第6話 お弁当は、負担付贈与です(民法553条)
〔玖美ちゃんから、お弁当の同意の件で連絡あったから、同意しといた!〕
逃げ道は、朝の七時に、母さんのメッセージ一通でふさがれた。
届いたのは、午前三時。夜勤の休憩中だ。即答だった。
母さんがいつ不破と連絡先を交換したのか、俺は知らない。
台所では、ゆうべ遅く帰ってきた父さんが、食パンをかじりながら新聞を広げていた。
「父さん。母さんから、弁当の話、聞いた?」
「聞いた」
「同意した?」
新聞の向こうで、ページが一枚めくられた。
「……民事不介入だ」
それは、同意していないということだ。たぶん。
「弁当は、残すなよ」
新聞の向こうから、もう一言だけ聞こえた。
最後の一言は、聞かなかったことにした。
向かいで、ゆずが牛乳を飲みながら言った。
「お兄。お弁当の感想、ちゃんと言いなよ。嘘じゃないやつ」
「俺に嘘の感想が言えると思うか」
「思わない。だから、言いなよって言ってんの」
父さんがうなずかない限り、母さん一人の「同意しといた!」では、足りないかもしれない。
逃げ道は、まだ半分残っている。
今日の昼は、不破の理屈で、不破と戦う。
昼休み、窓ぎわから、不破がまっすぐ俺の席まで来た。
両手で抱えていた風呂敷包みを、机の上に置く。ほどくと、黒い漆の重箱が、三段。
教室が、静かになった。
「重箱って、正月以外に見ることある?」
猪狩が、全員の疑問を代表した。
「祖父の家の、お正月の重箱です」
「母さんに連絡したの、お前だろ」
「土曜日に、お帰りの際、玄関で。お母様が『何かあったら、いつでも』と」
「俺が靴はいてるあいだにかよ」
「はい」
「で、弁当は、その何かに入るのか」
「入ります」
不破は、重箱のふたに手を置いた。
「昨日の傘の、お礼です。民法第五百五十三条、負担付贈与です。負担は、感想を述べること」
「傘一本のお礼に、三段かよ」
「傘は一本でしたが、あなたの左肩が濡れていましたので」
肩の分まで、払いに来ていた。
教室じゅうが、こっちを見ている。ここで女子の重箱を受け取ったら、明日から何を言われるか分からない。それに、負担付き、と言った。準備はしてある。
「負担付きなら、未成年の俺には、親の同意がいる。父さんは、同意するとは、言ってない。二人で決めるのが原則だって、お前が土曜に言ったんだぞ」
不破の手が、ふたの上で止まった。
「お父様のお返事は、『民事不介入だ』と、お母様から伺っています。黙示の同意、という考え方は——」
「それ、土曜にも聞いた!」
「お父様は、ほかに何か、おっしゃっていましたか」
嘘は、つけない。
「……新聞を、めくってた」
本当のことだ。全部ではないだけで。
耳が、じわりと熱くなった。
不破は、俺の耳を見た。一秒。二秒。
「確実なほうにします」
ふたから、手を離した。
「負担を、外します。ただの贈与なら、単に権利を得るだけですので、未成年のあなたでも、お一人で受け取れます。民法第五条第一項ただし書です」
「俺がゆうべ見つけた条文で、ふさぐな!」
「どうぞ」
重箱が、机の上をこっちへすべってきた。思わず、両手で受け止めていた。
「受理した!」
猪狩が叫んだ。
「受理って言うな」
受け止めてから、しまったと思った。
重箱を机の端に寄せて、鞄から六法を出した。二百円の、三年前の版だ。付箋が、二枚だけ貼ってある。五条と、五百五十条。
前の席の女子が「甲斐くんが六法持ってる」とつぶやいた。うつったんだ、という声もした。
「民法第五百五十条。書面によらない贈与は、各当事者が解除をすることができる」
紙に書いていない「あげる」は、あとからやめにできる。ゆうべ、二枚目の付箋を貼った条文だ。
不破の目が、俺の六法の背表紙で、一瞬止まった。
「その版には、今年の四月の……」
「二百円だった」
