四話 鎖国
四話 鎖国
参勤交代によって、豆たちの糸は国中へ伸びた。
東へ。
西へ。
北へ。
南へ。
だが、その糸は海岸で途切れている。
海の向こうで何が起きているのか。
誰が、この国を見ているのか。
悪代官にも分からなかった。
そんなある日。
長崎から、一人の男が訪ねてきた。
日に焼けた顔。
潮の染みついた着物。
男は弥平と名乗った。
海を渡り、遠い国々と品を売り買いする商人だった。
「豆からの紹介で参りました」
弥平は懐から、藁包みを取り出した。
「海を越えてまで納豆を持ち歩くのか」
「これがないと、豆だと信じてもらえませんので」
悪代官は藁包みを受け取った。
鼻を近づける。
「……臭いな」
「船の中では、もっと臭います」
「外国の者は驚くだろう」
「腐った豆を食うのかと聞かれました」
「何と答えた」
「腐っているのではない。育っているのだと」
悪代官は、少し考えた。
「間違ってはいないが、納得はされまい」
「されませんでした」
弥平は大きな紙を床へ広げた。
海の向こうで作られた地図だった。
見慣れぬ文字。
見慣れぬ形の国々。
その端に、日本が描かれている。
「ずいぶん小さいな」
「海の向こうから見れば、この国も一つの島にすぎません」
地図の上には、いくつもの印がつけられていた。
外国の船が立ち寄る港。
武器が持ち込まれた場所。
異国の教えが広まっている土地。
外国の商人と、ひそかに取り引きをする大名。
「品を売りに来ているだけではないのか」
悪代官が尋ねた。
「そのような者もおります」
「では、違う者もいる」
弥平はうなずいた。
「初めは商人が来ます。次に、教えを広める者が来る。そのあとから兵が来た国を、私は見ました」
「日本にも兵が来ると?」
「分かりません」
「分からぬか」
「海の向こうにも、善い者と悪い者がおります。顔だけでは見分けられません」
悪代官は地図を見つめた。
善人のところへ、悪人は近づかぬ。
だが、悪人のところには、向こうから悪事を持ってくる。
それは海の向こうでも同じだろう。
問題は、悪人を演じても、その悪事が見えないことだった。
糸がない。
豆がいない。
何も見えぬまま、扉だけが開いている。
数日後。
悪代官は、幕府の重臣と向き合っていた。
二人の間に、異国の地図が置かれている。
「すべての外国船を追い返す」
重臣が言った。
「海を渡ることも禁ずる。この国へ戻ることも許さぬ」
「すべて閉じるおつもりで?」
「危ういものは、入れぬに限る」
「それでは、外で何が起きているのか分からなくなります」
「知らずともよい」
「見えぬものは、なくなったことにはなりませぬ」
悪代官は地図の上へ小判を置いた。
長崎。
対馬。
琉球。
そして、北の海。
「戸口を、ここに限りましょう」
「国を閉じるのではないのか」
「閉じ切ってはなりませぬ」
小判と小判の間に、白い糸を置く。
納豆から引いた糸だった。
重臣が顔をしかめた。
「なぜ、納豆を持ってきた」
「説明しやすいかと思いまして」
「臭くて話に集中できぬ」
「では、手短に」
悪代官は糸を、一本にまとめた。
「どこからでも入れるから、見張れぬのです。出入りする場所を決め、来る船を決め、運ぶ品を調べる。外へ伸びる糸を切るのではなく、我らの見える場所へ束ねます」
「細い糸だけを残す、と」
「はい。必要な品も、書物も、外の知らせも、そこから入れる」
重臣は黙って地図を見た。
やがて、小さくうなずいた。
国の戸は、少しずつ閉じられていった。
日本人が海を渡ることを禁じる。
すでに海の向こうへいる者が、国へ戻ることも禁じる。
外国の船を遠ざける。
異国との取り引きは、幕府の目が届く場所へ集める。
のちに人々が、鎖国と呼ぶ仕組みである。
しかし、国は完全に閉じたわけではない。
細い戸口は残された。
品が入る。
書物が入る。
外の知らせが入る。
そして、そのすべてを豆たちが見ていた。
政策が決まった夜。
弥平は、悪代官の屋敷を訪れた。
「海へ出ることが禁じられたそうです」
「ああ」
「国へ戻ることも」
「……ああ」
弥平は懐から、小さな飾りを取り出した。
異国の布で作られた、赤い花だった。
「海の向こうに、妻と娘がおります」
悪代官は何も言えなかった。
「次の船で戻ると、約束しました」
弥平の指が、赤い花を強く握る。
「私は、もう二人に会えないのでしょうか」
「……そうなる」
「あの地図を渡したからですか」
悪代官は答えなかった。
弥平が地図を持ち帰らなければ。
海の向こうの危うさを伝えなければ。
決まりは、もう少し遅れたかもしれない。
その間に、弥平は家族のもとへ戻れたかもしれない。
「私は、この国を守る手伝いをしたつもりでした」
「守った」
「ですが、私の帰る場所は、この国ではありません」
弥平は赤い花を懐へ戻した。
「守られた中に、私はいない」
そう言い残し、部屋を出ていった。
庭の虫が鳴いている。
悪代官は、一人で座っていた。
目の前には、食べかけの納豆がある。
かき回しても、糸は器の中でしか伸びない。
どれほど伸ばしても、海を越えることはなかった。
国を守ること。
人を閉じ込めること。
それは同じ扉を、どちら側から見るかの違いだった。
悪代官は、弥平の名を帳面へ記した。
国を守った者としてではない。
国を守るため、帰る場所を失った者として。
それから、幾年か過ぎた。
長崎から、一冊の書物が届いた。
海の向こうで書かれた、古い国の歴史だった。
戸は閉じられている。
だが、その隙間から、新しい考えは入り続けた。
悪代官は書物を包み直す。
「これは、水戸へ送れ」
「誰に届けますか」
「学ぶことに飢えた、若者がいる」
書物は、細く残された糸を伝い、水戸へ向かった。
その若者の名を――。
徳川光圀といった。




