第5話 この傘は、使用貸借です(民法593条)
権利というのは、毎日発生するものらしい。
水曜の放課後、校門の前の葉桜の下で、不破が六法を開いていた。俺を見つけると、ページから顔を上げた。
「本日も、あなたには、私と一緒に帰る権利があります」
月曜は生徒会長の起訴で流れて、弁護人は先に帰った。昨日は、廊下で選ばれたきりだ。それでも権利は、律儀に今日も届いた。
あれから、不破の隣をどんな顔で歩けばいいのか、俺にはまだ分からない。
「権利なら、放棄する」
口が、先に動いた。
「それは、放棄の意思表示ですか」
不破の声が、少しだけ硬くなった。図書室で「それは、取り消すという意味ですか」と聞いたときと、同じ硬さだった。
「放棄は、自由です。私に言えば、それで消えます。ただし、一度言ったら、引っこめられません」
放棄。権利を、自分から手放すこと。手放せば、もう一緒に帰る話は出てこない。逃げ道としては、上出来だ。
分かっていて、言えなかった。
「……今日は、使わないだけだ。夕飯当番なんだよ」
「どうぞ」
不破は、六法を閉じた。
「私は、待っていますが」
月曜と同じ台詞だった。月曜と違って、今日の俺には、その意味が分かっていた。
言い訳に、夕飯を使った。それでも、校門を出た。
坂の手前で振り返ると、昇降口の前を、生徒会の腕章が早足で横切っていった。鶴来は、こっちを見もしなかった。起訴を取り消した検察官に、被告人はもう用がないらしい。
家に着いて三十分で、雨が降りだした。
今夜、母さんは夜勤で、父さんも遅い。夕飯は俺が作る。豚肉と玉ねぎを炒めて、しょうゆと砂糖で煮つける。見た目は茶色いが、味はちゃんとしている。
母さんの花柄のエプロンをして、フライパンを振りながら、窓ばかり見ていた。片手のスマホでは、民法の「貸し借り」を開いていた。最初に五百八十七条を「これか」と思って、違った。借りた物をそのまま返すほうは、少し先の五百九十三条だった。
「お兄、雨、見すぎ」
食卓で宿題を広げていたゆずが言った。
「焦げるよ」
焦げていた。
「……あいつ、校門で待ってるって言ってた」
「不破さんが? この雨で?」
「たぶん、まだ」
火を止めた。
「で、なんでお兄はここにいんの?」
「権利を行使しなかったから」
「最低」
土曜日以来の「最低」だった。土曜日のは俺に刺さって、今日のは、もう火を止めた俺の背中を押した。
玄関に走った。傘立てには、俺の傘しか残っていなかった。母さんのは病院に、父さんのは交番に、ゆずのは中学の傘立てにある。
一本つかんで、外に出た。
校門に着いたのは、五時四十五分だった。放課後から、二時間近くたっていた。夕飯の豚肉は、焦げたまま置いてきた。
雨の向こうが、薄暗い。葉桜の下に、二本の三つ編みが立っていた。
濡れていた。三つ編みも、ブレザーの肩も。傘は、なかった。朝は、晴れていた。ブレザーの前だけが妙にふくらんでいて、六法を抱えこんでいるのだと分かった。六法だけは、守っていた。
駆け寄って、傘を不破の上に差しかけた。俺の背中に、雨が落ちてきた。
「何してんだよ! 風邪ひくぞ!」
六法を抱えた不破の腕が、一瞬ほどけかけて、すぐに元に戻った。
「雨宿りです」
「屋根ないだろそこ!」
「葉桜は、半分くらい屋根です」
見上げると、確かに半分くらいは葉だった。残りの半分から、ちゃんと雨が落ちてきていた。
「昇降口で待てばいいだろ」
「待っていると申し上げたのは、校門でしたので」
言った場所から、一歩も動いていなかった。
不破の目が、俺の胸のあたりで止まった。
「あなたこそ、その服装は」
見下ろした。母さんの、花柄のエプロンだった。
「……正装ですか」
「違う! 夕飯の途中なんだよ!」
「夕飯の、途中で」
不破は、六法を抱え直した。
「なんで、そこまでして待つんだよ」
不破は、少しだけ目をそらした。
「鶴来さんが、どこかで観察しているかもしれません。苦痛を感じていない証拠を、作っていました」
「二度と蒸し返さないって言ってただろ! だいたい、雨の中で二時間立ってるのは、苦痛の証拠にしか見えねえよ!」
「……帰ったら、待っていると言った私が、嘘になりますので」
小さい声だった。条文は、一つもついていなかった。
連絡くらいしろ、と言いかけて、やめた。俺は、不破の連絡先を知らない。不破も、俺のを知らない。待っていると聞いて帰ったのは、俺のほうだ。
「待たせて、ごめん」
「……あなたが、来ましたので」
仕返しにしては、二時間は長すぎる。鶴来への証拠にしては、雨が多すぎる。
「いいよ」を嘘にできなくて、俺は図書室に行った。こいつは「待っています」を嘘にできなくて、雨の中に立っていた。
じゃあ、そもそも、なんで俺に、それを言った。
答えは一つしか残らない。でも俺は、不破に好かれる理由を、一つも持っていない。告白は罰ゲームで、席は遠くて、俺は嘘をついた側だ。
俺は、傘の柄を不破に押しつけて、一歩下がった。
