第1話 冗談でした、は通りません(民法93条)
「好きです。付き合ってください」
「はい」
ピッ。
返却された本のバーコードを読み取る音と、返事が同時だった。
放課後の図書室。貸出カウンターの向こうで、不破玖美は手を止めもしなかった。次の一冊を取り、裏返し、読み取り機を当てる。ピッ。
俺の人生初の告白は、返却本と同じ手つきで受理された。
耳が熱い。
「……すみません。今の、罰ゲームで」
「冗談でした、は通りません」
ピッ。最後の一冊を読み取って、不破は読み取り機を台に戻した。カウンターの下から、両手でないと持てない厚さの本が出てくる。
表紙に金色の字で、六法。
「心裡留保です」
しんりりゅうほ。
聞いたこともない言葉を、診断みたいに告げられた。告白では顔を上げなかった奥の机の一年生が二人、そこで顔を上げた。
付箋だらけの六法が、迷いのない手つきで開かれる。青い付箋のページ。細い指が一行をなぞった。
「民法第九十三条。意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない」
「呪文?」
「条文です」
「本気ではないと分かっていて言ったことでも、言った以上は有効です。本音を心の中に留めて保ったまま、違うことを言う。それを、心裡留保といいます」
罰ゲームという文化を真正面から否定する条文が、この国の法律にはちゃんと書いてあったらしい。
「いや待て。告白に法律って関係あるのか」
「『付き合ってください』は申込み、『はい』は承諾です」
「付き合うのって、契約なの?」
「……その点には、争いがあります」
「あるのかよ」
「論点は、後日」
後日に回された。
「とにかく、私が冗談だと気づけなかった以上、その告白は有効です」
六法を開いたまま、不破が俺を見た。
左右に一本ずつ下ろした黒髪の三つ編みは、長さも太さもぴったり同じだ。前髪を留めた銀の天秤の髪留めから、両皿を吊るしたみたいに釣り合っている。目じりの下がった、眠たそうな目。六法さえ開かなければ、おっとりした美少女に見える。
いま、全開だけど。
ここで、経緯を自白しておく。
三十分前、俺こと甲斐真は、三年二組の教室で猪狩と七尾いちかとトランプをしていた。猪狩は小学校からの付き合いで、罰ゲームを考えるときだけ頭が回る。七尾は同じクラスの女子で、だいたい正しい。
種目はダウト。嘘のうまいやつが勝つゲームで、俺はカードを出す前に、二人同時に「ダウト」と言われた。ルール上ありえない。でも当たっていた。
俺は、嘘をつくと耳が赤くなる。おかげでダウトでは十年勝ったことがない。四月一日、エイプリルフール生まれのくせに、これだ。神様の罰ゲームだと思う。
「負けたやつは罰ゲームな」と、始める前に猪狩は言った。俺は「いいよ」と言った。言ったのは、俺だ。
「罰ゲーム発表! クラスの女子に、嘘の告白!」
「やめなよ、そういうの」
七尾はすぐに言った。正しい。でも、「いいよ」を嘘にするほうが、俺にはできなかった。
嘘の告白で何よりまずいのは、相手が本気にすることだ。だから相手だけは選んだ。クラスの女子で、いや、この学校でいちばん告白が成功しない女子を。
不破玖美。法学部志望の図書委員で、通称「歩く六法」。二年の冬、クラスの男子に冗談で「結婚して」と言われて、顔色ひとつ変えずにこう返した女子だ。
「婚姻は、十八歳にならなければ、することができません。あなたは十七歳です」
言った本人は、それから三日、不破の半径五メートルに入らなかった。以来、彼女に冗談を言う男子はいない。
あいつなら一瞬で見抜く。そして即答で、正論で振ってくれる。誰も傷つかない。不破は、告白くらいで傷つくような人間じゃない。
教室を出るとき、七尾は「ほんとにやめなって」と言いながら、スマホで何か打っていた。猪狩は敬礼で送り出した。見送りというより、見物の顔だった。
即答は、合っていた。
「いや、待って。冗談だって、今言ったじゃん」
「告白が私に届いた時点では、言っていませんでした。引っこめられるのは、私が返事をする前までです」
あの即答は、逃げ道を先に閉めるためだったのか。
「ただし」
人さし指が、同じ条文の続きに移った。
「相手方がその意思表示が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする」
「今、無効って言った?」
「言いました。私が、あなたの告白は冗談だと知っていたか、知ることができたなら、無効です」
「逃げ道あるじゃん!」
「あります。法律は、公平ですので」
駅までの道でも教えるみたいな言い方だった。自分の勝ちを捨てる道を、自分で指さして。変な人だ。
「じゃあ知ることができただろ! 俺、嘘つくと耳が赤くなるんだよ。見ろ、今も赤いだろ!」
カウンターに身を乗り出して、右耳を指さす。
不破は俺の耳を見た。
