第2話 ご両親に、催告します(民法20条)
土曜日の朝十時、うちの玄関に、催告書を持った女子高生が来た。
来る前に止めるつもりだった。本当に。罰ゲームだと言えば、嘘の嫌いな母さんが取り消してくれる。それが、ゆうべの計画だった。
夜中の二時まで「心裡留保」を検索した。分かったのは、不破の言ったことが全部本当だ、ということだけだった。
母さんの〔どんな子!?〕には、まだ返事をしていない。一行で書ける気がしなかった。
九時五十分、夜勤明けの母さんが帰ってきた。なぜか元気だ。
「で、どんな子?」
靴を脱ぐより先に、それだった。
「母さん、それより、昨日のあれは罰ゲームで」
「写真は? ないの? 髪は長い?」
聞いていない。夜勤明けの母さんは、質問しかしない。
ピンポーン。
十時ちょうどだった。
俺が立つより早く、母さんが玄関を開けた。
不破が立っていた。制服で。肩に鞄、片手に紙袋、片手に白い封筒。左右の三つ編みは、今日もぴったり釣り合っている。
「なんで制服なんだよ。土曜だぞ」
「制服は、高校生の正装です」
不破は母さんに菓子折りを渡し、きっちり腰を折った。
「甲斐真さんとお付き合いをさせていただいております、不破玖美と申します。本日は、法定代理人の皆様に、催告に参りました」
母さんは、しばらく不破を見ていた。それから奥に向かって叫んだ。
「お父さん! 法定代理人の出番よ!」
「意味分かって言ってる?」
「手術の同意書で毎日見てるもの。サインする人でしょ」
看護師の母さんは、だいたい合っていた。
低いテーブルの向こうのソファに、両親。俺は、なぜか不破の隣に座らされた。結婚の挨拶の並びだった。
父さんは今日は休みで、ソファの端で新聞を広げている。ゆうべ、何も言えなかった相手だ。交番のおまわりさんは、休みの朝くらい新聞の陰にいたいらしい。妹のゆずは、居間から上がる階段の途中で、手すりの陰から見ている。中二は、こういうとき絶対に部屋に戻らない。
「甲斐くんは——」
「はい」
「はい」
父さんと俺の返事が重なった。
「……息子さんは」
不破は言い直した。
「昨日、息子さんから、交際を申し込んでいただきました」
「やっぱり! 告白だったのね!」
母さんが身を乗り出した。
「でも、なんでわざわざうちに?」
「理由が、二つあります」
不破は、膝の上で指を一本立てた。
「一つ目。息子さんは未成年ですので、ご両親に知っていただくまで、私は息子さんに『私たち、付き合っていますよね』と言い張れないんです。民法第九十八条の二です」
「親に挨拶してからでないと、恋人を名乗れないのね。今どき、ドラマでもやらないわよ」
「法律ではやるらしい」
言ってから、不破の味方みたいになっていることに気づいた。俺が未成年だから、親の耳に入るまでは、俺に「はい」を押しつけられない。だから、わざわざ親の耳に入れに来た。そういうことか。
「二つ目が、こちらです」
白い封筒が、テーブルの上を母さんのほうへすべった。
母さんが封を切って、声に出して読んだ。
催告書
甲斐真の親権者 甲斐隆之様 甲斐さとみ様
四月十七日、ご子息の甲斐真さんから交際の申込み(「好きです。付き合ってください」)を受け、私は同日、承諾いたしました。
ご子息は未成年者で、ご両親の同意を得ていないため、ご両親はこの交際の約束を取り消すことができます(民法第五条第二項)。
つきましては、この書面が届いた日から一か月以内(五月十八日まで)に、これを追認するかどうかを確答してください。期間内に確答を発しないときは、追認したものとみなされます(民法第二十条第二項)。
令和八年四月十八日 不破玖美 印
「告白の文面を読み上げるな!」
読み上げられた。親の声で。
宛名には、両親の下の名前まで書いてあった。猪狩め。
交際が契約かどうかは「後日」だったはずなのに、催告書の中では、もう約束になっていた。
便箋は、手ですいた紙みたいな、妙に上等なものだった。端に小さな透かしまで入っている。
図書室の仕返しにしては、便箋がよすぎる。
いや、それより。
「ほら、書いてある! 取り消せるって! 母さん、あれは罰——」
言いかけて、隣の不破が目に入った。膝の上で、両手を固く握っていた。
続きが、出なかった。
「追認します!!」
母さんの即答だった。
追認。あとから認めて、もう取り消せなくすることだ。
「ありがとうございます」
「なんで逃げ道まで書いてあるんだよ!」
「書いておかないと、お母様の追認が無効になりかねません」
取り消せると知ったうえで認めないと、追認は効かないらしい。逃げ道は、閉めてもらうために書いてあった。ゆうべの俺の計画ごと。
「では、控えのこちらに、受け取った日付とお名前を。その下に、今のお言葉を書いていただけますか」
不破は、鞄からもう一枚、同じ便箋を出した。
「口頭ですと、あとで『冗談でした』と言われかねませんので」
「母さんにまで根に持つな!」
母さんは嬉々として日付と名前を書き、その下に〔追認します〕と大きく書いた。
「ただ」
控えを受け取ると、不破は少しだけ声を落とした。
「ご両親がお二人とも親権者のときは、お二人で一緒に決めるのが原則です。お一人でも決められる日常のことが、条文にはっきり書かれたのは、今年の四月からです。たとえば、毎日のご飯や服装です」
「つまり、母さん一人じゃ足りないかもってことか」
「息子さんの交際の追認が日常のことに当たるかは、疑問があります」
こいつ、勝ったのに。勝ちを、わざわざ疑いにいった。
「日常よ! うちでは日常!」