「この傘は、使用貸借だ」
不破が、俺の顔と傘を、二回見比べた。
「タダで貸して、あとでその傘を返してもらう約束。返すのは、明日でいい」
台所で読んだばかりの条文だった。条文を、逃げ道を探す以外に使ったのは、初めてだった。
「し、使用貸借は」
不破の声が、裏返った。
「民法第五百八十七条……いえ、五百九十三条です」
「五百八十七条は消費貸借だろ。俺の傘を使い切って、同じのを一本買って返す気か」
台所の俺と、同じ所で引っかかっていた。
「……まちがえていません」
「じゃあ、俺は走って帰る」
「だめです」
即答だった。
「民法第一条第二項。権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」
「……つまり?」
「約束の相手には、誠実にふるまえ、ということです。縛られるのは、借りた私のほうです。貸してくれた人を雨の中に置いて、私だけ濡れずに帰るのは、誠実ではありません」
「信義則って言えば、何でも通ると思うなよ」
「通るかどうかには、争いがあります」
争っているあいだに、エプロンまで濡れた。
俺が折れた。
不破の手から柄を取って、二人の上に差しかけた。一本の傘に、二人。不破のほうへ傾けたぶんだけ、俺の左肩が濡れた。
校門の横を、一年生が二人、傘をぶつけ合いながら通りすぎた。どこかで見た二人だった。すれちがいざまに、「心裡留保の人だ」「エプロンだ」と聞こえた。
傍聴席は、雨の日も開いているらしい。
不破の家は、学校から歩いて十分だという。
傘の下で、不破は、こぶし一つぶん離れて歩いていた。
三歩ごとに、少しずつ、寄ってきた。昨日の生徒会室の椅子は、こうやって来たのか。
「……雨が、強くなりましたので」
雨は、さっきから同じ強さだった。言わなかった。左肩が、少しだけ濡れなくなったので。
「一緒に帰る権利って、あれ、俺の権利なんだよな」
「はい。私は、待つだけです。待つのは、私の自由ですので」
「二時間も待つのは、待つ自由の濫用だろ」
不破の顔つきが、変わった。
「濫用、という言葉は、そんなに軽く使うものではありません」
傘の下で六法を開きかけて、雨を見て、やめた。そらで言った。
「民法第一条第三項。権利の濫用は、これを許さない」
「らんよう」
「権利があっても、使い方をまちがえたら、その使い方は通らない、ということです」
そこから先は、早口だった。
「大審院、昭和十年十月五日。戦前の、いちばん上の裁判所です。山奥の温泉が、長い管で、上流から湯を引いていました。その管が、荒れ地の、ほんの二坪ほどをかすめていた。そこに目をつけて、その荒れ地を買った人が、管をどけろ、どけないなら周りの土地ごと、とんでもない値段で買え、と言ったんです」
二坪は、畳でいえば四枚ぶんだ。
口をはさむ隙は、なかった。はさむ気も、なかった。最後まで聞きたかった。
「裁判所は、形は所有権でも、中身は不当な利益が目当てだ、権利の濫用だ、と退けました。当時は、条文もなかったんです。十二年後に、民法第一条第三項になりました。宇奈月温泉事件といいます。……ですから、二時間待つくらいでは、濫用には、なりません」
自分の待ちぼうけを、戦前の判決で弁護していた。
眠たそうな目が、光っていた。この目は、初めて見た。
「へえ。面白いな、それ」
傘の下で、不破が一歩ぶん遅れた。
俺も止まった。傘ごと止まらないと、不破が濡れる。
「どうした」
「……水たまりです」
足もとに、水たまりはなかった。
不破の家は、古い平屋だった。門の内側に、柿の木が一本立っている。
門の前で、不破が傘の柄を受け取った。両手で一度握ってから、俺に差し出した。
「お返しします。約束の明日より前ですが、借主は、いつでも返せますので」
戻ってきた柄は、少しだけ温かかった。使用貸借に、おまけはつかないはずだった。
「お礼に、明日、お弁当を差し上げます」
「お礼って。貸しただけだぞ」
「ですから、別の約束です」
不破は、門に手をかけた。
「負担付きです」
「負担って何だよ」
「明日、申し上げます」
戸が閉まった。傘は一日早く返ってきて、約束が一つ、増えかけていた。
帰り道、駅前の古本屋に寄った。
法律の棚に、六法が一冊だけ立っていた。三年前の版で、二百円。法律は変わる。今年の四月にも変わったと、土曜日に不破から聞いた。でも、二百円だった。
スマホの画面には、付箋が貼れない。レジの横で、付箋も買った。四色。
店の軒下で、さっそく贈与のページを開いた。負担付贈与。もらう側にも、負担という義務がつく贈与だ。
図書室で不破が読んだ民法第五条も、引いてみた。続きがあった。「ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない」。
ただもらうだけなら、親の同意はいらない。負担付きは、ただもらうだけ、じゃない。
逃げ道が、見つかった。
……母さんが、即答しなければの話だが。




