九話 鼠小僧
九話 鼠小僧
江戸の夜。
月明かりの下を、一つの影が走っていた。
瓦を踏む足音は、鼠よりも軽い。
大名屋敷の高い塀も、見張りの侍も、その男には何ほどのものでもない。
男の名は、次郎吉。
後に人々から、鼠小僧と呼ばれる盗人である。
「へへっ。今夜もいただきだ」
狙いは黒松藩の江戸屋敷。
飢饉のさなかにも年貢を取り立て、領民を泣かせて蓄えた金が、蔵に山ほど眠っているという。
次郎吉は屋根から奥座敷へ忍び込み、畳をめくった。
床板の下には、隠し階段があった。
「ずいぶん念入りじゃねえか」
薄暗い階段を下りると、鉄でできた頑丈な扉がある。
だが、その扉はすでに開いていた。
「……先客か?」
蔵の中では、一人の男が箱をひっくり返していた。
裃姿に、悪そうな顔。
江戸の町を預かる、悪代官である。
「誰だ」
「そいつは、こっちの台詞だ」
二人はしばし、黙って見つめ合った。
次郎吉が小判の詰まった箱を抱え、悪代官は帳面の束を抱えている。
「泥棒め」
「役人に言われたくねえな」
「わしは調べ物をしておる」
「俺も金の置き場所を調べてたところだ」
そのとき、屋敷の方で鐘が鳴った。
「曲者だ!」
「蔵を囲め!」
次郎吉は小判の箱を背負い、悪代官の襟首をつかんだ。
「おい、何をする」
「その腹じゃ、屋根には上がれねえだろ」
「誰の腹が餅のようだ!」
「黙ってつかまってろ。舌を噛むぞ」
二人は同じ縄を伝い、塀を越えた。
大名屋敷から、盗人と代官が並んで逃げる。
世にも奇妙な夜であった。
*
夜が明けるころ、二人は神社の床下に身を隠していた。
次郎吉は小判を数え、悪代官は帳面をめくっている。
「おい、次郎吉」
「どうして俺の名を知ってやがる」
「役人を見くびるな。おぬしがどこの賭場に出入りし、どこの女に振られたかまで知っておる」
「最後のは余計だ」
悪代官が手に入れたのは、黒松藩が年貢をごまかし、幕府の役人へ賄賂を渡していた証拠であった。
村から米を取り上げ、帳面には不作と記し、浮いた分を商人へ横流しする。
飢えた百姓の血で、小判を磨いていたのである。
「その金、どうするつもりだ」
「決まってらあ。酒と賭け事だ」
「貧しい者へ配る気はないのか」
「あるわけねえだろ。俺は盗人だぞ」
次郎吉は笑った。
悪びれもせず、善人ぶりもせず、ただ正直に。
悪代官は深いため息をついた。
「まったく、救いようのない男よ」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
やがて次郎吉は、小判箱を担いで去った。
その背を見送りながら、悪代官は懐から一粒の納豆を取り出した。
「さて。糸をたどるか」
*
黒松藩の家老は、その日のうちに呼び出された。
薄暗い座敷には、悪代官と、藩御用達の米問屋が待っていた。
家老の前には、山吹色の菓子が積まれている。
「おぬしも悪よのう」
悪代官が笑った。
家老も額に汗を浮かべながら、引きつった笑みを返した。
「いえいえ、お代官様ほどではございません」
「では、あの件よろしゅうお願いいたします」
「くどいわ。もう分かっておる。もう行け。くれぐれも人に見つかるな」
家老が座敷を出た直後、襖の向こうから役人たちが現れた。
悪代官の手には、昨夜の帳面がある。
「聞いたな」
「はっ。しかと」
こうして黒松藩の不正は白日の下にさらされた。
だが、取り上げられた金のすべてが戻ったわけではない。
次郎吉が盗み出した小判は、数日のうちに江戸の賭場と酒屋へ消えた。
……はずであった。
賭場の主は悪代官の手の者だった。
酒屋の主人も、その隣の質屋もそうだった。
次郎吉が使った小判は、一枚残らず悪代官のもとへ戻ってきた。