「いえ」
不破は小さく首を振った。それから、声が少しだけ上ずった。
「よく、勉強しましたね」
ほめられた。こっちは、逃げようとしているのに。
「ただし、履行の終わった部分については、この限りでない」
不破の指が、机の端の重箱を指した。
「もう、受け取りましたね」
「まだ食ってない!」
「履行は、渡すことです。食べることではありません」
負けたのは、六法を開く前だった。重箱を、両手で受け止めたときだ。
一段目のふたを開けると、教室じゅうの首がのびた。
卵焼き、きんぴら、唐揚げ。料理の本の写真みたいに、隙間なく詰まっていた。
卵焼きを、一切れ。
味が、しない。
「あ、あれ、味がしないときの顔だ」
後ろで、猪狩が言った。小学校からの付き合いは、こういうときだけ役に立つ。
唐揚げは、衣の味がした。きんぴらは、ごぼうの味がした。それ以外の味が、どこにもなかった。
「塩、入れた?」
「レシピに、『塩 適量』とありました」
「で?」
「量が、書いてありませんでした」
「だから、ゼロ?」
「書いていないものを、勝手に足すわけにはいきません。罪刑法定主義です」
「塩に罪刑法定主義を持ちこむな!」
ついでに聞いた。
「味見は?」
「レシピに、書いていないので」
いつの間にか横に来ていた七尾が、唐揚げを一つつまんだ。噛んで、無言で、水筒の水を飲んだ。
「俺にも一個」
のびてきた猪狩の手を、七尾がはたき落とした。それから、水筒を抱えて、自分の席へ戻っていった。不破の弁当は、よほど水がいるらしい。
仕返しにしては、手が込みすぎている。三段もある。
……いや、この味は、仕返しかもしれない。
不破は、六法を開いたまま、ページを見ていなかった。俺の顔を見ていた。
「負担は外しましたので、感想は、任意です」
任意と言いながら、待っている顔だった。教室じゅうも、待っていた。
嘘じゃないやつを言え、と朝、ゆずに言われた。言われなくても、俺にはそれしか出ない。
「うまくはない」
不破のまばたきが、止まった。
「でも、全部食う」
耳は、熱くならなかった。本当のことだからだ。
不破は、六法に目を落とした。
「……料理は、誰にも習っていません。レシピは、条文と同じで、書いてあるとおりにすれば、誰が作っても同じになると思ったので」
誰にも、のところだけ、声が小さかった。
「塩くらい、俺が教える」
考える前に、言っていた。夕飯は、ほとんど毎日俺が作っている。塩の適量なら、手が覚えている。
六法の角を持つ不破の指に、力が入った。
それから、六法を立てて、顔を隠した。
六法が、逆さまだった。
「逆さまだぞ」
「逆さまでも、条文の中身は変わりません」
声が、六法の向こうでこもっていた。
可愛いやつ、と思いかけて、慌てて打ち消した。
予鈴が鳴るまでに、三段とも空にした。
二段目は、白いご飯だった。真ん中の梅干しだけが、ちゃんとしょっぱかった。この弁当で、いちばん頼りになるやつだった。三段目は、うさぎの形に切ったりんごだった。りんごは、レシピがなくても、りんごの味がした。
父さんの「残すなよ」は、守った。
空の重箱を重ねて、風呂敷で包み直した。
「ごちそうさま。これ、返す」
「重箱は、使用貸借です」
「中身は贈与で、箱は使用貸借かよ!」
「返すのは、明日の朝では、いかがでしょう。七時四十分、駅前の、古本屋の前で」
不破の家からなら、学校のほうがずっと近い。駅前は、俺の通り道だ。
「借主は、いつでも返せるんだろ。昨日、お前が言った」
「……返せます」
声が、小さかった。
今ここで返せば、明日の朝は来ない。
俺は、風呂敷包みを鞄に押しこんだ。
不破は何も言わずに、窓ぎわへ戻っていった。二本の三つ編みが、左右で一回ずつ、跳ねた。
予鈴が鳴った。
鞄が、重箱ひとつぶん重くなっていた。明日の朝の重さだった。




