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五話 水戸光圀公



五話 水戸光圀公


海の向こうから届いた、一冊の史書。


悪代官は、それを水戸へ送った。

書物を受け取った若者は、寝る間も惜しんで読み続けた。


古い国の成り立ち。

王たちの争い。


国のために命を捨てた者。

名も残らず、消えていった者。


「歴史とは、不思議なものだな」


若者はつぶやいた。


「何がでございますか」


家臣が尋ねる。


「国を動かした者の名は残る。だが、その者を支えた民の名は、ほとんど残らぬ」


「名を残すほどのことを、していないからでは」


若者は書物を閉じた。


「名を残した者が国を作ったのか。それとも、名を残さなかった者たちが国を支えたのか」


家臣は答えられなかった。


若者の名は、徳川光圀。

のちに水戸光圀公と呼ばれる男である。


それから幾年か過ぎた。

水戸藩主となった光圀の前に、一人の男が座っていた。


「お初にお目にかかります」


「お前が、悪代官か」


「はい」


「悪人には見えぬな」


「まだ何も差し出されておりませんので」


「金を渡せば、悪い顔になるのか」


「お望みでしたら」


「いらぬ」


光圀は顔をしかめた。


その横に、藁包みが置かれている。


「それは何だ」


「納豆でございます」


「見れば分かる」


悪代官は、どこかで聞いた言葉だと思った。


光圀は立ち上がり、壁に掛けられた国絵図の前へ進む。


「私は、この国の歴史を作りたい」


「歴史を、お作りになるので?」


「違う。歴史は、すでに起きている。それを集め、一つの書物にするのだ」


光圀は国絵図を見上げた。


「そのためには、各地に残る書物や言い伝えを調べねばならぬ」


「人を送ればよろしいかと」


「書物だけでは足りぬ」


「と申しますと」


「その土地で、誰が苦しんでいるのか。誰が何を守っているのか。それは、城に座っていては見えぬ」


光圀は振り返った。


「私が、諸国を巡ろうと思う」


「おやめください」


悪代官は即座に答えた。


「なぜだ」


「水戸藩主が突然やって来れば、皆、良い顔しか見せませぬ」


「身分を隠す」


「その立派な顔では無理でしょう」


「顔は関係ないだろう」


「それに、旅先で何かあれば大事になります」


「では、どうする」


悪代官は、藁包みを開いた。


箸で納豆を持ち上げる。

白い糸が伸びた。


「殿が歩けぬのなら、話の方から来てもらいましょう」


その日から、豆たちは新たな役目を持った。


各地に残る古い書物を探す。

寺の記録を写す。

年寄りの話を聞く。

消えかけた土地の名を記す。


同時に、今を生きる者の声も集めた。


重すぎる年貢。

役人の不正。

飢えた村。

理由も分からぬまま裁かれた者。


過去と今が、同じ糸を伝って水戸へ届く。


その中に、一つの知らせがあった。


『白波村、名主が年貢を偽り、余った米を売る』


光圀は報告を読み、顔を上げた。


「裁けるか」


「証が足りませぬ」


悪代官が答える。


「ならば、確かめよ」


「誰を向かわせます」


光圀は、控えていた二人の若者を見た。


「助」


一人が頭を下げる。


「格」


もう一人も頭を下げた。


「白波村へ行け。書かれたものだけでなく、自分の目で見てこい」


「はっ」


二人は旅人に姿を変え、村へ入った。


畑を見た。

蔵を見た。

村人の話を聞いた。


名主は、取れた米の量を少なく記し、余った米を商人へ売っていた。

さらに、その罪を百姓たちへ押しつけようとしていた。


助と格は証拠を集めた。

だが、名主の手下に囲まれた。


「よそ者が、余計なことを嗅ぎ回りおって」


「嗅ぎ回ったのではない」


助が答える。


「臭ってきたのだ」


「何?」


格は懐から、小さな印籠を取り出した。

表には、水戸徳川家の紋がある。


「この紋所が目に入らぬか」


辺りが静まり返った。


「この件、水戸光圀公のお耳に入っている」


名主の顔から血の気が引いた。

不正は明らかになり、奪われた米は村人へ返された。


光圀自身は、水戸を出ていない。


だが、村人たちは言った。


「水戸の御老公様が、悪い名主を懲らしめてくださった」


話は隣の村へ伝わった。


隣の村から、宿場へ。


宿場から、江戸へ。


語られるたびに、話は少しずつ変わっていく。


光圀が命じた。

光圀が裁いた。

光圀が村へ来た。

光圀が諸国を歩いた。


やがて、水戸光圀公は二人の供を連れ、国中を巡ることになった。

少なくとも、人々の話の中では。


「私は、いつ白波村へ行ったのだ」


光圀は届いた噂を読み、首をかしげた。


「さあ」


悪代官は納豆をかき回している。


「お前が流したのではあるまいな」


「そのような面倒なことはいたしませぬ」


「では、なぜこうなった」


「人は、名のない大勢の働きより、名のある一人の物語を好むのでしょう」


光圀は黙った。


机の上には、各地から集められた記録が積まれている。

一枚一枚を運んだ者の名は、どこにも書かれていない。


「豆たちの名を、歴史へ残せぬか」


「本人たちが望みませぬ」


「なぜだ」


「名を残せば、その者が死んだところで話が終わります」


悪代官は箸を持ち上げた。

一粒の豆から、いくつもの糸が伸びている。


「我らが残したいのは、名ではなく役目でございます」


光圀は、しばらく納豆を見つめた。


「ならば私は、名を残さぬ者たちがいたことを忘れぬよう、歴史を書く」


「それで十分かと」


こうして、光圀は国の歴史を集め続けた。


その名は残った。

その姿は物語となった。


だが、その足となって国中を歩いた者たちの名は残らなかった。


歴史に記された者。

歴史を運んだ者。


その間にも、糸は引かれていた。



そして、天和二年。


江戸の町が、赤く染まった。

大きな火が、多くの家を焼いた。


その火によって、一人の娘の運命が動き始める。


娘の名は――。


八百屋お七。

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