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十一話 明治へ


十一話 明治へ


「おぬしも悪よのう」


「いえいえ、お代官様ほどじゃございません」


「では、あの件。よろしゅうお願いいたします」


「くどいわ。もう分かっておる。もう行け。くれぐれも人に見つかるな」


「へへっ。それでは、これにて」


商人は何度も頭を下げ、風呂敷に包んだ箱を残していった。

中に並んでいたのは、黄金色の小判。


かつてと、まったく同じ光景である。


違うのは、世の中の方だった。


将軍は、もういない。

幕府も、もうない。


江戸という名さえ、まもなく消えようとしていた。


それでも悪人は消えなかった。

むしろ世が乱れたときほど、悪人はよく笑った。


「行きました」


障子の向こうから、息子が現れた。


悪代官は箱の小判を一枚つまみ、明かりにかざす。


「越後屋め」


「初代が捕らえた、あの越後屋の子孫ですな」


「百姓は田を継ぎ、職人は技を継ぎ、悪党は悪知恵を継ぐ」


「我らも人のことは言えません」


「確かにな」


二人は小さく笑った。


越後屋は、戦が始まると見ていた。


米を買い占め、値が上がるのを待つ。

旧幕府軍には火薬を売り、新政府軍には鉄砲を売る。


どちらが勝っても構わない。

戦が長引くほど、蔵の金は増えていく。


「すぐに捕らえますか」


息子が尋ねた。


「まだ早い」


「やはり、そうおっしゃいますか」


「あやつ一人を捕らえたところで、別の者が同じことをする」


悪代官は、以前と同じ言葉を口にした。


「蔵はどこか。誰が金を出しているのか。新政府と旧幕府、誰が手を貸しているのか」


「すべてそろったところで?」


「根まで引き抜く」


悪代官は立ち上がった。


「これが、我らの最後の仕事だ」


*


慶応四年。


鳥羽と伏見で戦が始まった。


幕府軍は敗れ、江戸へ退いた。

新政府軍は東へ進む。


江戸の町では、誰もが噂した。


戦になれば、町が焼ける。

家を失う。

仕事を失う。

米がなくなる。


人々は店へ押しかけ、米を求めた。


だが、米問屋の蔵は空だった。


「凶作で、米がございません」


主人たちは口をそろえた。


嘘だった。


町外れの蔵には、天井まで米俵が積まれていた。


その場所を、豆たちはすでにつかんでいた。


納豆売り。

魚売り。


車夫。

船乗り。


宿の女将。


元幕臣。

薩摩の兵。

長州の役人。


昨日まで敵だった者たちが、同じ糸につながっていた。


「妙なものですな」


息子が言った。


「幕府があったころより、豆が増えました」


「役目を失った者は、自分で役目を探すものだ」


「皆を信じられますか」


「信じてはおらぬ」


悪代官は帳面をめくった。


「だから、つなぐのだ。一人の正しさに任せれば、その一人が間違えたとき、すべてが間違う」


豆たちが持ち寄った知らせは、それぞれ小さかった。


米俵を積んだ荷車。

夜に出入りする船。

火薬を買った男。

新政府の印が押された通行証。

旧幕府の蔵から消えた鉄砲。


一つだけでは、何も分からない。


だが、糸を引けば、すべてが越後屋へつながった。


*


決行の夜。


越後屋の蔵には、商人と役人たちが集まっていた。


「江戸で戦が始まれば、米の値は十倍になる」


「火をつける場所は決まっております」


「新政府軍が焼いたことにすればよい」


「いや、旧幕府の仕業と触れ回れ」


「どちらでもよい。民は勝った方の話を信じる」


襖の向こうで、悪代官はすべてを聞いていた。


以前は、悪党を集めるために悪事を最後まで進めた。


だが今度は、町へ火が放たれる。

待つことはできなかった。


悪代官は襖を開けた。


「そこまでだ」


越後屋は驚かなかった。


「お代官様。何のおつもりで?」


「おぬしらを捕らえる」


「誰が?」


越後屋は笑った。


「幕府は、もうございません。あなたは代官でも何でもない」


部屋が静まり返った。


悪代官を任じた幕府はない。

捕縛を命じる上役もいない。


裁くための決まりさえ、古い世と新しい世の間で揺れていた。


「ただの老人ではありませんか」


越後屋が言った。


「その通りだ」


悪代官は認めた。


「今のわしには、何の権限もない」


「ならば、何もできまい」


「わし一人ならな」


悪代官が手を上げた。


蔵の扉が、一斉に開いた。


町人たちがいた。

新政府の役人がいた。

旧幕府の役人もいた。

瓦版屋が、筆を構えていた。

蔵の外には、米を奪われた人々が集まっていた。


「な、何だ、こやつらは」


「豆だ」


「豆?」


「一粒では、踏めば潰れる」


悪代官は、越後屋の前へ帳面を置いた。


「だが、糸を引けば、おぬしらの悪事を白日のもとへ引きずり出せる」


越後屋は周囲を見回した。

どこにも逃げ道はなかった。


悪代官の権限が、悪党を捕らえたのではない。


