一話 悪代官
〜プロローグ〜
世は江戸。ここは幕府、将軍様のお膝元。
さあさあ、よってらっしゃい、みてらっしゃい。
世間を賑わす、あの話!
「裏で糸引く納豆たち」!
いつの世も、悪事働く者がいる!
それを見過ごせぬ者もいる!
織りなすは臭い、臭い人間模様!
では始まり、始まり。
一話 悪代官
「おぬしも悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどじゃございません」
「では、あの件。よろしゅうお願いいたします」
「くどいわ。分かっておる。もう行け。くれぐれも人に見つかるな」
「へへっ。それでは、これにて…」
商人は何度も頭を下げると、風呂敷に包んだ箱を残し、部屋を出ていった。
廊下を歩く足音が遠ざかる。
庭の虫が、二つ、三つ鳴いた。
やがて、裏木戸の閉まる音がした。
「……行ったか」
代官は障子の向こうへ声をかけた。
「はい。見張りの者が、あとをつけております」
障子が静かに開き、若い男が姿を現した。
先ほどまでのいやらしい笑みを消し、代官は風呂敷をほどく。
中にあったのは、菓子折りだった。
ふたを開ける。
ずらりと並ぶ、黄金色の小判。
「ずいぶんと積みましたな」
「これだけ積んでも、まだ儲かるということだ」
代官は一枚をつまみ、明かりにかざした。
「越後屋め。凶作と偽って米を買い占め、値をつり上げるつもりよ」
「では、すぐに捕らえますか」
「まだ早い」
代官は小判を箱へ戻した。
「あやつ一人を捕らえたところで、別の者が同じことをする。蔵はどこか。誰が金を出しているのか。役人の中に、誰が手を貸しているのか」
「それを探るために、話を引き受けたふりを?」
「ふりではない」
代官は、にやりと笑った。
「わしは悪代官だ。きっちり最後まで、悪事に手を貸す」
若い男の顔がこわばる。
「米を運ばせ、蔵へ入れさせ、仲間を集めさせる。すべてそろったところで蔵を開け、米は民へ返す。金は一枚残らず取り上げる」
「なるほど」
「悪事は、途中で止めれば小悪党しか捕まらぬ。根まで引き抜かねば、また生えてくる」
代官は立ち上がり、部屋の隅に置かれた火鉢へ向かった。
その横には、夕餉ゆうげの残りが置かれていた。
冷えた飯。
汁物。
そして、納豆。
「……臭いますな」
若い男が鼻をつまんだ。
「越後屋がか」
「いえ、納豆が」
「どちらも同じよ。臭うものほど、近くに寄れば正体が分かる」
代官は納豆を箸でかき回した。
白い糸が、幾重にも伸びていく。
「それで、豆どもからの知らせは?」
「町外れに新しい蔵が三つ。夜ごと米俵が運び込まれています。越後屋のほかに、米問屋が二人。勘定方の役人も一人、出入りしているようです」
「ほう。もうそこまでつながったか」
「納豆売りに化けた者を、町中へ放っておりますから」
江戸の朝は早い。
魚を売る者。
野菜を売る者。
豆腐を売る者。
そして、納豆を売る者。
彼らは声を上げ、町から町へ歩いていく。
長屋へ入り、商家へ入り、時には武家屋敷の台所にまで入り込む。
誰が米を隠した。
誰が賄賂を受け取った。
誰が泣き、誰が飢えている。
表では決して見えぬものが、日々、代官のもとへ届けられていた。
一人ひとりは、小さな一粒。
だが、糸を引けば、すべてがつながる。
彼らは自らを――豆と呼んだ。
そして、その糸を束ねる者が、悪代官だった。
「しかし、父上」
若い男は納得できない様子で口を開いた。
「民を救っているのなら、なぜ本当のことを話さないのです。なぜ、わざわざ悪人の名を背負うのですか」
代官は箸を止めた。
「善人のところへ、悪人は近づかぬ」
白い糸が、ぷつりと切れた。
「だが、悪人のところには、向こうから悪事を持ってくる」
代官は納豆を飯へかける。
「わしらは、民から好かれる必要はない。悪人から好かれれば、それでよい」
「それが、我が一族の役目……」
「そうだ」
悪代官。
それは一人の名ではない。
代々、受け継がれてきた役目の名である。
一人が倒れれば、次の一人が立つ。
一粒が潰れても、残った豆が糸をつなぐ。
将軍が替わろうと、世の仕組みが変わろうと、その役目だけは途切れなかった。
「父上。この役目は、いつから始まったのですか」
「知りたいか」
「はい」
代官は、飯と納豆を勢いよくかき込んだ。
それから、誰にも聞かれていないことを確かめるように、辺りを見回した。
「ならば話しておこう」
声をひそめる。
「まだ江戸が、江戸の世になる前のことだ」
炎が揺れた。
「一人の大泥棒が、釜で煮られた」
若い男は息をのんだ。
「その男の名は――」
代官の箸から、一本の糸が伸びていた。
「石川五右衛門」
悪代官一族の長い暗躍は、そこから始まった。
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