2.とある記憶と終わり(6)
6.やがて白と黒の世界
午後10時の空は晴れていて雲一つない。
区画整理して建てられた住宅街ではないため細い道は右に左にふらふらと続く。
朝と夜では別の世界ような錯覚にとらわれる。
夜空に大きな月が寄り添うように帰り道を照らし、それが飲み屋帰りの特有の余韻と少しの寂しさがまぎれるのだった。
俺の住居は、なんというか田舎ではあるが、再開発と地元成金のお陰で建ったような周囲にそれ以上高い建物がないから高く見えるだけの高層マンションだ。
そういえば、空き部屋を売るのにの不動産広告にあるような高層マンションと名売っていたなぁ。(高層だってさ……高層)
確かに周囲は一望できるが。
入居したときはそこそこの住人がいて、休みの日など朝から子供の声でうるさかったほどだが少子化により子どもが減り、住民の高齢化が進み(かく言う俺もマンション2世なわけだが)入居率は6割り程度で空き部屋が多い、その最上階が俺の居住場所である。
俺は、エントランスホール奥にある一基しかないエレベータ、↑に上昇している最中だった、少しアルコールの入った体を最上階の12階まで人力で持ち上げる力はない。
いや力はあるだろうが到底そんな気になれなかった。
カゴを呼ぶためひび割れたプラスチックの△ボタンを押すが、押したかどうかはカゴが降りてくることでしかわからない。
ボタンを点灯させる電球が機能しないのかもしれなかった。ひび割れているのはきっと誰かが殴ったのだろうか。
↓が点灯してカゴがきっと降りてくるだろうという期待をした。
そこからはすんなり語るべくもないほどのルーチンワーク的行動でシャワーと洗濯を済ませる。
今はバルコニーの柵に両肘をのせタバコの煙を燻らせている。
晩夏の蒸し暑さは吹き始めた風のせいか、この田舎のせいか和らいでおり、自宅の安心感と酒のせいで心地よかった。
コノハナトモミのことが気になる。
今日あった飲み屋の……のことも気になる。
俺は酒の酔いに任せて、いや自分の意思で、自分のその楔を抜こうとしていた。
煙草の煙が視界を遮ると、手すりの上に気配を感じた。
「よっ……と」 と声がする。
声の質でそこにいるのは女だと思った。
俺は怖いもの見たさより聞き覚えのあるような気がする声が気になり視線を移していく。
素足がみえた、月明かりに反射して足首に何かが見えた気はしたが今はそんな場合じゃない。
バルコニーの手すりの上に何も飾らないつま先立ちの素足が、10センチも幅のない長細い手すりに危なげなく乗っていた。
俺は妄想かと思ったがここは地上12階その手すりの外から下はそのまま植込とアスファルトの地面、よっぽどの体幹と怖いもの知らずで、そしてその両方に自信がない限りはそんなとこで平均台に興じようとは思わない。
本当にそんな奴がいないかといわれればわからない、だから知ったような口を聞く。
「そんなところに登っちゃいけませんって子供の頃に教わらなかったのか?」
そう言いながら上へと視線を移していく。
「そうね、教わった覚えはないわ」
と。
その艶かしい太ももが見えた時、何も着てないかもと思った。
それをみることが憚れる気がして俺はそこから視線をずらしタバコの煙を吸い込んでゆっくり吐き出す。
あまりにも現実離れしている状況なのに、驚くほど落ち着いている自分自身に満足する。
「何も着てないなら何か着てもらえるとありがたいんだが?」
「あ、見たくなかった?ごめん。でも、これが限界なのよ」謝罪と言い訳。
吹いていた風が不意に止まり視界一杯に煙がひろがってまた掻き消えようとするとき、俺は声のする方にが顔を向けた。
バルコニーの少女は、今日飲み屋で出会った女のドレスを着ていた。
それどころか「コノハナトモミ……」と思わず呟いてしまう。
それは、月の光を背に受け、光を纏っているかのように見えた。
自分が全裸でなくなったことを知ってか、俺の呟きを聞いてか、どこか安心したような表情を浮かべる。
「そう。でも違う、違わないけど違うの」
似て非なる同じ存在――そんな理解をしてしまう。
「えっと、一応自己紹介しておくと、私はカレン。此花カレン」
過去か、未来か。この状況の非現実性は、俺の妄想なのかもしれない。
「あー、あまり時間なくて……ほらっ」
と言って彼女は身を屈め、俺に手を差し伸べた。
俺は目を閉じ、首を左右に振ってから少女のいた方に向き直ったが、そこにはもう姿がなかった。
代わりに空いっぱいに広がる月の表面、昔天体望遠鏡で見たような岩肌とクレーターがはっきり見えた。
まさか、そんなに月がはっきり見えるはずがない。
肌荒れした地表。もう反射する光すらない、ただの白い岩の塊。
再び、そんなに月が近いわけがないと思った。
さっきの手すりの女と同じ、妄想か、幻覚か、妖魔かその類なのだと。
俺は自分自身の感覚すら信じなくなった。
何、慌てることはない。俺は焦らず、足元のコーヒー缶に吸い殻を捩じ込むと、部屋に入りそのままベッドに滑り込んだ。
何も考えず、ただ「俺は寝付きがかなりいいのだ」と自賛して眠りに就く。
落ちていく意識の中で、夢を見た。
俺は子供で、どこかのビルの屋上にいた。
月が空いっぱいに見えている。
脇に天体望遠鏡が置かれていたが、それで見ているわけではなさそうだ。
周囲を見渡すと、いくつかの巨大な竜巻が巻いていた。
ゴロゴロと稲光も見え、大気の摩擦で静電気が発生しているのかもしれない。
渦巻く雷雲を見つめていると、自分自身が回っているような錯覚を覚える。
頭に血が昇っていく感覚。
ふと、身体がふわりと軽くなる感覚。
俺は身体ごと月に吸い寄せられているのだと感じた瞬間、視界が真っ暗になった。
俺は夢想する。月が地球に落ちたのだと。
落ちる? いや、衝突したと言うべきか。よく考えたら物理現象を完全に無視している。
遥か遠くに打ち上げられた人工衛星だけが、かつて地球と呼ばれていた残骸のある場所に向けて情報を送り続けているのだろうか。
地球人類が滅び去ったことを知る者は、もう誰もいない。
なにせ、滅びたのだからと考える。
自分が死んだことを、死んだ人間自身が認識できないのと同じように。
「だから世界は静止したんだと思う」
だって、遠のいていく意識の底で、思考だけは続いているのだから。
たとえそれが、誰かの想いだったとしても。
俺はなぜか、強くそう思った。




