2.とある記憶と終わり(3)
3.知らないうちに始まる物語
PCのチャットツールでその上司の苗字を……検索しようとして結局思い出せないことに気が付いた。
数秒思案ののち隣の席の若いやつに聞く。
「飯でも食いに行くか」くらいな気持ちで「今の課長って何て名前だっけ」と。
若いやつは信じられないという顔しながら 「まじっすか、勘弁してくださいよ……」
「ユミさんですよ?いやトモミさんかなぁ、たしか」
名前を知らないことに驚いたのか、名を聞いたことに驚いたのかそれはわからなかった。
聞きたいのはそこじゃないなと俺は心の中で苦笑して。
「名前じゃなかった、すまん苗字だ苗字」
その若いやつはキョトンという顔をしながら答えた。
「此花さんっすよ。……あ、ほら、15年前かなんかに失踪した専務の娘だとか言われてる、あの人っす」
若いやつは頼んでもいない噂話を、ごにょごにょとつぶやいた。
自分が入社する前の話だからかどこか他人事のような口ぶりだ。
「此花……」
その苗字を口にした瞬間、脳裏の奥で波の音が聞こえた気がした。
「どうしたんすか?師匠、気になるんすか?他人に?それも女に?興味が……?わいたんすか?」
と言いながら目を見張って俺を見ると、追い打ちをかけたきた。
「でも、あの人はだめっすよ。好きな人とか居そうです、かくいう俺も狙ってるっす」
俺は若いやつを睨みつけながら何かを思い出しそうになるしかめっ面になっていただろう。
しかし若いやつは楽しげに追い打ちをかけてきた。
「今日は槍どころか月が降ってくるんじゃないっすか?ぎゃはは」
と俺を師匠と呼ぶその若いやつは大きめの笑い声をもらした。
俺はその名を聞いたとき、若いやつはすぐ近くにいるのにその声をやたら遠くに感じた。
「弟子はとった覚えはない、なんなら教育料として月謝をよこせよ」
とりあえずいつものセリフが口から出るが頭は別の思考にとらわれていた。
俺は口には出さず、コノハナトモミ……と頭の反芻する。何年か前に失踪した専務の娘。
それはトモミって読むんだ。となぜか知ってるような気がした。
専務と今の社長と組んでこの会社を立ち上げてすぐ専務の娘が生まれた。
当時はとても忙しくそして大変だった。
その娘がトモミという名だったはずで……ということを思い出す。
もっとも10年くらい前の昔の話。
同一人物とは限らん、よしんば同一人物だったとてだ、そんなお都合主義な展開はありえない。
俺はかちゃかちゃとキーボードを叩きその此花友実に向けて社内チャットでメッセージを送る。
漢字の字面が。男に付ける漢字を使ってるなぁと余計なことを考えた。
ひらやけい:今日は疲れたので帰ります。
らしくない、普段は絶対しないメッセージを送るとすぐにPCをロックてそそくさと立ち上がる。
返事なんか待たない、明らかな忌避感の現れだった。
此花友実がこちらを見る目を感じる。
見られている方は見てる方を見てる——さっきそう思ったばかりだ。
仕事が終われば顔を知っているだけの他人。
という気持ちとは裏腹に過去に向き合うとかそんなんじゃない。
が、この年になって郷愁にかられると少しきつい。
思い出話というのは必ずしも良いものではないことを知っている。
そして携帯電話を片手に逃げるように居室から抜け出した。
携帯につけられた黒い石のストラップが揺れていた。
持ち物なんかこれだけだしこれで十分なのだった。




