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3.とある記憶と始まり(4)

4.17歳(中)

 

 day1

 朝五時に目が覚めた。目覚ましよりも少し早い。

 待ち合わせといっても、彼の車 スカジーのところに行くだけだけど。

 準備はほぼできている。あとは体だけだ。

 天気予報や、道路の混雑情報を何度も確認してしまう。

 そんなもの短時間でコロコロ変わらないだろう、時間だけが無駄な行為で潰される。

 

 慌ててシャワーを浴びる。

 薄手のTシャツとスリム型のジーンズはお尻のサイズが気になり始めて買ったが、効果はイマイチかも。

 この時とばかりに買ったサングラス、少し大人な感じ。

 

 黒髪ストレートのロングヘアはポニーテールに仕上げた。

 ポニーテールが嫌いな男の子はいない。

 学校では絶対しないけど。

 化粧はリップだけ。

 

 彼が貸してくれた漫画、気まぐれ~の、~まどかを彷彿とさせる。

 よし、容姿は多分完璧、気合いが入る。

 渾身の思春期オールレンジアタック!


「おはよう!」

 なるべく元気よく、その時の自分の顔はどんな感じだったのか、いま思い出すと恥ずかしさで倒れそうになる。

「あぁ」

 かえってきたのはいつもの生返事、だけじゃない!

「おはよう。」

 ケイさんは目を細めて眩しそうに私を見てそう言った。

 

 私は助手席の扉を開けて何食わぬ顔で車に乗り込んだ。

 ケイさんはエンジンをスタートするも、なかなか発進しない。

 「どうしたの?」

 「どこに行くんだ?」と聞かれた時私は、はっとして、「xxxxx臨海公園」と伝えた。


 何も聞いてない?!

 どこまで想定、想像して行動しているのだろうか。まさかわざとか?わざとなのか?

 全てがあり得そうに感じる。

 それはケイさんの真の恐ろしさを垣間見た瞬間だった。


 それにしたってヨレヨレのワイシャツと黒いスラックスは疲れたおっさんそのものだ。

 まぁ見慣れてるけれど。

 ただ、無精髭はなかった。

 ——————————

 

 彼の車の助手席。

 流れる風景。

 早朝の朝焼けに染まる街並み。

 たまに視線に飛び込む光が眩しい。

 

 車のオーディオシステムから流れるのはケイさんのお気に入り、サザンウインド。

 車に乗ってる時のケイさんは、寡黙、いやいつも寡黙だけど。

 それなのにハンドルを握る右手は、リズムに合わせて人差し指がハンドルをトントンと叩いてる。表情や雰囲気からはさっぱりわからないが、機嫌がいいのかもしれない。

 そしてそこには私の入り込む隙間はない。

 私だけが気まずい沈黙。

 

 「朝飯は食ったか?」

 不意打ちキタッ。

 その言葉にドギマギしてしまう。

 私は首を振って否の意思表示をするが、彼は運転中でこっちなんか見れるわけないのに。

 「ふっっ」

 は、鼻で笑われた。機嫌が良さそうだけどふってなによ。


「後ろのバスケットにサンドイッチがある、食べて良い」

 後部座席のピクニックバスケット。

 手元に引き寄せその中を覗き込んだ。

 その効果は抜群だ。

 私の女子力は大きく削られる。

 さらにオレンジジュースを手渡される、私が来る直前に自販機で買ったのかよく冷えていた。

 そして私の女子力は瀕死の重傷を負った。

 

 私は焼いてある方のたまごサンドを手に取り頬張った。

 口の中に広がる、ケチャップの酸味と甘み、薄い卵焼きはフワフワでその相性は最高と言わざるを得ない。

 付け入る隙のないケイさん。

「あ、ありがと」と囁くように呟いて、私は俯いて黙ってしまった。

 

 また沈黙。

 このまま引き下がっては女が廃る。

 母の口癖だ。

 ま、負けてなるものか。

 私は瀕死の女子力を鼓舞し、ようやく口に言葉をのせることができた。

 「ねぇ、このxxxxx臨海公園、行ったことあるの?」

 「あぁ」

 肯定とも否定とも取れる返事。

 会話が続かない!?