母さんはスマホを出して、ものすごい速さで何かを打った。
「ほら、法務省! 子どもの人付き合いは、日常の行為だって書いてある!」
不破は画面に顔を近づけて、同じ文の続きを指さした。
「ただし、子どもに重大な影響を与えないものに限る、と書いてあります」
それから、母さんの目を見た。
「私との交際は、息子さんに、重大な影響を与えます」
「自分で言うな!」
自分で言うな、と叫んだ口のまま、気づいた。母さんの追認が効いていないなら、俺はまだ、自分で取り消せる。
取り消す、とは言わなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「なんで自分から崩すんだよ。勝ってたじゃん」
「あとで取り消されない追認でなければ、意味がありませんので」
取り消されない、のところだけ、声に力が入っていた気がした。
「お父さんが黙ってるのは、賛成ってことよね!」
母さんが、新聞を指さした。
「黙示の同意、という考え方は、あります」
全員の目が、新聞に向いた。
口に出さなくても、態度で賛成したことにされかねない。それが分かったのか、新聞の向こうから、父さんの声がした。
「……民事不介入だ」
「ここ家だから! 父親として介入してくれ!」
父さんは新聞をたたんだ。道を聞かれたときと同じ顔で、不破をまっすぐ見た。
「一か月、考えさせてくれ」
「承知しました」
不破が控えを差し出すと、父さんは受領の欄にだけ名前を書いて、ペンを置いた。
「受け取っただけだ。返事は、まだだ」
不破は、テーブルに額がつきそうなくらい、深く頭を下げた。
「お兄。さっきの『好きです』、書面じゃなくて、自分の口で言ってみて」
階段から、ゆずの声が降ってきた。
「なんでだよ」
「本気なら、言えるでしょ」
逃げ場がない。断れば、本気じゃなかったと白状するのと同じだ。
「……好きです。付き合ってください」
言い終わる前に、耳が熱くなった。視界の端で、不破が息を止めた。
ゆずが、階段を一段下りた。
「お兄。それ、嘘の耳? 照れの耳?」
照れでも赤くなる、と言えば逃げられる。昨日、図書室で覚えた理屈だ。
でも、それで罰ゲームを隠したら、嘘になる。
「……罰ゲームだった」
居間が、しんとした。
「最低」
ゆずが言った。一言だった。正しかった。
母さんの顔から、さっきまでの浮かれた色が、すっと引いた。
「四月一日生まれだから、嘘をつかない子にって、真ってつけたのに」
怒鳴られるより、こたえた。
「真」
父さんの声は、低かった。
言い訳は、なかった。罰ゲームに「いいよ」と言ったのも、相手を選んだのも、俺だ。
「罰ゲームの相手に私を選んだのは」
先に口を開いたのは、不破だった。
「私なら一瞬で見抜いて振る、と思ったからでしょう。息子さんなりに、誰も傷つけない方法を考えたんだと思います」
かばわれた。告白された側に。
「不破さんは」
ゆずが、もう一段下りた。
「罰ゲームだって、知らなかったんですか」
「はい。気づけませんでした」
「……ふうん」
ゆずの「ふうん」は、人に点をつけるときの声だ。
七尾の「ノーコメント」が、一瞬だけ頭をよぎった。でも、図書室の「聞いていません」はあんなに下手だったのに、今のは少しも揺れなかった。本当に、気づかなかったんだろう。
「でも」
ゆずの声が、少し小さくなった。
「不破さんは、傷ついたんじゃないの」
不破は、すぐには答えなかった。
胸の前に垂れた三つ編みの片方を、握った。左右の釣り合いが、そこだけ崩れた。
「……私は、傷ついていません」
「真。言うことがあるだろう」
父さんに言われる前から、分かっていた。
俺は立ち上がって、不破に頭を下げた。
「ごめん。お前なら傷つかないと思って、選んだ。それが、いちばん失礼だった」
顔を上げられなかった。図書室で、猪狩の笑い声まで聞かせた。それも、ごめんの中に入れた。
少し、間があった。
「……謝罪は、受領します」
顔を上げると、いつもの眠たそうな目だった。
「交際は、継続します」
こっちには、間がなかった。
「なんで!?」
叫んだのは、ゆずだった。
「謝罪と、契約の効力は、別の問題ですので」
「追認も、追認のままよ」
母さんが言った。
「嘘をついたのは、あんたなんだから」
ゆずは口を開けたまま、不破を見ていた。
最低、とは、もう言わなかった。
「玖美ちゃんを、駅まで送りなさい」
母さんに、玄関から押し出された。
商店街を、二人で歩いた。土曜の昼前で、八百屋の前だけ人が多い。不破は菓子折りを置いてきた手で、六法の入った鞄を抱え直した。
「今日の『ごめん』は」
信号待ちで、不破が言った。
「耳が赤くなっていませんでした」
「見てたのかよ」
「本気の謝罪だったので、受け取りました」
信号が青になった。不破は、何もなかったみたいに歩きだした。
「昨日のは」
追いついて、聞いた。
「昨日の『ごめん』は、赤かったのかよ」
不破の足が、止まった。
「その件は、審理中です」
それだけ言って、さっきより速く歩きだした。三つ編みが、左右で少しずれて揺れた。
この人は、ずっと俺の耳を見ていた。俺が不破の耳を見たのは、昨日の一度きりだ。
改札の前で、不破は振り返った。
「今日から、私は、あなたに『付き合っています』と言い張れます」
「言い張って、どうすんだよ」
「月曜日、教室で言い張ります」
「教室で!?」
取り消す、と言えば、月曜日は来ない。
不破は改札を抜けて、振り返らなかった。
三回目も、俺は言わなかった。




