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第7話 遅刻一回につき、私を名前で(民法421条)

 目覚ましは、二つかけた。二つとも、ちゃんと鳴った。

 六時に起きた。寝坊ではない。

 遅れたのは、卵焼きのせいだ。

 「塩くらい、俺が教える」と言った以上、見本がいる。重箱を空で返すより、中に一つ入っているほうが話が早い。

 一回目は、焦がした。二回目は、巻くところで崩れた。三回目は、塩を入れ忘れた。不破のことは笑えない。四回目は、入れすぎた。

 人に食わせると思った途端、手が言うことを聞かなくなる。五回目で、やっと卵焼きの形になった。塩は、ひとつまみ。卵焼きは、塩を入れて初めて卵焼きになる。三回目の俺のも、不破のも、卵を焼いたものだった。

 七切れに切った。一切れは、パジャマのまま起きてきたゆずに取られた。

「しょっぱ。……普通においしい」

「普通が、いちばん難しいんだよ」

 残りの六切れを重箱の一段目に詰めて、紙の切れ端に〔塩 ひとつまみ〕と書いて、上に載せた。

「お兄、それ誰の」

「重箱に入れる分」

「ふうん」

 人に点をつけるときの声だった。今朝の点は、たぶん悪くない。

 時計を見た。七時三十分。

 七時二十分には、家を出るはずだった。

 駅前まで、走った。重箱を水平に保ったまま走るのは、思っていたより難しかった。中身が寄ると、見本にならない。曲がり角のたびに、風呂敷包みを両手で捧げ持つ形になった。すれちがった犬の散歩の人が、二度見していった。

 走ったのに、歩くのと同じ二十分かかった。


 七時五十分、駅前。

 古本屋は、まだシャッターが下りていた。その前に、不破が立っていた。六法を胸の前で開いたまま、手首の腕時計をのぞいている。改札から出てくる人の流れが、閉まったシャッターの前で六法を開く女子高生を、よけて通っていた。