 でも彼ならば。

「私、あそこはお母さんと何回か行ってるんだ…」

「その時にあそこのカフェで食べたシュリンプバーガー、好きなんだよね。また食べたい。」

 そう一気に捲し立てた。

 「あれはいいもんだ、いつも閉店間際だったから俺の顔見たら店員が奥に引っ込んでしまって難儀したんだ」

 店員に逃げられるって、くすくすくす……。

 

 きっかけは共通の認識と共通の言葉を持つこと。

 彼が教えてくれたコミュ術。


 ようやく気がつく。

 彼は無愛想なのではなく、自分から話をしないだけなんだ。

 

 それから、私は自分をネタに彼の話を引き出していく。

 学校や部活、得意な教科、嫌いな食べ物。

 テレビの話題だけは弾まなかった。家にテレビがないって。

 あと、最近出たiPodが欲しいとか。


 彼はどんな話題でも付いてきてそれでいてはっきりとモノを言う人だった。

 私の心が満たされていく、そのケイさんの知性、 語彙力、 考え方。

 面白い、聞いていて飽きない、無限に話せるのではないかと思う。

 そんな時間だった。


 高速に乗って一時間くらい走った頃合いのサービスエリア。

 そこで、時間的にまだまばらな駐車場のトイレの近くに車を止める。

 ケイさんは「買い物」といって土産物屋に入って行った。私もついていく。

 やや赤が多く感じる暖色系の店内。

 提灯や、壁のあの三角の旗みたいなのは何だろう。

 タペストリー? その語感が何だか癖になりそうだった。

 そしてあちこちに視線を泳がせる。

 その中にあって、一際目を引く、黒いキーホルダー、いや携帯ストラップを見つける。

 

 それは最後の一つ、黒い石の中に銀河系を閉じ込めたような模様。

 地味に見えるが、よく見れば結構派手だ。

 私は一目で気に入り、それを買い求めた。


 値札はついてるのにバーコードがついてない、店員は目を白黒させながら手打ちで1500円と打ち込んで精算を終わらせた。

 値打ちというのは買い手が決める。

 高いか安いかはそのうちわかるさ。

 これもまた彼の言葉だ。


 店から出るときに、携帯メールで、「トイレに行く、行けるときに行っておけ」という連絡が来る。

 たぶんだからトイレの近くに車を止めたのだろう。


 そこからさらに小一時間、ショッピングモールに到着。

 母の待つシュリンプバーガーのあるカフェへ歩いて移動する。


 時刻は9時、待ち合わせの時間ぴったりだった。

 店内はそこそこ広かったが母はすぐ見つかる。

 だってあの人目立つから。

 ノースリーブのロングワンピースに、サングラス。

 最近全く見なかった大人の女全開。

 そろそろ不惑にかかろうかという年なのに攻めた装い。

 その姿が海の見えるテラス越しに陣取って、指でストローの紙をぐるぐる巻きにしてた。

 アンニュイなあたしという雰囲気を醸し出して。

 

 ケイさんはというと、喫煙場所に直行していた。

 

 母は私を見つけると、手を振ってきた。

 いやもうお互いわかってるから手まで振らなくていいのに。

 と私は少し恥ずかしくなって足早にテーブルに近寄った。

 「あれ、ヒラヤ君は?」

 開口一番がそれだった。

 「タバコ」

 そう言って席につくと、アイスティーを注文した。

 「うまくいったみたいね」と母、なんだか嬉しそうだ。

 「うまくいってるのかなぁ」と私、なんだかうまく進んでる気がしない。


 店内を見渡すとカウンターのテイクアウトで何か買ってるケイさんが見えた。

 呼びに行こうと立ち上がったら彼はそのままカフェから出ていこうとした。

 「なっ……」

 私は驚きのあまり固まってしまう。

 

 母は見覚えのない黒い携帯を取り出しなんだか楽しそうに電話しだした。

 母の携帯は赤だったはず。

「もしも・・・・・っ、きっ切るな」

 母は黒い携帯を睨む。

「あいつ切りやがった」


 ここで負けては女がすたるの言葉通り立ち上がると、走ってケイさんを捕まえる。

 「ここまで来てどこに行こうっていうの?」

 「それに何よその格好」

 「うるさいわね、つべこべ言わずこっちに来なさい」

 「契約、切っちゃうわよ」

 ここまで届く声。

 なんだろう、不穏な、それはまるで脅迫だった。

 

