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第3話 知ることができたか、クラスで聞いてみた(民法93条1項ただし書)

 月曜の朝、三年二組の戸を開けたら、窓ぎわの席で不破が立ち上がった。

「おはようございます、あなた」

 教室が、止まった。

 三十六人ぶんの目が、俺と不破のあいだを行ったり来たりした。

「あなた!?」

「今、あなたって言った?」

「新妻か!」

 違う。たぶん違う。

「不破さん、今の何!?」

 前の席の女子が身を乗り出した。不破は六法を胸に抱えて、答えた。

「交際の当事者として、ご挨拶しました」

「こうさいの、とうじしゃ」

「いつから!?」

「金曜日の、午後四時二十一分からです」

「分まで覚えてんのかよ」

 思わず言ってから、しまったと思った。今のは、付き合っていると認めた側のつっこみだ。

「土曜日から、言い張れるようになりましたので」

「言い張るって、こういうことかよ!」

 騒ぎの真ん中で、猪狩だけが黙っていた。両手で、自分の口をふさいでいる。金曜の帰り道の「誰にも言うなよ」を、律儀に守っているらしい。

 七尾は、窓の外を見ていた。

 不破は席に着くと、六法を開いて、顔の下半分を隠した。

 俺も、廊下側の自分の席に逃げた。


「なあ、甲斐」

 後ろの席の男子が、俺の肩をつついた。

「一年の妹がさ、金曜に図書室で全部見てたって言うんだけど。三年の男子が罰ゲームで『歩く六法』に告って、しんり何とかっていう法律で付き合わされたって」

 金曜の図書室。奥の机の一年生二人。傍聴席は、ちゃんと傍聴していた。

 全員の目が、俺に来た。

 嘘はつけない。この耳がある。

「俺が、罰ゲームで告った」

 誰も、何も言わなかった。

 どこかで、くすっと笑う声がした。

「え、罰ゲームでOKしたの? 不破さんが?」

「歩く六法なのに、気づかなかったんだ」

 くすくすが、二つ、三つと増えた。笑われているのは俺じゃない。不破だ。

 不破は、顔を伏せたままだった。

 母さんの追認が効いていないなら、俺はまだ取り消せる。不破に一言、取り消す、と言えば、それで済む。少なくとも俺は、この笑い話から降りられる。

 不破ひとりを、ここに残して。

 椅子が、うしろに倒れた。

「笑うなよ」

「悪いのは、俺だ。不破は、なんにも悪くない」

 耳が熱かった。嘘じゃないほうの熱さだった。

 教室の誰も、動かなかった。

 六法の上から、眠たそうな目がこっちを見ていた。少しだけ、丸くなっていた。

 その静けさの中で、椅子が鳴った。猪狩が立っていた。

「仕組んだのは、俺だ!」

 口をふさいでいた手が、拳になっていた。

「罰ゲームを考えたのも、真に嘘告させたのも、俺だ。笑うなら、俺を笑え」

 二度寝返った証人が、初めてこっちについた。

 そこへ戸が開いて、担任の宍戸(ししど)先生が入ってきた。公民の先生で、司法試験を五回受けた人だ。立ったままの俺と猪狩と、顔を伏せた不破を見て、先生は教卓の前の席の女子に小声で事情を聞いた。