一秒。二秒。三秒。
「赤いですね」
「だろ!」
「では、いまの『罰ゲームで』のほうが、嘘ということになりますが」
「は? いや逆だろ。嘘をつくと赤くなるんであって、赤いから嘘とは限らない」
「そうですね」
不破は小さくうなずいた。
「赤いからといって、嘘とは限りません。照れても赤くなる」
「あ」
「それに、告白をしている男子の耳は、だいたい赤いと思いますが」
自分で、自分の証拠を殺した。
告白したとき耳が熱かったのは、本当に嘘のせいだけだったのか。考えかけて、やめた。
「詳しいな。告白されたこと、あんの?」
「その論点も、後日」
ないんだな。
「そもそも」
六法のページが一枚めくられた。めくる必要があったのかは分からない。
「無効だと言いたいなら、あなたが証明しなければなりません。私が冗談だと知っていたか、知ることができたことを。裁判になれば、立証責任はあなたにあります」
「りっしょう、せきにん」
「証明できなければ、あなたの負けです」
自分の嘘がどれだけバレバレだったかを、自分で証明しろということだ。
受けて立つしかない。嘘の下手さなら、誰にも負けない。
「小三のとき、母さんのプリンを食べて『食べてない』って言ったら、一秒でバレた」
「それは、プリンについての嘘です。本件は、告白です」
「中一の文化祭で、お化け屋敷の受付の人に『全然怖くなかった』って言ったら——」
「お化け屋敷についての嘘です」
後ろで、誰かが「ぶふっ」と噴いた。
「証人がいる」
「証人」
「いるんだよ。今、そこに」
俺は振り返って、日本の小説の棚を指さした。
棚の陰から、来るなと言ったはずの猪狩と七尾が転がり出てきた。正確には、笑いをこらえきれない猪狩の口を七尾が両手でふさいだまま、二人まとめて転がり出てきた。静まりかえった図書室で、猪狩の押し殺した笑い声は、廊下まで聞こえていたはずだ。
「ほら! 聞こえてただろ、こいつの笑い声!」
言ってから、しまったと思った。陰で笑われていたと本人に教えたのは、俺だ。
不破が両手で耳をふさぐ。その寸前、三つ編みが揺れて、耳にかかっていた髪がずれた。
のぞいた耳が、赤かった。怒らせた。
「聞いていません」
「いまふさいでも遅いだろ! 告白の時点の話なんだろ!」
「告白の時点でも、聞いていません」
「聞こえてんじゃねえか、今!」
俺より嘘が下手なやつを、初めて見た。
「私は、善意です。過失もありません」
「いい人ぶってる場合か!」
「法律で善意は、知らない、という意味です。過失がないのは、知らなかったことに落ち度もない、という意味です」
「知らないことを、胸張って言うな!」
「証言します!」
猪狩が、なぜか右手を挙げた。宣誓のつもりか。
「宣誓は不要です。ここは図書室です」
「あ、はい」
手が、そっと下りた。
「こいつ、嘘つくと耳が赤くなるんす! ダウト十年全敗で、お化け屋敷では泣いてました!」
「それは言わなくていい!」
「では、猪狩くんに伺います」
耳から手を外して、不破は静かに言った。
「甲斐くんの耳が、嘘で赤いのか、照れで赤いのか、あなたは見分けられますか」
「え」
「告白をしている甲斐くんを、見たことは」
「……ないっす。今日、初めて見ました」
「では、見分けられませんね」
「はい」
猪狩はくるりと俺のほうを向いた。
「わりい、真。負けた」
証人が、秒で寝返った。
「七尾! お前も見てただろ!」
七尾は、先に不破の顔を見た。
不破は七尾のほうを見なかった。
「……あたしは、ノーコメントで」
「なんで!?」
味方がいない。
奥の机の一年生二人は、いつの間にかシャーペンを置いていた。傍聴席ができていた。
俺は、最後の札を出した。
「社会の授業で、やったよな。十八歳で成年ってやつ」
「やりました」
「未成年が契約するときは、親の同意がいるんだろ。俺、まだ十七だぞ」
四月一日生まれは、なぜか早生まれの側に入れられて、学年でいちばん年下になる。理由は知らない。おかげで、十八になるのも学年でいちばん最後だ。
不破の目が、ほんの少しだけ丸くなった。
「よく、覚えていましたね」
褒められた。ちょっとうれしかった。授業はちゃんと聞く派だ。寝ると先生に悪い気がする。
「民法第五条。未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない」
法定代理人。俺の場合は、親のことだ。
「親の同意のない約束は、あとから取り消すことができます」
「じゃあ」
「はい。あなたは未成年です。私は、もう十八歳になりました。成年です」
六法を閉じて、両手で胸の前に抱える。
「ですから、この告白を取り消せるのは、あなたと、あなたのご両親です。私には、できません」
一拍、置いて。
「取り消しますか?」
図書室が静かになった。猪狩も、七尾も、傍聴席の一年生二人も、こっちを見ていた。
