6 愛してると言った夜、聖女は旅立つ
──そして現在に戻る。
リータがジェラルド王太子の部屋に入ると、彼はベランダで背中を見せていた。
彼は柵の前に立って外の景色を見ていた。風がジェラルドの前髪を揺らした。
丘の上の王宮からは、王都の街並みと港を行き交う船が見えた。
「リータ聖女様、そんなとこに立ってないでこっちに来なさい」
ジェラルド王太子の口調がこれまでと違った。
よく見れば背が高い。近くではリータが顔を見上げるほどだ。
「僕はね、リータ聖女様から一杯学んだんだ」
ジェラルド王太子が振り返ってニコッと笑った。
これまでの無愛想な顔ではなく、初めて会った十歳の頃の表情だ。
――そういえば、恋わずらいを治療してから一ヶ月、ジェラルド王太子は子犬のように私のあとを付いてきた。
私はひたすら救護院で朝から夜遅くまで治療をした。その様子をかたわらで大人しく見ている十歳の男の子は、患者たちに可愛がられた。
「坊や可愛いね。何歳?」
ベッドのお婆さんが聞いた。
「十歳です」
「私の孫と同じくらいの歳だよ」
ジェラルドは頭を撫でられて照れていた。
シェフィールド海洋国家では、恐れ多くて王太子殿下の頭を撫でる人はいない。このとき見せた屈託のない笑顔が、ジェラルド王太子の本質だと思った。
「シェフィールド海洋国家に医学校を作ったのは、リータ聖女様のおかげなんだ。朝から晩まで懸命に患者を治療する聖女様を見て、思ったんだ。僕の国には聖女様はいない。大陸で唯一無二の聖女様のお陰でバルティカ王国は上手くいってるけど、シェフィールド海洋国家はどうだ? 医者不足で貴族はともかく庶民のみんなは困ってる。だから国王の父に医学校を創立するように進言したんだ。そしたら医学校が出来て留学生がやって来るほど評判になった。今ではシェフィールド海洋国家は、先進医療の国になった。これはすべて聖女様のおかげだ」
「……初めて会ったとき利発そうな男の子だと思ったけど、本当にそうだったのね」
リータは眩しそうに目を細めた。
この時、胸の奥がキュンとした。
リータは生まれて初めての気持ちに戸惑った。
もしかして、私の運命の人は目の前にいるのではと。
十年間、想いを寄せてくれたジェラルド王太子。
あの私に犬のように懐いた十歳の男の子は、一人前の大人になっていた。
「聖女様は、あの監獄のようなバルティカ王国に閉じ込められていたんだよ。国民の治療をひたすら聖女様に任せて自由を奪った。いわば君は籠の中の鳥だったんだ。僕はそれが許せなかった。十八になって正式に王太子の称号を手にしたときから計画を建てたんだ」
「計画?」
「《聖女様奪還計画》だよ。あんな酷いバルティカ王国から君を奪う。そしてリータ聖女様と結婚するって。それは叶ったけど、君は僕には冷たかったね」
「?」
「僕に会うより、もしや救護院を優先するんじゃないかと思ったら、案の定そうだった」
「私が結婚より病人を優先するのは当たり前です。結婚は……諦めていました。生涯独身で患者を診るのが私の人生だとずっと思っていました」
――でも、どこか頭の片隅に、あの十歳の男の子との約束があった。
《私が行き遅れて独身であったら、よろしくお願いします》
十歳の子供をからかうつもりはなかったけど、それが成立する未来はないと思った。
「君は聖女様だろ? だったら僕を治療してくれよ」
「あなたは病人じゃないわ」
「十年間も恋わずらいしていた。これは立派な病気だよ!」
ジェラルドは真顔で言った。
リータは戸惑った。
病気ならば治療しなければならない。
「どうすればいいのよ」
「僕と同じ言葉を繰り返してくれ。それで今回は勘弁してやる」
「わかったわ」
「君を愛してる」
「あなたを愛してる」
すると、突如リータの頭の中に、あの教会の結婚式の映像が浮かんだ。
**********
神父が誓いのキスを勧めた。
リータは一瞬、躊躇した。
泣き出しそうなジェラルドの顔を見て同情した。
――結婚式で恥をかかせてはいけない。
リータは積極的にキスをした。
出席者から万雷の拍手が起こった。
すると二人の頭上に、キラキラ輝いた女神様が降臨した。
女神様が見えるのは、リータだけだった。
女神様の舞う姿は、いつも以上に美しかった。
『リータ、おめでとう』
女神様はリータとジェラルド王太子に慈愛の眼差しを向けてくれた。
結婚を祝福してくれたのだ。
**********
ジェラルド王太子は立派な大人に成長した。
今はぎこちないけど、ちょっとずつ距離を縮めて、愛を育みたいわ。
でも──
「シェフィールド海洋国家は医者が豊富で、私の出番は各国の貴族を相手にするだけです。私はバルティカ王国の国民を見捨てたくないです。今でも救護院には私を待ってる人たちがいます」
「まさか、バルティカ王国に戻りたいの? いいようにこき使われて疲労困憊になってたのに。 無理強いしてまで結婚式を挙げたのは、君を守りたいからなんだ。結婚すればシェフィールド海洋国家が後ろ盾になる。もう奴隷労働をしなくてもいいんだよ」
ジェラルド王太子は困惑した。
「すべては女神様の思し召しのままです。私は、バルティカ王国に戻ります」
「駄目だ。そんなことはさせない!」
「私を軟禁などしないでください。天罰が下ります」
「天罰?」
「はい。例えば……」
急に空模様が怪しくなってきた。
ゴロゴロと空が鳴って、強い風が吹いてきた。
リータの髪がなびいた。
ベランダが一瞬、真っ白になった。
稲光が王宮の庭にそびえる杉のてっぺんに直撃した。
杉が真っ二つに割れて、倒れてしまった。
ドドドドド──!
遅れて轟音が轟いた。
「私には女神様の加護があります。患者には祝福を、私を傷つけたりする者には天罰が下ります」
ジェラルド王太子は、目を見開いてゴクリと唾を飲み込んだ。あまりの恐ろしさに奥歯が震えて、カチカチと鳴った。
聖女様は優しいだけではない。時には化け物にもなるのだ。
「……わかった。聖女様を怒らすつもりはなかったんだ」
「それもです。気に触りました」
「何が」
「ジェラルド王太子は、結婚式を挙げたのに、私のことを聖女様と呼びますね。“リータ”っと呼んで欲しかった」
「それって……僕のことを認めてくれたの?」
リータは背中を向けて部屋に戻った。
ベランダにポツポツ雨が降り出した。それが強くなってザーザーと横殴りの雨になった。
ジェラルド王太子は、びしょ濡れになってもその場から動こうとしなかった。
(僕は絶対に諦めない。君はきっと僕の元に戻ってくる。信じているよ、リータ)
翌朝、リータは馬車に乗って王宮の門を出た。
ジェラルド王太子は見送りに出なかった。ベランダから馬車が門を出て行くのをそっと見つめていた。




