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十話 坂本龍馬


十話 坂本龍馬


鼠小僧が処刑されてから、数年後。


土佐の国に、一人の男が生まれた。

名を、坂本龍馬という。


泣き虫で、寝小便垂れ。

剣を持たせれば強いが、学問はからきし。


誰も、この男が国を動かすとは思わなかった。


ただ一人を除いて。


龍馬が生まれた日。


江戸の悪代官は、一族の記録にその名を書き加えていた。


――土佐、郷士の家に男子誕生。


――名は直陰。のち、龍馬。


家人が首をかしげた。


「ただの赤子でございましょう」


「ああ。ただの赤子だ」


悪代官は筆を置き、納豆を一粒つまんだ。


「だからこそ、見ておくのだ」


歴史を変える者は、最初から英雄の顔をして生まれてくるわけではない。


腹を空かせ、泣き、笑い、誰かに抱かれる。


皆と同じ、一粒から始まる。


*


嘉永六年。


黒船が浦賀へ現れた。


巨大な船体。

空を震わせる大砲。

立ち上る黒い煙は、泰平の世を覆い隠した。


二百年以上続いた鎖国は、わずか四隻の船に揺さぶられた。


幕府は慌てた。

諸藩は騒いだ。

攘夷を叫ぶ者。

開国を説く者。

刀を抜く者。

商いを始める者。


皆が国を思いながら、皆が違う方を向いていた。


悪代官の屋敷にも、幕府から命が届いた。


――不穏な浪士どもを探り、捕らえよ。


名簿の中に、坂本龍馬の名があった。


悪代官は長い間、その名を見つめた。


そして名簿を火鉢へ放り込んだ。


「よろしいので?」


息子が尋ねた。


「よくはない」


「では、なぜ」


「今の世に必要なのは、命令を守る者ではない。命令そのものを疑う者だ」


紙は赤く燃え、灰になった。


だが、龍馬の名だけは、悪代官一族の記録に残された。


*


それから十余年。


長崎の港に、見慣れぬ男が立っていた。


ぼさぼさの髪。

よれた袴。

懐には拳銃。

足元には、なぜか革靴を履いている。


「おまんが、江戸の悪代官かえ」


「初対面で悪代官と呼ぶな」


「ほいたら、善代官かえ」


「それはもっと気味が悪い」


坂本龍馬は、声を上げて笑った。


悪代官は眉をひそめた。


「わしを呼びつけたのは、おぬしか」


「そうじゃ。頼みがある」


「断る」


「まだ何も言うちょらんぜよ」


「おぬしの頼みなど、面倒に決まっておる」


「さすが悪代官。話が早いのう」


龍馬は風呂敷包みを差し出した。


中には、山吹色の菓子が並んでいる。


「おぬしも悪よのう」


悪代官が笑った。


龍馬もにやりと笑う。


「いえいえ、お代官様ほどじゃございません」


二人は顔を見合わせた。


「一度、言うてみたかったがじゃ」


「軽い。代々受け継がれてきた大事なやり取りだぞ」


「そんなもんを受け継ぐな」


悪代官が箱を開ける。


菓子の下には、小判ではなく一枚の紙が隠されていた。


薩摩が名を伏せて武器を買い、それを長州へ渡す。

代わりに長州は、薩摩へ米を送る。


犬猿の仲である二つの藩を、商いによって結ぶ策であった。


「薩摩と長州をつなげたい」


龍馬は言った。


「二つが手を結べば、幕府と戦になる」


「結ばなんだら、もっと大きな戦になる」


「幕府を倒すつもりか」


「違う」


龍馬は、港に浮かぶ異国の船を見た。


「日本を残すがじゃ」


悪代官は黙った。


将軍を守る。

幕府を守る。


それが代々の務めであった。


だが、それは何のためだったのか。


将軍のためか。

徳川のためか。


違う。


戦のない世で、人が飯を食えるようにするためだった。

守るべきものが同じならば、形まで同じである必要はない。


「その話、引き受けよう」


「幕府の役人が、幕府を終わらせる手伝いをするがか」


「勘違いするな」


悪代官は納豆をかき混ぜた。


「わしらが守ってきたのは、幕府ではない」


箸を持ち上げる。


幾筋もの糸が、椀と箸の間をつないでいた。