取り消す、と言えばいい。法律の仕返しなら、もう十分受けた。不破だって、罰ゲームで始まった彼氏なんか、本当はいないほうがいいに決まっている。
それで終わる。罰ゲームも、この騒ぎも、全部なかったことになる。月曜には、ただの笑い話だ。
なのに、口が動かなかった。
不破は、まっすぐ俺を見ていた。いつもの、眠たそうな、何を考えているのか分からない顔で。
ただ、六法を抱えた指の関節が、白く浮いていた。
告白くらいで傷つく人間じゃない。そう思って、選んだ。
その指を見たら、もう、そうは思えなかった。
「……ごめん」
「それは、取り消すという意味ですか」
間がなかった。声が、少しだけ硬い。
「違う。親と、相談する」
我ながら、未成年らしい返事だった。
不破は六法を抱え直して、顔の下半分を隠した。
「賢明です」
六法の上で、目だけが少し細くなっていた。
「今、笑った?」
「笑ったかどうかは、存じません。善意です」
「自分の顔まで善意で通すな!」
「では、私からも、あなたのご両親に催告します」
「さいこく……再告白?」
「催促の、催です」
真顔で直された。
「ご両親に、この交際を認めるかどうか、答えていただきます。期間は、法律が許す最短の、一か月」
「最短で来るな!」
「答えがなければ、認めたものとみなされます。民法第二十条第二項です」
「黙ってたら、認めたことになるのかよ」
「はい。そして認められたら、この交際は、もう取り消せません」
逃げ道に、期限がついた。
「なお、催告は書面で行います」
「書面」
「口頭でも有効ですが、あとで『冗談でした』と言われかねませんので」
「根に持ってんじゃねえか!」
「明日、ご挨拶に伺います」
「明日!? 土曜だぞ!」
「土曜日ですので、ご在宅かと」
「『息子さんをください』か!」
「交際を認めていただくための、催告です」
「余計に重いんだよ!」
「期間は、早く始まったほうが、早く終わりますので」
早く終われば、そのぶん早く、取り消せなくなる。それで得をするのは、どっちだ。
聞きかけたところで、天井のスピーカーから閉室のチャイムが鳴った。
「閉室の時間です」
六法をカウンターの下にしまって、不破は立ち上がった。
「延長は、認められません」
「なあ。なんで、OKしたんだよ」
図書室の鍵を取りに行きかけた背中が、一瞬止まった。
「その論点は、後日」
今度の後日は、背中越しだった。
罰ゲームの告白は即答で受理され、十五分後には、親への挨拶の日取りが決まっていた。
図書室を出るとき、猪狩が不破にうちの住所を教えていた。敬礼つきで。証人が、二度寝返った。
帰り道、猪狩には「月曜、誰にも言うなよ」と念を押した。猪狩は「不破、なんでOKしたんだろうな」と五回くらい首をひねった。七尾は駅に着くまで一言もしゃべらなかった。二回止めてくれた相手に、かける言葉がなかった。
俺は母さんにメッセージを送った。
〔明日、同級生が家に来る。催告しに〕
返事は一分で来た。
〔さいこく? 再告白ってこと? あんた告白したの!? どんな子!?〕
大丈夫だ。逃げ道は、まだある。罰ゲームだと言えば、嘘の嫌いな母さんは、絶対に取り消してくれる。
なのに、さっきから白い指ばかり思い出す。
耳が熱い。誰にも、嘘はついていないのに。
◇
図書室の鍵を職員室に返してから、私——不破玖美は、昇降口のすのこの上でスマートフォンを出した。
午後四時十二分に届いたメッセージを、もう一度開く。カウンターで受け取って、すぐに読んだものだ。返事は、しなかった。
〔ごめん。今から甲斐が罰ゲームで玖美に告白しに行く。止められなかった。秒で振っていいから〕
送り主は、七尾いちか。中学二年からの、私のたった一人の友だち。教室では、ほとんど話さないけれど。
知ることができた、どころではない。
あの告白が届いた時点で、私は、もう知っていた。法律の言葉でいえば、悪意だ。あの告白は、本当は初めから無効だ。
このメッセージを、いちかが一度見せれば、私は負ける。いちかは、ノーコメントと言ってくれた。
九十三条に青い付箋を貼ったのは、四時十三分だった。五条と二十条にも貼った。あの人が来るまでの八分で、私は「はい」と言ってもいい理由を、六法の中で探していた。
生まれて初めての告白を、私は図書委員の当番中に、返却処理をしながら受理した。
手を止めたら、震えているのが分かってしまうと思ったから。
靴を履きかえて、つま先を、とん、と床に当てる。
あの人の耳が、嘘で赤いのか、照れで赤いのか。私には、見分けがつく。去年の秋、私の話を最後まで聞いてくれた日から、ずっと見てきたから。
今日の、あれは。
……考えるのは、やめた。
帰ったら、催告書を清書する。便箋は、いちばんいいのを使う。
あの人の告白は、心裡留保だった。
でも、私の「はい」は、心裡留保じゃない。