「七時五十分です」

 俺の足音で、一度だけ肩が動いた。顔は、上げなかった。

「十分の遅刻です」

「ごめん!」

 頭を下げた拍子に、風呂敷包みが傾いた。慌てて水平に戻した。

「謝罪は、受領します。理由は」

 卵焼きを焼き直していた、と言えば、重箱を開ける前に中身がばれる。嘘は、つけない。

「……黙秘する」

「被告人の権利です」

 不破は、あっさり認めた。それから、六法のページを指でなぞった。

「民法第四百十二条第一項。債務の履行について確定期限があるときは、債務者は、その期限の到来した時から遅滞の責任を負う」

 重箱を七時四十分に返す、と決めたのは、昨日の俺だ。返す時刻を決めた約束に遅れたら、その時刻から、遅れた責任を負う。

「履行遅滞です」

「遅れたのには、理由がある」

「では、理由を述べてください。責任がないことは、遅れたほうが示すものです」

「……黙秘する」

「ここは、民事です。では、責任があります」

「黙秘って、刑事だけかよ!」

 黙秘したせいで、言い訳まで封じられた。

「十分の遅刻に、六法は重すぎるだろ」

「十分、待ちました」

「いつから待ってたんだよ」

「七時二十分からです」

「二十分前じゃねえか!」

「早く着くのは、私の自由ですので」

 雨の校門の、二時間近くが頭をよぎった。言い返せなかった。

「遅れた場合の賠償額を、決めておくべきでした」

 不破は、六法をめくった。

「民法第四百二十条。当事者は、債務の不履行について損害賠償の額を予定することができる」

「つまり?」

「遅れたらこれ、と、先に決めておけるんです。これからの分を、予定させてください」

「これから?」

「月曜日からの朝も、ここで」

「毎朝待ち合わせる気かよ」

「重箱の使用貸借は、今朝で終わります。終わったら、新しい約束が要りますので」

 終わる前から、次の約束の話をしていた。

「遅刻一回につき、私を、下の名前で呼ぶこと」

「は?」

「賠償額の予定です」

「名前は金じゃないだろ」

「お金でないもので予定するときも、同じ決まりが当てはまります。第四百二十一条」

「名前は『もの』じゃないだろ!」

「条文は、ひらがなの『もの』です。漢字の『物』ではありません」

「ひらがなに逃げるな!」

 漢字の「物」は、形のある物のことらしい。ひらがなは、ずるい。こっちは、妹以外の女子を、下の名前で呼んだことなんか、一度もないのに。

 叫んでから、本当の逃げ道を思い出した。

「それに、予定は前もって決めとくもんだろ。今日の遅刻には、関係ない」

 不破の目が、少しだけ下を向いた。

「……関係、ありません」

 声が、小さかった。


 逃げ道は通ったのに、気まずかった。風呂敷包みを差し出した。

「返す。重箱、ありがとな」

 不破は六法を鞄にしまって、両手で受け取った。腕が、少し下がった。

「重いですね」

「開けてみてくれ。俺が持つから」

 重箱を受け取って、盆のように捧げ持った。今朝から、捧げ持ってばかりだ。

 不破は、シャッターの前で一段目のふたを開けた。卵焼きが、六切れ。上に、紙の切れ端。

「ひとつまみは、何グラムですか」

「指でつまめるくらい」

「指の大きさには、個人差があります」

「だから見本を作ったんだよ。親指と人さし指で、こう」

 俺が指をこすり合わせると、不破も空中で、親指と人さし指をこすり合わせた。真顔だった。何もない空気を、ひとつまみしていた。

「一切れ、味見してくれ」

「味見は、レシピに——」

「これはレシピじゃない。俺の卵焼きだ」

 不破は、ふたの裏に挟んであったピックで、一切れ刺した。食べた。

「しょっぱいです」

「それが、味だ」

「家では、塩は使いません。祖父が、控えるように言われていますので」

 だから、「適量」がゼロになったのか。

「ゼロが、適量でした」

 不破は、もう一切れ食べた。駅前で、立ったまま、俺が捧げ持つ重箱から卵焼き。行儀はよくない。眠たそうな目が、少しだけ大きくなっていた。

 今日の十分は、予定の前だ。法律の上では、払わなくていい。

 でも、待たせたのは、今日の十分だけじゃない。

「……玖美」

 自分の口から出た名前は、思ったより小さかった。耳が、熱くなった。

 不破が、止まった。ピックを持ったまま。

「そ、それは」

 ピックを重箱に置いて、鞄から六法を出した。めくる指が、速かった。

「民法第四百……九十……三百……」

 指が、止まった。

「番号が、出てきません」

 可愛いやつだ、と思った。

 今度は、打ち消せなかった。

「い、今のは、今日の分ですか。それとも、予定の承諾ですか」

「どっちでもない。待たせた分を、払っただけだ」

 不破は、重箱の上の紙の切れ端をつまんで、六法に挟んだ。

「証拠として、保全します」

「何の証拠だよ」

「塩の量の、です」


 学校までの十五分を、並んで歩いた。

 重箱は、不破に返した。空いているほうの手で、不破は三つ編みの先を指に巻いては、離していた。

「月曜日からの予定は、承諾していただけますか」

「考えとく」

「では、審理を続けます」

 遅刻一回で、名前を一回。遅刻しなければ、呼ぶ理由がない。いや、呼びたいわけじゃない。

 さっきから、耳が熱い。どうせもう熱いなら、何を聞いても同じだ。

 図書室で「なんで、OKしたんだよ」と聞いて、背中越しに後日に回された論点が、まだ残っている。

「お前、俺のこと、好きだろ」

 不破は、一拍も置かなかった。

「その主張には、立証責任が伴います」

 図書室で「あなたが証明しなければなりません」と言われたのと、同じ形だった。

「立証してやる」

 受けて立つしかない。

「雨の中、二時間待った」

「待つのは、私の自由です」

「今朝は、二十分前に来た」

「早く着くのも、私の自由です」

「三段の重箱」

「傘の、肩の分です」

「自由と肩しか出てこないじゃねえか」

「反証は、以上です」

 一つも、通らなかった。

 校門の手前で、カメラのシャッターの音がした。

 サイドテールの七尾が、写真部の一眼レフを構えていた。

「はい、証拠」

 俺が立証したいのは、そっちじゃない。


  ◇


 一時間目のチャイムが鳴る前に、私——不破玖美は、六法の裏表紙の内側に、鉛筆で小さく書いた。

〔四月二十四日 午前七時五十八分〕

 名前を、呼ばれた時刻だ。法律の上では、払わなくていい分だった。だから、なおさら書いておく。塩の紙は、その隣に挟んである。

 「立証してやる」と、あの人は言った。

 立証しようとしている人が、二人になった。鶴来さんと、あの人。

 でも、立証させるわけにはいかない。

 私があの人を好きだと証明されたら、次の問いは決まっている。好きな人の告白なら、罰ゲームだと知っていても、「はい」と言うのではないか。

 知っていたと分かれば、あの告白は、九十三条第一項ただし書で、初めから無効だったことになる。

 そこまで立証されたら、私は、負ける。

 六法を閉じた。それから、誰も見ていないのを確かめて、空中で、もう一度だけ、ひとつまみをした。

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