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八話 暴れん坊将軍


八話 暴れん坊将軍


「では、徳田新之助と名乗ろう」


悪代官は、嫌な予感がした。

その予感は、よく当たった。


翌朝。


将軍の姿が江戸城から消えた。

残されていたのは、畳んだ着物と一枚の紙だけ。


『町を見てくる』


「子どもか!」


悪代官は思わず声を上げた。


「上様を捜しますか」


息子が尋ねる。


「当たり前だ。豆を全部出せ」


「全部ですか」


「あの御方に何かあれば、我らの首が全部飛ぶ」


江戸中の豆が動いた。

納豆売り。

魚売り。

飛脚。

駕籠かき。


その日の昼前。


一人の納豆売りから知らせが届いた。


『上様、米問屋で喧嘩』


悪代官は頭を抱えた。


日本橋の米問屋。

店の前で、一人の浪人が主人へ詰め寄っていた。


徳田新之助。


そう名乗る、八代将軍徳川吉宗である。


「蔵に米があるではないか」


新之助が言った。


「売る米はございません」


問屋の主人は、冷たく答えた。

その横では、老婆が空の袋を握っている。


「昨日より、また値が上がっております。これでは買えません」


「金がないなら帰れ」


主人が老婆を押しのけた。


新之助は、その腕をつかんだ。


「米を隠し、値をつり上げているな」


「言いがかりはよしてもらおう」


店の奥から、用心棒たちが現れた。

新之助は刀へ手をかける。


「そこまでだ」


悪代官が割って入った。


「何者だ」


主人が尋ねる。


「この辺りを任されている代官だ」


悪代官は新之助を見た。


「この浪人は、わしが引き取ろう」


「放せ。こやつらは米を――」


「黙れ、新之助」


「貴様、余に向かって――」


悪代官は慌てて新之助の口を塞いだ。


「よ、酔っておるのだ。この者は酒に酔うと、自分を偉い者だと思い込む」


「誰が酔っている!」


新之助は悪代官の手を振り払った。


「早く連れていけ」


問屋の主人が、うんざりした顔で言う。

悪代官は新之助を店の外へ引きずり出した。

路地へ入ったところで手を放す。


「何をする!」


「それはこちらの台詞です」


「米を隠していたぞ」


「知っております」


新之助は目を細めた。


「なぜ捕らえぬ」


「あの問屋だけではないからです」


悪代官は懐から、小さな紙を出した。

米問屋の名が、いくつも書かれている。


「江戸中の問屋が、同じ日に米を隠しております。裏で糸を引く者がいる」


「ならば、なおさら急いで捕らえるべきだ」


「一軒を捕らえれば、残りが逃げます」


「民は、今日食う米に困っているのだぞ」


「だからこそ、二度と同じことが起きぬよう、根まで引き抜きます」


二人は、にらみ合った。

新之助が先に目をそらす。


「いつ捕らえる」


「今夜、問屋たちが蔵へ集まります」


「余も行く」


「来ないでください」


「これは命令だ」


「では、せめて何もせず見ていてください」


「分かった」


悪代官は信じなかった。


その夜。


町外れの大きな蔵へ、米問屋と役人たちが集まった。

山のように積まれた米俵。


悪代官は、彼らの前に座っている。


「お代官様。こちらが、お約束の品でございます」


問屋の主人が箱を差し出した。


中には小判が並んでいた。


「これで米の取り調べは、なかったことに」


「うむ」


悪代官は、いやらしく笑った。


「おぬしらも悪よのう」


「いえいえ、お代官様ほどでは」


そのとき。


蔵の戸が勢いよく開いた。


「そこまでだ!」


徳田新之助が立っていた。


悪代官は額を押さえた。


「何もせず見ていると、お約束したはずですが」


「十分に見た」


「まだ帳面の隠し場所を聞いておりません」


問屋たちは二人を見比べた。


「お代官様。この浪人もお仲間ですか」


「違う。勝手についてきた、ただの暴れん坊だ」


「誰が暴れん坊だ」


「上様です」


「上様?」


蔵の中が静まり返る。


新之助は、問屋たちを見渡した。


「余の顔を見忘れたか」


役人の一人が、顔を青くした。

だが、問屋の主人は笑い出した。


「上様が、このような場所にいるはずがない」


「その通りです」


悪代官は思わずうなずいた。


新之助がにらむ。


「今、余を疑ったか」


「少しだけ」


問屋の主人が叫んだ。


「この者たちは、上様の名を騙る不届き者だ! 斬れ!」


用心棒たちが、一斉に刀を抜いた。

新之助も刀を抜く。


一人。


二人。


三人。


次々と用心棒を倒していく。


悪代官は米俵の陰へ隠れた。


「お前も戦え!」


「わしは頭を使う役目です!」


「少しは体も使え!」


倒れた用心棒の刀が、悪代官の足元へ滑ってくる。

悪代官は恐る恐る拾った。


「仕方ない」


刀を構える。


刃は、なぜか用心棒ではなく新之助へ向いていた。


「なぜ余へ向ける!」


「こちらへ来ないでください。巻き込まれます」


「余が戦っているのだ!」


そのとき、天井から豆たちが降りてきた。

裏口からも、役人がなだれ込む。


問屋たちは、たちまち取り押さえられた。

蔵の奥から、取り引きを記した帳面も見つかった。


「最初から、豆を隠していたのか」


新之助が尋ねる。


「だから、来ないでほしかったのです」


問屋の主人が床へ伏せられる。

新之助は、その前へ立った。


「民の命を弄び、私腹を肥やした罪。許し難い」


刀を収める。


「成敗!」



「…もう捕らえております」


悪代官が言った。


「一度、言ってみたかっただけだ」


「そうですか」


隠されていた米は、町へ戻された。

値も下がり、老婆の袋にも米が入った。


翌日。


江戸城で、新之助は将軍の着物へ戻っていた。


「町へ出れば、城では聞けぬ話が聞ける」


「毎回、上様が出ていくわけにはまいりません」


「ならば、町の者が直接、話を届ける方法を作る」


城の前に、箱が置かれた。

身分を問わず、願いや訴えを入れられる箱。


目安箱である。


その中へ、一人の医者が願いを入れた。

金のない者でも、病を診てもらえる場所を作ってほしい。

その願いは将軍へ届き、やがて小石川に養生所が作られた。


悪代官は、目安箱を見上げた。


一人の将軍が町を走り回るより、よほど多くの声が届く。


「これで、城を抜け出す必要はありませんな」


「必要があれば、また出る」


「なりません」


「決めるのは余だ」


悪代官はため息をついた。

まったく、暴れん坊な将軍である。


それから百年ほどが過ぎた。


目安箱を置いた将軍も、悪代官も、すでにいない。


声を届けるはずの糸は、再び途中で絡まり始めていた。


そのころ江戸の屋根を、一人の男が走っていた。


大名屋敷ばかりを狙う盗人。


人々は、男をこう呼んだ。


鼠小僧。

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