六話 八百屋お七
六話 八百屋お七
天和二年。
江戸の町が燃えた。
火は風に乗り、家から家へ移っていく。
「火事だ!」
「水を持ってこい!」
「早く逃げろ!」
怒鳴り声。
泣き声。
崩れる家の音。
空は夜よりも赤かった。
本郷で八百屋を営む家族も、焼け出された。
その家の娘を、お七といった。
家族は、近くの寺へ身を寄せた。
そこでお七は、一人の若者と出会った。
名は吉三郎。
「寒くないか」
吉三郎は、自分の羽織をお七へ渡した。
「でも、あなたが寒くなります」
「俺は火の近くにいるから大丈夫だ」
燃える町を見ながら、吉三郎は笑った。
「あまり近づいては危ないですよ」
お七も笑った。
家を失った夜。
二人は出会った。
やがて町は建て直され、お七の家族も寺を出た。
吉三郎とは、それきりになった。
お七は毎日、野菜を並べた。
大根。
ごぼう。
人参。
客が来れば笑い、野菜を包む。
だが、夕方になると寺の方角を見た。
もう一度、会いたい。
ただ、それだけだった。
その姿を見ている男がいた。
材木問屋の主人だった。
火事のあと、材木はよく売れた。
家が焼ければ焼けるほど、儲かった。
「あの寺へ行きたいのかい」
ある日、主人はお七へ声をかけた。
「……どうして、それを」
「毎日見ていれば分かるさ」
主人は声をひそめる。
「また火事になれば、皆、あの寺へ避難するだろうな」
お七は主人を見た。
「何を言っているのです」
「大きな火でなくていい。空き家の隅を少し燃やすだけだ。すぐに消す。誰も傷つかない」
「そんなこと、できません」
「そうか。なら、あの若者とは二度と会えぬだろうな」
主人は、それ以上何も言わず去っていった。
数日後。
お七の店へ、小さな油壺が届けられた。
差出人の名はない。
その夜。
お七は油壺を抱え、町を歩いていた。
足が震えている。
何度も引き返そうとした。
それでも、吉三郎の顔が浮かんだ。
誰もいない空き家へ入る。
油を垂らす。
火打石を持つ手が、震えた。
「少しだけ……」
火がついた。
小さな火だった。
すぐに消せるはずだった。
そのとき、離れた場所から別の炎が上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
材木問屋の手下たちが、ほかの空き家にも火を放っていた。
「違う……」
お七は立ち尽くした。
「こんな話じゃなかった」
炎が壁を伝う。
お七は外へ飛び出し、声を上げた。
「火事です!」
「誰か来て!」
自ら鐘を鳴らした。
人々が集まり、火は大きくなる前に消し止められた。
死んだ者はいなかった。
だが、お七は火をつけたところを見られていた。
すぐに捕らえられた。
翌朝。
悪代官のもとへ、一粒の豆が駆け込んできた。
「お七という娘が、火をつけたそうです」
「それなら町奉行の仕事だ」
「同じ夜、材木問屋の者たちが空き家を回っています」
悪代官は顔を上げた。
「火事のあと、その問屋はずいぶん儲けたようです」
「なるほど。臭うな」
「納豆よりも?」
「比べるな。納豆に失礼だ」
豆たちは動いた。
油を売った店。
火を放たれた空き家。
問屋へ運び込まれた金。
役人へ渡された賄賂。
糸を一つずつ、たどっていく。
その間にも、お七への裁きは進んでいた。
火つけは重い罪である。
お七は、自分が火をつけたことを認めた。
だが、材木問屋の名は出さなかった。
主人から、こう脅されていたからだ。
自分の名を言えば、吉三郎も仲間として捕らえる。
お七は、それを信じていた。
数日後。
材木問屋の主人が、悪代官の屋敷を訪れた。
「お代官様。例の娘の件でございますが」
主人は、風呂敷に包んだ箱を差し出した。
「娘一人の仕業。それで終わりにしていただきたい」
悪代官は箱を開けた。
小判が並んでいる。
「火事になれば、材木が売れる」
悪代官が言った。
「そういうことでございます」
「娘に小さな火をつけさせ、その間におぬしらが町を燃やす」
「まさか。私はただ、恋する娘の願いを少し手伝っただけで」
主人は笑った。
「娘一人なら、皆も納得いたしましょう。恋に狂って火をつけた。分かりやすい話でございます」
「おぬしも悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」
主人が頭を下げた。
悪代官は、障子へ声をかける。
「聞いたか」
障子が開く。
そこには、町奉行の配下と豆たちがいた。
材木問屋の主人から、笑みが消えた。
「話が分かりやすくなって、助かったぞ」
主人と手下たちは捕らえられた。
賄賂を受け取った役人も、罪を問われた。
だが、お七が火をつけた事実は消えなかった。
一度下された裁きも、覆らなかった。
悪代官は牢のお七を訪ねた。
「材木問屋は捕らえた。吉三郎に罪はない」
お七は、力なく笑った。
「よかった」
「よくはない」
悪代官は、格子をつかんだ。
「次に年を聞かれたら、十五と答えろ」
お七は悪代官を見た。
「お前は、まだ十五だ。よいな」
「私は、十六です」
「違う。十五だ」
「どうして嘘をつくのですか」
「生きるためだ」
お七はうつむいた。
「私が嘘をついたら、あの人たちまで嘘をついていると思われませんか」
「誰も、そのようなことは――」
「私は、火をつけました」
お七は顔を上げた。
「小さな火ならいいと思いました。誰も傷つかないと思いました。だから、私にも罪があります」
悪代官は何も言えなかった。
「でも、全部が私一人のせいではないことも、残してください」
「残す」
「吉三郎さんに、伝えてください」
お七は少しだけ笑った。
「羽織、返せなくてごめんなさい、と」
やがて、お七は処刑された。
人々は、この出来事を語った。
恋する男に会いたいあまり、火をつけた娘。
愚かな娘。
恐ろしい娘。
材木問屋の名は、忘れられた。
火事で金を得ようとした者たちの名も、忘れられた。
八百屋お七の名だけが残った。
悪代官は、帳面にすべてを書いた。
恋が、娘を燃やしたのではない。
娘の恋に、大人たちが火をつけた。
そして、その火を消すには遅すぎた。
お七が命を失ってから、二年ほどが過ぎた。
江戸の町に、新たな決まりが出された。
犬を傷つけてはならぬ。
生き物を、むやみに殺してはならぬ。
人々は、それを――。
生類憐みの令と呼んだ。




