七話 生類憐みの令
七話 生類憐みの令
お七が処刑されてから、二年ほどが過ぎた。
八百屋だった家は、戸を閉ざしている。
店先には、一匹の犬が座っていた。
痩せた野良犬だった。
以前、お七が野菜の切れ端を与えていたらしい。
もう誰も出てこない店の前で、今日も待っている。
悪代官は犬の前へ、芋を一つ置いた。
犬は匂いを嗅いだだけで、食べようとしない。
「納豆の方がよかったか」
犬は顔を背けた。
「そうか。嫌いか」
悪代官は犬の隣へ座った。
人は、一度の過ちで命を奪われる。
この犬は、何も知らずに生きている。
生き物の命に、重いも軽いもあるのだろうか。
「お前には、あの娘が見えていたのかもしれんな」
犬は答えない。
ただ、閉じた戸を見つめていた。
そのころ江戸城では、弱い命を守るための決まりが作られていた。
捨て子をしてはならぬ。
病人を道へ捨ててはならぬ。
年老いた者をいたわれ。
馬や犬を、むやみに傷つけてはならぬ。
将軍、徳川綱吉の命である。
人々は、その決まりを――。
生類憐みの令と呼んだ。
決まりによって、救われた命があった。
橋の下に置き去りにされた赤子が保護された。
病に倒れた旅人が、道端から運ばれた。
年を取って働けなくなった馬が、打ち殺されずに済んだ。
店先にいた犬も、町の者から餌をもらうようになった。
「よい決まりではありませんか」
悪代官の息子が言った。
「ああ」
「父上が望んでいたものでは?」
悪代官は、すぐには答えなかった。
「決まりが命を守ることはある」
「はい」
「だが、決まりを守るのは人だ」
悪代官は町を見た。
役人たちが犬を数えている。
一匹。
二匹。
三匹。
犬を大切にした数が多いほど、将軍への忠義を示せる。
いつしか役人たちは、そう考えるようになっていた。
犬へ餌を与えた。
犬小屋を建てた。
犬を傷つけた者を捕らえた。
昨日より今日。
隣の役人より自分。
憐れんだ命の数ではなく、使った金と捕らえた人の数を競い始めた。
ある日。
一人の少年が捕らえられた。
犬を棒で殴ったという。
悪代官は、少年と向き合った。
「なぜ犬を殴った」
「妹を守るためです」
「犬が襲ったのか」
少年はうなずいた。
隣には、まだ幼い妹がいる。
腕には、犬にかまれた傷が残っていた。
「役人には話したのか」
「話しました」
「何と言われた」
「犬を怒らせた妹が悪いと」
悪代官は目を閉じた。
その日の夕方。
一人の女が、犬の餌を盗んだ罪で連れてこられた。
女の腕の中には、痩せた赤子がいる。
「犬の飯を、子に食わせました」
女は、それだけ言った。
町では、人より犬の方が多くの飯を与えられていた。
犬を守るための小屋が建てられ、そこへ大量の米や魚が運ばれる。
だが、小屋の犬は痩せていた。
「餌は、どこへ消えた」
悪代官が尋ねる。
役人は答えた。
「すべて犬に与えております」
「では、なぜ犬が痩せている」
「犬にも、食の細い者がおりましょう」
「ずいぶんと一斉に細くなったものだな」
…。
悪代官は豆たちを放った。
米問屋。
魚屋。
犬小屋を建てた大工。
餌を運ぶ人足。
糸をたどると、一人の役人へ行き着いた。
犬の餌を少なくし、余った分を商人へ売っている。
犬小屋を必要以上に造らせ、代金の一部を受け取っている。
さらに、人を厳しく罰することで、自らの忠義を示していた。
数日後。
その役人は、悪代官の屋敷を訪ねた。
「お代官様。最近、私の周りを嗅ぎ回る者がいるようで」
役人は箱を差し出した。
中には小判が並んでいる。
「犬の餌代で、ずいぶん儲けたようだな」
「生き物を守るにも、金が要りますので」
「犬は痩せておったぞ」
「痩せた犬ほど、守ってやったように見えましょう」
役人は笑った。
「それに、人を厳しく取り締まれば、上の覚えもよくなります」
「おぬしも悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」
「それを聞いて安心した」
悪代官が手をたたく。
障子の向こうから、豆たちと役人が現れた。
いつものように、悪人の笑みが消えた。
不正に関わった者たちは捕らえられた。
盗まれた餌は、犬小屋へ戻された。
その一部は、飢えた者へも配られた。
妹を守った少年は、罪に問われなかった。
赤子に飯を与えた女も、放免された。
だが、同じようなことは町のあちこちで起きていた。
一人を捕らえても、別の役人がやり過ぎる。
一つを正しても、別の決まりが増える。
悪代官は、江戸城で重臣と向き合った。
「生き物を憐れむよう命じたはずだ」
重臣が言う。
「なぜ、人が苦しむ」
「憐れみを、罰の数で示そうとするからです」
「命に従っているだけであろう」
「命令には従わせられます」
悪代官は答えた。
「ですが、心まで従わせることはできませぬ」
「では、どうすればよい」
「傷つけるなと命じるだけでは足りませぬ。なぜ傷つけたのかを見なければ」
犬を殴った少年。
餌を盗んだ母親。
二人とも、守りたい命があった。
「人も生き物でございます」
悪代官は続けた。
「人を苦しめて犬を守るなら、それは憐れみではありませぬ」
重臣は黙っていた。
決まりは、すぐにはなくならなかった。
救われる命もあった。
苦しめられる命もあった。
善い決まりだったのか。
悪い決まりだったのか。
悪代官には、最後まで分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
憐れみとは、上から下へ与えるものではない。
同じ高さに立ち、その痛みに気づくことだった。
やがて、綱吉が世を去った。
生類憐みの令も、終わりを迎えた。
それから、幾人かの将軍が替わった。
悪代官の役目も、次の代へ渡された。
享保元年。
八代将軍となった一人の男が、悪代官へ尋ねた。
「城へ届く話は、真実か」
「半分ほどは」
「残りの半分は?」
「聞かせたい者に都合のよい話でございます」
将軍は立ち上がった。
「ならば、自分で町を見てくる」
「お待ちください」
「止めるな」
「せめて、お名前をお変えください」
将軍は少し考えた。
「では、徳田新之助と名乗ろう」
悪代官は、嫌な予感がした。