そしてある夜。
黒松藩の領内で、貧しい家々の戸口に包みが置かれた。
中には小判と米、そして一粒の納豆。
差出人の名は、どこにもなかった。
翌朝、村人たちは口々に噂した。
「鼠小僧さまが届けてくださったに違いない」
「お侍から盗んで、俺たちに分けてくれたんだ」
噂は村から町へ、町から江戸へ。
細い糸が絡み合うように広がっていった。
鼠小僧は、金持ちから盗み、貧しい者へ配る義賊である。
そう信じる者が、日に日に増えていった。
*
「俺は一文も配っちゃいねえ!」
数か月後。
次郎吉は悪代官の屋敷へ怒鳴り込んできた。
食卓には炊きたての白飯と、糸を引く納豆が並んでいる。
「人聞きの悪い噂を流しやがって。俺は善人じゃねえぞ」
「知っておる」
「なら、なぜ俺の仕業にした」
悪代官は納豆を飯にかけ、静かにかき混ぜた。
「役人が返した金だと言えば、民は疑う。盗人が返した金だと言えば、民は喜ぶ」
「だからってなあ」
「人は、正しい話よりも、信じたい話を信じるものよ」
次郎吉は勝手に飯をよそった。
「ひでえ話だ」
「盗人に言われたくない」
二人は同じ納豆をつついた。
悪代官が糸を引き、次郎吉が糸を切る。
「臭えな」
「おぬしもな」
「俺は風呂に入ったばかりだ」
「生き方の話をしておる」
次郎吉は声を上げて笑った。
*
天保三年。
鼠小僧次郎吉は、ついに捕らえられた。
盗みに入った屋敷で見つかり、逃げ切れなかったのである。
三十を超える大名屋敷に忍び込み、盗んだ金は三千両を超えるともいわれた。
庶民は助命を願った。
貧しい者を救った義賊を、殺さないでくれと。
しかし盗みは盗みである。
積み重ねた罪まで、噂で消すことはできない。
処刑の前夜、悪代官は牢を訪れた。
次郎吉は格子の向こうで、壁にもたれていた。
「遅かったな」
「助けには来ぬぞ」
「分かってらあ」
しばらく、二人は黙っていた。
遠くで、夜回りの拍子木が鳴っている。
「なあ、代官」
「なんだ」
「俺は、誰も救っちゃいねえ」
「知っておる」
「盗んだ金は、遊んで使った。ただの盗人だ」
「それも知っておる」
「それなのに、みんな俺を義賊と呼ぶ」
悪代官は、懐から小さな包みを取り出した。
中には白飯と納豆が入っていた。
「おぬしが盗んだ金で、救われた者は確かにいた」
「俺が配ったんじゃねえ」
「誰の手から渡ったかなど、腹を空かせた者には関係あるまい」
「俺の手柄にするなよ」
「ならば、あの世で訂正して回れ」
次郎吉は笑った。
あの夜、神社の床下で笑ったときと、同じ顔だった。
「勝手な野郎だ」
「お互い様よ」
悪代官は格子の間から、包みを差し入れた。
次郎吉は納豆を一口食べ、顔をしかめた。
「やっぱり臭えな」
「だが、糸は残る」
「俺が死んでもか」
「人が死ねば、名が残る。名が消えても、話が残る。話が変わっても――思いは残る」
次郎吉は、小さく鼻を鳴らした。
「じゃあ、好きにしろ」
翌日。
鼠小僧次郎吉は、江戸の空の下で命を終えた。
だが、人々の中に生まれた義賊は死ななかった。
講談となり、芝居となり、時代を越えて屋根の上を走り続けた。
真実とは、起きたことだけではない。
人々が、そうであってほしいと願ったこともまた、いつか歴史の顔をする。
悪代官は一族の記録に、こう記した。
――鼠小僧次郎吉。ただの盗人。
――されど、その名によって救われた者、多し。
食卓に残るは、一粒一粒の熱い思い。
糸はまた、次の時代へと伸びていく。
それから数年後。
土佐の国に、一人の男が生まれた。
男はやがて、藩という高い塀を越え、国そのものを動かそうとする。
その名は――
坂本龍馬。