「しんり何とか……心裡留保?」

 先生の目が、遠くなった。

「九十三条だな。僕が三回目に落ちた年の、試験に出た」

 それから黒板に寄りかかって、腕を組んだ。

「続けていいよ。当事者の話だ。ただし、笑うのはなし。ホームルームまで、あと五分ある」

 止めてくれ。


「でも、罰ゲームなら、無効なんじゃないの?」

 誰かが言った。俺は、飛びついた。

 無効なら、だまされた女子はいなくなる。下手な嘘をついた男子が、一人いるだけだ。

「そうだよ。九十三条のただし書だ。俺の嘘が見え見えだったなら、無効なんだよ」

「九十三条ただし書、か」

 黒板の前で、宍戸先生がつぶやいた。

「六年前に条文が書き足されて、今は、第一項ただし書と呼びます」

 不破が、顔を上げないまま言った。

「……落ちたあとで、条文まで変わった」

 先生が、さらに遠くなった。

 気づけた、というのは、法律では「知ることができた」だ。不破の立場にいた普通の人が、その場で普通に注意していれば気づけたか。土曜の夜、そこまでは調べた。

「俺の嘘なんか、歩く六法ならすぐ見抜けるだろ。耳まっ赤で、ダウトに負けた直後だぞ」

「ダウトは、教室の出来事です。図書室の私に、見る方法はありませんでした」

 図書室から、教室は見えない。正論だった。

 せっかく出した助け舟を、不破は自分で沈めた。

「普通の人なら気づくって。……じゃあ、聞いてみろよ。普通の人代表が三十六人もいるだろ、ここ」

「いいでしょう。参考までに、一回だけ」

 不破は六法を閉じて、立ち上がった。左右の三つ編みが、ぴったり釣り合っている。教室を、端から端まで見渡した。

「甲斐くんが本気で私に告白することが、ありえないと思う人」

 俺は、挙げなかった。挙げたら、不破の前で「お前に本気で告るなんて、ありえない」と言うのと同じだ。

 誰も、手を挙げなかった。

 十秒待っても、挙がらなかった。

「なんで誰も挙げないんだよ!」

 自分も挙げていないのに、叫んでいた。

 猪狩まで、腕を組んだままだった。

「お前は挙げろよ。仕組んだ本人だろ!」

「いや、真なら本気でもありそうだなって」

 こっちについたばかりの証人が、褒めながら寝返った。

「不破さんに告る勇気あるの、甲斐くらいでしょ」

「甲斐、嘘つけないし」

「嘘つけないなら、嘘はバレるってことだろ!」

「バレていません。私は、気づけませんでしたので」

 不破は、平然と言った。

 さっき笑った女子が、ばつの悪そうな顔をしていた。

「……ごめん、不破さん。さっき、笑って」

 不破は、小さく会釈を返した。

 俺のための挙手は、一本もなかった。

 窓ぎわで、七尾の手が、机から少しだけ浮いて、それから下りた。罰ゲームを知っている七尾なら、挙げて当然だ。不破の前で、挙げられなかったんだろう。

「では」

 不破が、結論を言った。

「本気の告白でもありえた、ということです。民法第九十五条、いえ、九十三条第一項ただし書によれば」

「ありえた、と、気づけなかった、は別の話だろ!」

「別の話だな」

 宍戸先生が言った。

「ただし、質問の立て方は、不破の勝ちだ」

 負けた。それより。

「今、まちがえなかったか?」

 歩く六法が番号をまちがえるのは、聞いたことがなかった。

「九十五条は、錯誤だな」

 宍戸先生が、うれしそうに言った。

 錯誤。勘違いの条文だ。勘違いの条文で、勘違いした。

「まちがえていません」

 不破は、三つ編みの片方を引いて、耳を隠した。片方だけ下がった三つ編みで、天秤が傾いた。隠す前の耳の先は、廊下側からでも分かるくらい、赤かった。

 不破の耳を見るのは、二回目だ。

「照れてんの?」

「照れていません。私は、自分の耳については、善意の第三者です」

「朝は当事者で、耳は第三者かよ!」

 宍戸先生が、出席簿を開いた。

「出席を取ります。甲斐と猪狩と不破は、昼休みに職員室へ」


 昼休み、職員室には一人ずつ呼ばれた。不破は「問題ありません」とだけ答えたらしい。猪狩は「全部俺です」とだけ答えたらしい。先生は、しばらく様子を見る、と言った。俺のほうは、たっぷり聞かれた。

 五時間目が終わるころには、噂は三年の廊下を端まで歩いていた。

 放課後、校門の前の葉桜の下に、不破がいた。

 遠くから見ると、前髪の髪留めを外しては留め、外しては留めしていた。四回目で、俺に気づいた。六法が開いた。

「あなたには、私と一緒に帰る権利があります」

「権利ってことは、使わなくてもいいんだよな」

「……どうぞ。私は、待っていますが」

 待つ、の意味を聞き返そうとして、やめた。耳が熱かった。

「三年二組、甲斐真」

 校門の内側から、よく通る声が飛んできた。振り返ったときには、鼻先に人さし指があった。

 生徒会の腕章。高い位置のポニーテール。

 生徒会長の鶴来(つるぎ)冴(さえ)だった。三年一組、学年一位。不破が二年間、一度も抜けなかった名前だ。朝礼で話すとき、マイクがいらない。

「罰ゲームで、女子生徒に嘘の告白をした件」

 指は、少しもぶれなかった。

「生徒会は、甲斐真を起訴する。求めるのは、この交際の解消だ。明日の昼休み、生徒会室で待つ」

「起訴!? 起訴できるのは検察官だけだろ。警察官の父さんだってできないのに!」

「承知している。校内の問題は、生徒会の問題だ。これは、生徒会としての起訴だ」

 承知したうえで、指は本気だった。

「情状酌量の余地は、ない」

 まだ裁判もしていないのに、罰を軽くしない宣言をされた。

 交際の解消。金曜から俺が探していた出口を、生徒会が持ってきた。

 俺の前に、三つ編みが二本、割りこんだ。

 不破だった。開いたままの六法を胸の前に抱えて、俺と鶴来のあいだに立っていた。鶴来の指の先には、今度は不破がいた。

「その事件の弁護人は、私です」

 鶴来の眉が、ほんの少しだけ上がった。

「被害者が、弁護人を?」

 不破は、六法を閉じた。

「被害者は、いません」

 鶴来の指は、不破から動かなかった。

「不破玖美。教室では、気づけなかったと答えたそうだな。だまされたなら、被害者だ」

 一拍、置いて。

「それとも、罰ゲームだと知っていたのか」

 知っていたなら、九十三条一項ただし書で、交際は無効。知らなかったなら、不破はだまされた被害者。鶴来の筋書きでは、俺は有罪。

 どっちに答えても、不破の負けだ。

 不破は、答えなかった。

 うちの居間でも、朝の教室でも、少しも揺れずに「気づけませんでした」と言えた口が、閉じたままだった。

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