う。


「だが、操作が重いと感情移入もしづらいよな」


空気が、わずかに張りつめる。


「重いのは操作じゃなくて、攻略対象への《《想い》》でしょ!」


「……論理が破綻している」


「でもロマンとしては正解でしょ?」


「……完全否定はしない」


こころんが肩をすくめる。


「それでいいの、それが乙女ゲームなのよっ」


笑い声がこぼれ、空気がほどける。

思わずあたしも小さく笑った。


その横で、たかちゃんが小さく息を吐いた。


ふっと笑いの余韻が落ち着いたころ――


二人のやり取りを見ていると、

なんだか少しだけ、微笑ましい。


(二人、仲ええんやねぇ)


あたしは一人っ子だから、

こういう距離感には、まだ少し慣れていない。


……でも、なんでだろう。


(あの人のこと、ちょっと思い出してしもたんよ)


あのとき触れた指先が、ふっと脳裏をよぎる。


指先に残っていた温度は――

まだ完全には消えていなかった。



店を出ると、午前の光がまぶしい。


いつもは苦手だった陽の光が、

今日は少しだけやさしく感じる。


人の流れ。車の音。いつもの街のざわめき。


こころんが大きく伸びをする。


「よし、戦利品ゲット。今日はここまでかな〜」


「二十時。イベント戦だ。

 頼りにしてる」


たかちゃんがこちらを見て、短く言う。


その一言だけで――

胸の奥が、ほんの少し軽くなる。


「大丈夫。火力は任せて」


「期待してるよ、ルナちゃん♪」


こころんが軽く手を振る。

その横で、たかちゃんが小さく頷いた。


その様子を見ていると、ふと思い出す。

誘われた時、最初は少しだけ戸惑っていたこと。


画面の向こうでしか知らなかった二人と、

こうして会っていることが――

まだ少し夢みたいで、実感が追いつかなかった。


それでも。


ふたりに会えてよかった。


「じゃあ、また夜に」


それぞれが別方向へ歩き出す。

あたしはレジ袋を持ち直した。


触れた感触が、まだ少しだけ残っている気がする。


(《《あれ》》って……やっぱり、そうなんやろか)


たまたま……とは思えない。

でも今は、追わない。


そっと、指を握り直す。


顔を上げると、雲ひとつない空が広がっていた。

昼の光が、静かに降りそそいでいた。


バッグに付けた、もふラビ。

真っ白い体が昼の光を受けて、

銀色のチェーンを揺らしながら――きらりと光る。


こころんと、たかちゃん。

ログの向こう側じゃなくて、ちゃんと会えた。


それだけで、十分かもしれん。


「あーあ」


小さく息を吐く。


「……こういう日も、悪くないな」


晴天の下で、あたしは少しだけ笑った。


* * *


【5月4日(月)午後10:48/越智家・自室/越智隆之】


イベント戦は終了した。

結果は勝利。ダメージ効率、スキル回転、連携精度――いずれも想定の範囲内だ。


ログを確認してからPCの電源を落とすと、モニターの光が消え、部屋の輪郭が静かに浮かび上がる。


椅子にもたれ、目を閉じる。


午前中の出来事が、思考の表層に浮かぶ。

常盤町のPCショップ。展示機のキーボード。

接触。静電気。

そして――映像の流入。


自分の記憶ではない断片が、あまりにも鮮明だった。


石段が続き、その先に大規模な社殿がそびえている。

一般的な神社より明らかに規模が大きく、柱は整い、屋根にも明確な損傷はない。

古い神社のはずだが、風化の痕跡がほとんど見当たらない。


空には満月がかかっていたが、その光は白ではなく、わずかに朱を帯びて境内を染めていた。


社の前に、一頭の大きな白い犬が立っていた。

動かない。吠えない。

ただ、月光の中でまっすぐこちらを見ていた。


次の瞬間、映像は途切れた。


自室の空気が静かに戻る。

デスク上のキーボードに、指先の感触がまだ残っている。


合理的に考えれば、昼間の接触による一時的な感覚の錯乱。

あるいは記憶の混線だ。


仮説A:静電気。

仮説B:疲労による再構成(既視情報の編集)。

仮説C:未定義。


だがひとつだけ、説明がつかない。

あれは自分の記憶ではない。

——その確かさだけが、妙に残っている。


そのとき、思考を遮るようにスマホが震えた。

犬神千陽の名前が画面に浮かぶ。


《明日、朝九時に神社でねっ! 遅刻したら許さないからね〜っ!》


既読をつけ、内容を確認する。

予定通りだ。朝九時、犬神神社。

返信欄に指を置いたまま、昼間に流れ込んだ映像がふと重なる。

石段の奥に広がる社殿、朱を帯びた満月、その前に佇む白い犬。


偶然と言えばそれまでだが、完全に無関係と切り捨てるには少しだけ引っかかる。

もっとも、思考を重ねたところで答えが出る類のものではない。現地を見れば分かることもあるだろう。


《了解》


短く打ち込んで送信し、スマホを伏せる。


明日は調査だ。

それ以上でも、それ以下でもない――はずだ。


だが――

白い犬の視線だけが、妙に記憶の奥に残り続けていた。


灯りを落とし、ベッドに横になると、思考はゆっくりと沈んでいく。

イベント戦の数値も昼間の断片も、意識の奥へ押し流され、やがて白い余白だけが残った。



……。


暗闇のはずだった。


だが、視界に広がったのは影のない白だった。

境界も奥行きも曖昧で、足場の感触すらない。

それでも自分が立っていると分かる。

呼吸も思考も、はっきりしている。


――夢の中、だよな。


理屈ではそう結論づけられる。だが、現実と区別がつかないほど鮮明だ。


白の奥に、ゆらぎが生まれる。


視線を向けると、そこに輪郭が浮かび上がる。

長い銀の髪が揺れ、月光をまとったような淡い存在が形を取る。映像ではない。昼間の残像でもない。


――Lunaria。


彼女もまた、こちらを見ている。


距離があるはずなのに、気配は近い。触れられそうで、触れられない。

その不思議な均衡の中で、心拍だけがわずかに速まる。


やがて彼女が静かに息を吸う。


「……たかちゃん」


その声は、はっきりと現実の温度を持っていた。


これはただの夢だと、今は結論づけている。


だが、この夜の始まりが、俺の“平常ログ”を根底から揺るがすことになるとは――

この時の俺は、まだ想定していなかった。

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