 席まで連行されてきたケイさんは、心なしか少ししょんぼりしているように見えた。

「勘弁してくださいよ……」

 そう呟きながら、彼はがっくりと席についた。

「運転、お疲れ様」

 母は悪びれる様子もなく彼を労う。

「その携帯……」

 と彼は母が持つ携帯に目をつけた。

「あぁ、これ? のぶゆきのやつだからね」

 あっけらかんと自分のじゃないことを告げる母。

 それは父の携帯電話だ。

「私からかけたら無視するでしょう?」

「いや、しませんよ」彼はそっぽを向いた。

「結果論ね」

 そんな流れるようなやり取りを聞いて私は付け入る隙がないと落ち込んだのだった。

 

 ケイさんがテイクアウトのコーヒーを飲み切る頃合いを見計らって母はこう言った。

「買い物行くわよ」

「お母さん、何買うの?」

「ロッジを借りたのよ。海の見えるロッジ、なかなか素敵よ」

「まぁ自炊だけど、ヒラヤ君がいるからね、だから任せたわ。」

 たしかに彼は、母より料理が上手だ。


 「何も聞いてないんだが……俺は帰るよ」

 た、確かに、何も、まったく全然説明はしてない。

 急にこみ上げる後悔。


 「だめよ。トモミも年頃だし、美人ふたりで海水浴なんて、強力な虫よけが必要なんだから」

 「だから3人、ここまで来たんだからごねないでよ」

 「二泊分の食料。あとお酒!」

 「それから……君の服ね」

 母は一気にそれだけまくし立て、ちらりとケイさんを見てそう言った。

 

 ショッピングモールで買い物。

 買い物なんて普段当たり前にしているけれど、こんなに買い物が楽しいと思わなかった。

 ビール1ダース。

 日本酒2本。

 焼酎1本。

 ワイン2本。

 水に氷にレモンやらなんやら。

「こんなにいつ飲むの?」と言いたくなるような、ちょっとおかしいお酒の量。

 お茶とジュースは私用。


 献立はケイさんにおまかせ……するしかなかった。

 私も母も普段から自炊はするものの、いつも割と適当だったから。

「女は愛嬌」が母の口癖だったのを思い出した。

 だからって料理ができなくてってわけではないと……思う。

 

 買い物のなかでも、特にケイさんの服を選ぶのが最高に楽しかった。

 普段は冷静できっぱり物言う彼が、すっかり翻弄されてしどろもどろになっている。

 「あ、いや、そんな……だって……」

 なんて柄にもなく焦って言い訳を連発する姿を見るのは、それはもう愉快・痛快だった。


 「……下着だけは自分で買います」

 一緒に行くことに観念したのか、最後にそう言って抵抗する彼を見て私と母は大笑いしたのだった。


 ショッピングモールを出てコテージに向かう。

 助手席は私のものと言わんばかりにその場所を陣取った。

 あの時の母のキョトンとした顔は今でも忘れない。


 海岸沿いを走る車の窓から見える海は、太陽の光を反射してキラキラと輝いて見えた。

 あの光景が忘れられないのは、ただ綺麗だったからだけではないと思う。

 その時間、その空間、その時の感情……そのすべてが心に刻み込まれたからなのだ。

 ただ輝く海という光景だけが記憶に残るわけではない。

 

 前もって予約してあったコテージはとても広く、清潔感に溢れていた。

 オーシャンビューのジャグジーに、ロフトへ上がるとベッドがふたつ。なかなかラグジュアリーな造り。

 母の言う通り、かなりイケてる。

 

 私たちはさっそく荷物や買ってきた食料を室内や冷蔵庫へと運び込んだ。

 時刻は13時。日差しが強いこの時間に何のケアもなしに外へ出ていくと日焼けでとんでもないことになりそうな時間。

 

