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二話 石川五右衛門



二話 石川五右衛門


…。


「石川五右衛門」


若い男は、その名を繰り返した。


「天下の大泥棒ではありませんか」


「そうだ」


代官は納豆を口へ運ぶ。


「そして、我らに最初の糸を残した男でもある」


時は、文禄三年。


まだ江戸が、江戸の世になる前。


京の町に、一人の泥棒がいた。


金のあるところへ忍び込み、金目の物を盗み出す。


屋根から屋根へ飛び移り、役人の手から何度も逃れた。


石川五右衛門。


その夜も、五右衛門は屋敷の屋根にいた。


「まったく、金持ちというのは高い塀が好きだねえ」


塀が高ければ高いほど、金がある。


見張りが多ければ多いほど、隠したいものがある。


五右衛門にとって、悪人の屋敷ほど分かりやすいものはなかった。


屋根から庭へ降りる。


廊下を渡る。


見張りの侍は、柱にもたれて眠っていた。


五右衛門は音もなく、その横を通り過ぎた。


奥の部屋に、立派な箱が置かれている。


鍵を外し、ふたを開けた。


「さてさて、今夜のお宝は……」


中にあったのは、一冊の帳面だった。


「なんだ、金じゃねえのか」


五右衛門は顔をしかめた。


だが、試しに帳面を開く。


そこには、いくつもの村の名と、取り立てた米の量が記されていた。


その横には、別の数字がある。


役人へ渡した金。


米問屋へ流した米。


そして、飢え死にした者の数。


「……こいつは、ずいぶんと臭うな」


金よりも高く売れる。


そう思った。


それだけだった。


屋敷を抜けた五右衛門は、夜明け前の町を歩いた。


通りの端に、幼い兄妹が座っている。


兄は空の椀を抱え、妹は眠っていた。


「腹が減ってんのか」


兄は答えない。


ただ、五右衛門が抱えた帳面を見た。


「村から来たのか」


小さく、うなずく。


「米は?」


「持っていかれた」


「誰に」


「お役人様」


五右衛門はしばらく黙っていた。


それから兄へ銭を投げる。


「何か食わせてやれ」


兄は地面に落ちた銭を拾い、何度も頭を下げた。


五右衛門は歩き出す。


「ちっ。売り物にならなくなったじゃねえか」


帳面を懐へ押し込んだ。


盗んだ物を返す気はない。


だが、金に替える気もなくなっていた。


五右衛門が向かったのは、町を治める代官の屋敷だった。


その日の夜。


代官は、寝床の前に座る五右衛門を見て腰を抜かした。


「い、石川五右衛門!」


「大声を出すな。泥棒がいると知られるぞ」


「お前が泥棒だ!」


「その通り」


五右衛門は帳面を投げた。


「それを調べろ」


代官は恐る恐る帳面を開いた。


読み進めるうちに、その顔から血の気が引いていく。


「これは……」


「あんたの仲間が、ずいぶん悪さをしているらしい」


「仲間ではない!」


「同じ役人だろう」


「私は、このようなことはしておらぬ!」


「なら、捕まえろ」


代官は答えなかった。


帳面を持つ手が震えている。


「……できぬ」


「なぜだ」


「ここに名のある者は、私より上の役人ばかりだ。訴えたところで握り潰される。先に私が捕らえられる」


「正しいお役人様も、大変だねえ」


五右衛門は寝床へ寝転がった。


「何をしておる!」


「考えている」


「人の寝床で考えるな!」


「あんた、悪人になれ」


代官は口を閉じた。


「何を言っている」


「正しい役人だから、あいつらに遠ざけられる。だったら、あいつらより悪くなれ。金が好きだと言え。賄賂を持ってこいと言え。そうすりゃ向こうから寄ってくる」


「私に、悪事へ加われというのか」


「最後まで加われとは言ってねえ」


五右衛門は起き上がった。


「悪事にはな、糸がある」


「糸?」


「一人を捕まえて終わりにするな。そいつにつながる奴を見つけろ。そいつが誰につながっているか、また探せ。糸の先までたどってから、全部まとめて引っ張り上げろ」


代官は帳面を見つめた。


「しかし、私一人では……」


「一人でやるから、何も見えねえんだ」


五右衛門は懐から、小さな藁包みを取り出した。


代官へ投げる。


受け取った瞬間、独特の臭いが広がった。


「納豆ではないか!」


「明日の朝、町を歩く納豆売りから一つ買え。そいつに、帳面で一番偉そうな名前を言え」


「納豆売りが、何をしてくれる」


「何もしねえよ」


五右衛門は笑った。


「次の納豆売りに伝えるだけだ」


「次?」


「納豆売りは町中を歩く。長屋にも、商家にも、役人の台所にも入る。一人ひとりは、ただの売り子だ。だが、話を渡していけば、町の端から端までつながる」


代官が藁包みを開く。


箸も使わず一粒つまむと、白い糸が伸びた。


「これが、お前の仲間か」


「仲間じゃねえ」


五右衛門は立ち上がった。


「俺が捕まれば、すぐに他人になる奴らだ」


「薄情な者たちだな」


「それでいい。誰か一人のために集まれば、そいつが死んだら終わる」


五右衛門は障子を開けた。


冷たい風が、部屋へ入り込む。


「人じゃなく、役目につなげ」


「役目……」


「お前が死んだら、子に渡せ。子が死んだら、その子に渡せ。名を残そうとするな。やったことも残すな」


五右衛門は屋根へ飛び移った。


「待て!」


代官が呼び止める。


「お前は、どうするつもりだ」


五右衛門は振り返らなかった。


「ちょいと、でかいところへ盗みに入る」


それが、代官が五右衛門を見た最後だった。


ほどなくして、石川五右衛門は捕らえられた。


そして、京の三条河原で釜にかけられた。


多くの者が、その最期を見物したという。


代官は行かなかった。


その朝、町へ出た。


「なっとう。なっとうはいらんかね」


一人の納豆売りが歩いていた。


代官は呼び止め、納豆を一つ買った。


そして、帳面にあった役人の名を告げる。


納豆売りは代官を見た。


何も答えない。


そのまま、次の通りへ消えていった。


三日後。


一人の商人が、代官の屋敷を訪れた。


「お代官様。少々、ご相談したいことがございまして」


商人は風呂敷に包んだ箱を差し出した。


ふたを開ける。


中には、小判が並んでいた。


代官は黙って、それを見つめる。


正しくあれ。


清くあれ。


そう教えられてきた。


だが、それでは救えぬ者がいる。


代官は小判を一枚つまみ、口元をゆがめた。


慣れない、ひどく不格好な笑みだった。


「おぬしも、悪よのう」


商人も笑った。


「いえいえ、お代官様ほどでは」


その日。


最初の悪代官が生まれた。


一人の泥棒は、釜の中へ消えた。


だが、彼が残した豆は町へ散り、白い糸で結ばれていった。


その糸は、やがて京を越え、東へ伸びる。


新しく生まれる、江戸という町へ。

最後までご覧いただきありがとうございます。


noteにも同作を挿絵付で投稿しております。

note: https://note.com/tomi3515

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