名もなき一人ひとりが見て、聞いて、持ち寄った事実が、悪党を逃がさなかった。


越後屋たちは捕らえられた。

隠されていた米は、人々へ返された。


町へ放たれるはずだった火は、一本も灯らなかった。


翌朝。


越後屋の悪事は、瓦版に載って江戸中へ広がった。


もう、裏へ戻すことはできなかった。


*


やがて江戸城は、戦うことなく明け渡された。


江戸は東京と名を変えた。

元号は、明治となった。


人々は髷を落とし、刀を置いた。

武士と町人の境目も、少しずつ消えていった。


新しい政府から、一通の書状が届いた。


これまでの働きを認め、新たな役職へ取り立てたい。

そう書かれていた。


息子は喜んだ。


「これで、新しい世でも役目を続けられます」


だが、悪代官は書状を火鉢へ入れた。


「父上!」


「悪代官は、今日で終わりだ」


「なぜです。我らの糸は、新しい政府にも必要です」


「だからこそだ」


紙が燃えていく。


かつて、坂本龍馬の名が書かれた紙を燃やしたときと同じ炎だった。


「裏で糸を引く者が、国の中に居座ってはならぬ」


「ですが、悪はなくなりません」


「ああ。なくならぬ」


「では、誰が見張るのです」


悪代官は庭を見た。


門の前を、新聞売りの少年が走っていく。

道の向こうでは、文字を習う子どもたちの声がする。


「皆だ」


「皆?」


「誰か一人に任せる時代を、終わらせる」


悪代官は、一族の記録を息子の前へ置いた。


石川五右衛門。


参勤交代。


鎖国。


水戸光圀。


八百屋お七。


生類憐みの令。


暴れん坊将軍。


鼠小僧。


坂本龍馬。


表の歴史からこぼれた、名もなき者たちの働き。


そのすべてが、墨で記されていた。


「これを、どうするのです」


「さらせ」


「一族の秘密を?」


「裏で引いた糸は、いつか表へ出さねばならぬ。そうでなければ、次の権力になる」


「我らは悪人として記録されています」


「構わぬ」


悪代官は笑った。


「もとより、好かれるために始めた役目ではない」


*


数日後。


一人の若い新聞記者が、悪代官の屋敷を訪れた。

机の上には、一族の記録が積まれている。


「これを、世に出してほしい」


息子が言った。


記者は最初の一冊を開いた。


「ずいぶんと長い話ですね」


「三百年近くありますから」


「題は、決まっていますか」


息子は父を見た。


悪代官は食卓で、納豆をかき混ぜている。


「そうだな」


箸を持ち上げると、白い糸が何本も伸びた。


石川五右衛門から、名もなき代官へ。

代官から、その息子へ。

納豆売りから、町人へ。


過去から、今へ。

そして、今から未来へ。


「『裏で糸引く納豆たち』」


悪代官は、そう答えた。


記者は首をかしげた。


「納豆の話なのですか」


「人の話だ」


「人?」


「一人ひとりは、小さな一粒にすぎぬ」


悪代官は、納豆をご飯にかけた。


「だが、思いは糸を引く。誰かの思いが誰かへ届き、その者がまた次の誰かへ渡す」


「では、あなたが糸を引いていたのでは?」


悪代官は首を振った。


「わしも、一粒だった」


記者は筆を取った。


最初の一行を、紙へ記す。


――世は江戸。ここは幕府、将軍様のお膝元。


それは、この物語の始まりの言葉だった。


*


その日の夕方。


悪代官の屋敷から、一枚の看板が外された。


悪代官。


代々受け継がれてきた役目の名。


一人が倒れれば、次の一人が立った。

一粒が潰れても、残った豆が糸をつないだ。


だが、その名を受け継ぐ者は、もういない。


息子が尋ねた。


「明日から、我らは何者になるのでしょう」


悪代官は少し考えた。


通りの向こうから、納豆売りの声が聞こえてくる。

江戸のころと変わらぬ声だった。


「さあな」


悪代官は笑った。


「それを自分で決められるのが、新しい世というものだろう」


二人は並んで食卓についた。


炊きたての飯。

温かな汁物。

そして、納豆。


豪華な膳ではない。


名を残すような食事でもない。


だが、三百年の間、一族が守ろうとしたものがそこにあった。


誰かが腹を空かせず、家族と同じ食卓を囲めること。

それだけだった。


食卓に残るは、一粒一粒の熱い思い。


糸は、もう一人の手には握られていない。


町へ。


国へ。


時代へ。


そして、この物語を読んだ者へ。


今も、伸び続けている。


さあ皆様、お立ち合い。


お暇な方は、見ていってちょうだい。


臭い、臭い、人間模様。


これにて、ひとまず――


おしまい。

最後までご覧いただきありがとうございます。


noteにも同作を挿絵付、制作日記も投稿しております。

こちらも楽しんでいただけると嬉しいです。

note: https://note.com/tomi3515

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