 ケイさんはというと、私たちの目を盗んで1階の部屋に入り込むと、さっさと先ほど買ったばかりの服に着替えていた。


 大きな赤いハイビスカスをあしらった薄水色のアロハシャツに、黒地に炎の意匠が躍るハーフパンツ。

 それらを着こなした姿は、すっかり年齢が十歳ほど若返ったようないでたちだった。

 この服は私が選んだ。やっぱりちゃんとすれば若く見える。

 私はとても満足したのだった。

 

 母は彼から顔を背け笑いをこらえていた。

「ふふふ、なんか、あの頃に戻っちゃったわね。」

 ケイさんはなんというか微妙な顔だった。


「海行くでしょ?ジャグジーの横の石段降ればすぐよ」

 私は慌てて今日のために買った水着に着替えた。

 白いセパレートのビキニ。

 白い花柄のウィンドブレーカー。

 デニムのホットパンツ。

 多分気合い入りすぎ。

 グラサンはそれを隠すため。

 母はオレンジというかサンセット色の水着、シンプルだが胸元は大きく開いてる。

 いつ着替えたんだろうか。

 それにしたってスタイルが良すぎる。

 

 私は裏手の出口から外に出た。

 青い海と空、輝く太陽。

 いつぶりだろうか。

 その光景は潮の香りを運びながら舞う風が輝いて見えた。

 それは青春の一幕といっていいだろう。

 

 ケイさんはパラソルと、クーラーボックスを抱えてすでに石段を降りていた。


 無口で無愛想。

 器用に何でもこなすのに、人当たりは不器用。

 彼はそれを「当たり前の行動」としてやっているだけで、自分が優しいとなんてこれっぽっちも思っていない。

 そしてそれを彼はこう言うだろう。

 「そう感じるのは個人の自由だが、それを俺に押し付けないでくれ」

 そのずるい性格。


 そして、多分ここに来た時から抵抗は諦めてる。

 なんだか、かわいそうな気がした。

 同時に込み上げる感情、その気持ちを何と表現したらいいか、その時の私は持て余してたと思う。

 

 その石段を慌てて降りた、追いかけるように。

 私の気配を感じてか「転ぶなよ」

 と振り向きざまにそう言って立ち止まる。


 狭くて段差の高い石段は手すりもついていて、ちゃんと手入れされているのか錆ひとつない。

 私がすぐ後ろまで来るのを待ってからケイさんはさらに降り始めた。


 プライベートビーチっていうわけにはいかないが、砂浜は白くて綺麗、砂が太陽の光を反射してか少し眩しくサングラスを下ろした。

 ビーチチェアにテーブル、すごくリッチな気分になった。

 ケイさんはパラソルをそこに広げて砂浜に突き立てるとコチラに向き直り、まるでアニメの執事のようにエスコートしながら私に向かって

 「どうぞ、お嬢様」とビーチチェアに私をいざなう。

 私は雰囲気に飲まれそうになりながらも、負けじとそのビーチチェアに座った。


 クーラーボックスからトロピカルジュースを取り出し手際よく大きな氷の入ったグラスに注ぐ。

 オレンジをナイフで切ってグラスのふちに添えてテーブルに置く。

 そして仕上げにハート型にくるっと巻いたストローを指す。

 まるで映画のワンシーンのようだ。


 そのヒロインは私。

 照れ臭い、場違い、役者不足。

 そんな憂いをケイさんは今まで見たこともない微笑みで見守っている気がした。

 

 それは私だけのための一瞬、そして魔法にかかる瞬間。

 その憂い、その微笑み、そして時間も空間も世界ですら自分のものだと確信する万能感。

 私はヒロインになる決意をした。

 

 ジュースを一口飲むと、よしとばかりに立ち上がりウィンドブレーカーを脱ぐ。

 ビキニの胸元が見えるが、そんなことは気にしてはいけない。そうしたくて今があるのだ。

 私はケイさんの手を取ると「うみ-------」と大きく叫んで海岸へ走り出したのだった。


 海でケイさんに水を掛け合っていたというより主に私がバシャバシャして、困り顔のケイさんを見て楽しんでいた。

 そんな中、海岸に大きな麦藁帽子をかぶり、派手なオレンジ色の大胆な水着を着た母がやってくる。

 周りの視線を一手に集めながら、それをものともせずこちらへ歩いてきた。

 「あなたたち、日焼けがひどいと大変なことになるわよ」

 と言ってお母さんが近くにやってくると私に水をかけようとした時、私は慌ててケイさんの背中に隠れた。

 バシャッ

 澄んだ音とともにケイさんは頭から盛大に水をかぶってびしょびしょになってしまう。

 「あははっ!」

 それを見て声を上げて笑う母。

 こんなに楽しそに笑う母は、本当に久しぶりだ。

 