「この下で暮らす者たちだ」


龍馬は、その糸をじっと見た。


「なるほどのう」


「何がだ」


「おまんらが裏で引いちょった糸は、人を操るための糸やなかった」


龍馬は箸を取り、納豆を一粒すくった。


「人と人を、つなぐための糸じゃったがか」


悪代官は答えなかった。


ただ、少しだけ笑った。


*


悪代官の糸は、長崎から京へ、京から薩摩へ伸びた。

商人が武器を運び、船乗りが米を運んだ。

宿の主人が密書を隠し、名もなき飛脚が山道を走った。


誰か一人が国を動かしたのではない。

名も残らぬ一粒一粒が、それぞれの役目を果たした。


そして慶応二年。


薩摩と長州は、ついに手を結んだ。

後にいう、薩長同盟である。


だが、幕府を倒した先に何を置くのか。

誰も、その答えを持っていなかった。


龍馬は船の上で、新しい国の形を書き始めた。


将軍が政権を朝廷へ返すこと。

広く人材を集め、皆で政治を行うこと。

外国と対等に交わること。


古いものを壊すだけではない。

壊した後に、何を建てるか。


その考えは、やがて大政奉還へつながっていった。


徳川慶喜は、政権を朝廷へ返した。

二百六十年以上続いた幕府は、自ら幕を下ろした。

江戸を火の海にせず、国を次の時代へ渡すために。


悪代官は知らせを聞き、一族の記録を閉じた。


「終わりましたな」


息子が言った。


「何がだ」


「幕府が」


「ああ」


「我らの役目も」


悪代官は首を振った。


「役目は、世から与えられるものではない」


「では、誰が」


「次の者へ渡すのだ」


その夜、悪代官は龍馬への手紙を書いた。


――役目を終えた。次は、おぬしらの番だ。


――新しい世でも、人が腹を空かせぬ国をつくれ。


手紙には、一粒の乾いた納豆を添えた。


だが、その手紙が届くことはなかった。


*


慶応三年十一月十五日。


京都、近江屋。


龍馬は、中岡慎太郎と火鉢を囲んでいた。


「新しい国では、何をするがじゃ」


「まずは海運じゃ。世界中を船で回る」


「政治はせんのか」


「わしは窮屈なのが嫌いじゃ」


龍馬は笑い、皿の上の食べ物を箸でつまんだ。


「こりゃ、何ぜよ」


「江戸から届いた納豆らしい」


「腐っちゅうがやないか」


「食えるそうだ」


龍馬は恐る恐る口へ運び、顔をしかめた。


「臭いのう」


そのとき、階下から声がした。


「十津川郷士の者です」


足音が、階段を上ってくる。

龍馬の手から伸びていた納豆の糸が、ぷつりと切れた。


その夜。


坂本龍馬は、何者かの刃に倒れた。


新しい世を見ることなく、三十三年の生涯を終えた。


*


数日後。


届かなかった手紙が、悪代官のもとへ戻ってきた。

封は切られていない。


添えた納豆だけが、乾いて黒くなっていた。


悪代官は、一人で食卓についた。

向かいの膳には、誰もいない。


それでも二人分の飯をよそい、納豆を置いた。


「新しい国をつくるのではなかったのか」


答えはない。


「世界を船で回るのではなかったのか」


静かな部屋に、箸の音だけが響く。


悪代官は納豆をかき混ぜた。

切れたはずの糸が、また伸びた。


「……勝手な男よ」


龍馬は死んだ。


だが、龍馬が結んだ薩摩と長州の糸は残った。


龍馬が書いた新しい国の形も残った。


人が死ねば、名が残る。

名が消えても、話が残る。

話が変わっても、思いは残る。


鼠小僧へ語った言葉を、悪代官は今度、自分に言い聞かせた。


食卓に残るは、一粒一粒の熱い思い。


一人では、ただの一粒。

だが、糸を引けば、別の一粒へ届く。


届いた思いは、また次の誰かへ渡っていく。


幕府は終わった。

将軍も、藩も、侍も、やがて消えていく。


それでも、悪代官一族の役目は終わらない。


世はまもなく、明治。


誰も見たことのない朝が、江戸の向こうから昇ろうとしていた。

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