 ケイさんはその大きな両手で濡れた髪を掻き上げた。

 その時、あらわになった彼の顔に私はハッとする。


 そういえばボサボサの髪はいつもその顔や表情を隠れていて、まじまじと見る機会はなかったけれど……。

 その彫りの深い鋭い目元。まっすぐに伸びた眉、高く通った鼻筋。

 いわゆる「イケメン」とは違う。

 その整った顔立ちに私はあろうことか言葉を失ってしまう。

 付き合いの長さゆえに比較する対象がいなかったのか単に男子に興味がなかっただけなのか。

 同級生なんてみんな「じゃがいも」みたいに見えていたんだと、私は今さらながら気がついた。


 「なかなかいい男でしょ」と母は自慢げにそう言ったが、ケイさんは母のものではない。

 そしてケイさんはその両手で大量の水を私たちにかけたのだ。

 もちろんそれは私と母に倍返しにされたのだった。

 

 ————————————

 私と母を先頭についてくるケイさんは犬みたいに首を振って水を払い落とすと、またボサボサ髪にもどってしまう。

 周囲の目はちらりと見るだけでケイさんの姿を見ると、顔を背ける。

 「ふふん、ざまぁみろだ」と私は心のなかでほくそ笑んだ。


 パラソルまで戻ると、母はサンオイルを片手にニヤリとケイさんを見つめる。

 するとケイさんは、今まで見たこともない悪そうな顔でニヤリと笑った。

 そしてバッグから大量のサンオイルを取り出すと、母の背中にドバドバと振りかけたのだった。


 「大は小を兼ねる。効率重視」


 そう言い放つケイさん。

 サンオイルでテカテカになった母は、腹を抱えて笑い転げていた。

 ひとしきり笑うと、母は涙目でケイさんを睨みつける。

(明日は見てなさいよ……)

 と言わんばかりの雰囲気を全身から醸し出していた。


 私はビーチチェアに腰を掛け、ケイさんの用意してくれたジュースをちびちびやっていた。


 母はビールを飲みながら、ケイさんに明日の予定を説明している。


(大人かぁ……)


 そんな気持ちが、私を余計に子どもにする。


 それからバナナボートの予約時間になると、ケイさんに連れられて乗り場へ移動した。

 どうやら私たちが着替えている間に予約してくれたらしい。

 なんというか、本当に隙がない。


 2人分しか空いていなかったということで、ケイさんは留守番することになった。

 私が代わろうかとも思ったけれど、ケイさんと母のふたりだけにするのは気が引けたのでやめておいた。


「一番前が一番楽しい」

「しっかり掴まれよ」


 そう言ってケイさんに背中を押され、一番前に立たされる。


(しっかり掴まれ、とは……?)


 軽く混乱しているうちに、私の乗ったバナナボートが動き始めた。


 それを引っ張るジェットボートを見た時、私は思わず声を漏らす。


 「えっ」


 船尾に、どっしりとケイさんが立っていた。

 ――カメラを構えて。


 頭が混乱しているけれど、もう遅い。ボートの速度はどんどん上がっていく。


 その加速に合わせて、私の声も変わっていった。


 「えぇぇぇぇ――――っ!?」


 から、


 「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――っ!?」


 へ。


 それが悲鳴なのか何なのか、自分でもよく分からない叫び声を上げていた。


 ボートを降りると、私の足はガクガクと震えていた。

 バナナボートは結構スリルがある。一番前は特に。


「『ひぁぁぁー』はなかなかの悲鳴よ、トモミ!」


 母は大満足といった様子で笑っていた。

 

 ——————

 ひぐらしの鳴く声が聞こえた。

 そろそろ日が沈み始める時間。


 私はふらふらになりながらコテージに戻ると、ケイさんはすっかり夕食の準備を始めていた。


 テーブルの上にはコンロ、そして鍋。


(え、鍋……!?)


 この真夏に鍋……。


「今のうちにお風呂、入るでしょ?」


 母に言われ、私たちはジャグジーに向かう。


「あ、水着着て来なさいね」


 と、母は一言言い添えた。


 ◇


 日が完全に落ちると、遠くにライトアップされた観覧船や灯台が見えた。

 夜の海は静かで、どこか悲しげだ。


 そういえば、すごく久しぶりに母とお風呂に入った気がする。

 こんな機会でもないと聞けない――そう思い、私は思い切って尋ねてみた。


「ケイさんって……」


 母は「あぁ」と呟いて、静かに語り始めた。

「そうね……そのセンスと才能に、人間らしい感情をすべて捧げた男、かな」

「ちょっとかっこよすぎるかもしれないけど、しっくり来る言葉がそれだから」

「昔はもう少しマシだったんだけど、結局行き着いてしまったのね」

「え? 知り合ってから? うーん、もう20年かな」


 パシャリッ両手でお湯をすくって顔を拭う少しの間。

「…………」

 

 何か言葉を選ぼうとして失敗したのかもしれない。

「泣いてる女が嫌いなのよ」

「だから、おかあさんのものには絶対ならないわ」

「その分甘えやすいし、本人もそのことをわかってるから色々してくれるのよ」


 そして、母はまっすぐに私を見て言った。

「そうそう。忠告しておくけど、あの男はやめておきなさい」

「横に並ぶなんて考えてはダメよ、絶対」

「――泣けない女は、悲惨よ」

 そう言って、また遠くを見るのだった。

 

 ◇

 

 夏のほてりとお風呂のほてりで身体はずいぶん熱がこもっていたからか、部屋に入った瞬間にひんやりとした冷気にぶるっとして、目が覚める。


 部屋のクーラを最強レベルでぶんまわし、部屋をキンキンにして食べる鍋。

 何という贅沢なんだろう。

 魚は全部お刺身用でちょっと大きめにスライスされていたそれを

 しゃぶしゃぶにして食べる。

 

 美味しい。

 

 これ全部お酒?

 お酒のアルコールを飛ばして、だし昆布だけで上品な味を生み出してる。

 

 そしてお魚はそれぞれがそれぞれの味がして飽きがこない。

 魚を取る時にケイさんは、それはハマチ、それはタイ、それはヒラメと妙な知識を披露される。

「一般常識だ」そう言っていた。

 ほうほうと感心しながら舌鼓を打つ。

 特にカワハギが美味しかったのが印象的だった。


 そういえば、ケイさんは左手でお箸を右手におたま。

 両手を器用に扱ってる。

 左利きなのかと聞くと 「まぁ書くのは右だけどな」

 

「学生の時左手でご飯食べて右手でレポートとか書いてたものね、すごい羨ましかったわ」

 と母が言った。

 「え、すごーい」

 素直に感心した。

 「なに、少し頑張れば誰でもできるさ」

 いやいやいや、頑張るとこなんかそんなとこじゃないから。

 と私はおかしくなって、思わず笑ったのだった。


 すっかり食事を堪能し怒涛の海水浴初日は静かに終わりを迎えようとしていた。


 片付けまで全部一人でやってのけたケイさんの背中は、いつもと変わらない。

 ちなみに手伝おうとしたらすごい勢いで睨まれた。

 どうやら足手まといだと思われているらしい。


 その背中をじっと見つめていたら、母がやれやれとした表情をして

「そろそろ寝なさいな。ベッドは上のロフト」。

 と指を指しながら言って大きなテレビ前のソファに腰を下ろす。

 そして一人でワインを飲み始めた。


 ケイさんは一升瓶とコップを持って、ジャグジーの方へ消えていく。


 それぞれがそれぞれの自分の世界に帰っていくようで、私はすごくさみしくなった。

 それでも、私は今日のこの日を絶対に忘れない。後悔もしない。

 そう心に誓って、私は眠りに落ちた。

 <続>

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