誰も喧嘩を売ってこないんだけど?
月日は流れ、慶長五年。
本来であれば、この辺りで家康に喧嘩を売ったと名高い『直江状』が届く頃である。
だが――
「本日はここまで。」
「ありがとうございました。」
「明日は儒学です。」
「よろしくお願いします。」
徳川家康は今日も今日とて、秀頼へ熱心に算術を教えていた。
秀頼は乳母に連れられ、奥へと戻っていく。
その姿を見送りながら、家康は自分の詰所へ戻った。
「江戸は順調か。」
「若殿がようお治めになられております。」
本多正信が書状を差し出す。
「それは何より。」
秀忠からの近況報告だった。
「上杉は。」
「雪に埋もれております。」
「うむ……。」
「伊達もです。」
「そうか。」
家康は茶を啜る。
「宇喜多は。」
「家臣同士が揉めております。」
「そうか……。大友は。」
「復興に追われております。」
「そうか。……島津は?」
「島津です。」
以上。
「毛利は。」
正信が少しだけ嫌そうな顔をした。
「まだ跡目で悩んでおります。」
「まだか。」
「まだです。」
家康は深く溜め息を吐いた。
「誰を選んでも家が割れますので。」
「難儀よのう。」
「そのうち相談が来るやもしれませぬ。」
「来るじゃろうな。」
家康は頷く。
「小西らは?」
「奉行衆としての公儀、朝鮮への和睦交渉、ネーデルランドやイギリスなどの交易の調整……。」
「……そういえば、大谷吉継は?」
「未だ療養中です。」
「……長くないか?」
「病状が深刻なのでしょう。家内の権限は嫡男に譲っているそうですし。」
「……実質隠居では?」
「さあ?」
そして、ふと思い出した。
「三成は?」
「畑です。」
「そうか。」
「薬草畑を広げたそうです。」
「うむ。」
「福島殿が肥料を持ち込み。」
「うむ。」
「加藤殿が猪避けの柵を増築し。」
「うむ。」
「黒田殿と加藤嘉明殿が雑草を抜いております。」
沈黙。
家康は正信を見て、正信も家康を見る。
「……。」
「……。」
「百姓では?」
「百姓ですな。」
二人は同時に茶を飲んだ。
「殿。」
「何じゃ。」
「今更ながら、一つお聞きしても宜しいでしょうか。」
「何じゃ。」
「なにゆえ、石田治部の隠居をお許しになられたのですか。」
家康は少しだけ目を細めた。
「……利用しようと思えば、出来たからかの。」
「と、申されますと?」
「あやつを利用して戦を起こせば、反徳川を炙り出すことも出来た。
豊臣恩顧の牽制にもなったじゃろう。」
正信は黙って続きを待つ。
「じゃがな。」
家康は茶を口に運ぶ。
「あやつを見ておると、若い頃の儂を見ているようでな。」
「……。」
「抱え込み過ぎる。」
正信は少しだけ苦笑した。
「確かに。」
「それに。」
家康は静かに息を吐く。
「あやつが退いたおかげで、戦をせずに済んだ。」
一拍。
「儂とて、戦せずに済むのであれば、それでよい。」
正信は深く頭を下げた。
「左様にございますな。」
しばらくして、家康は帳面を閉じた。
「ところで、正信。」
「はい。」
「儂は……誠に何か見落としておらぬよな?」
「何がでしょう。」
「戦になる要素じゃ。」
正信は少し考えた。真面目に考えた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「ございませんな。」
「そうか。」
しばらくして、家康が口を開く。
「正信。」
「はい。」
「このままだと……。」
「はい。」
「儂、普通に天下取れてしまわんか?」
正信は危うく茶を吹き出しかけた。
「殿。」
「何じゃ。」
「声が大きいです。」
「おお、すまん。」
家康は咳払いをする。
「いやな。」
「はい。」
「誰も止めに来んのじゃ。」
「そうですな。」
「誰も喧嘩を売ってこん。」
「そうですな。」
「気付いたら皆、自分の領地や公儀で忙しそうにしとる。」
「そうですな。」
家康は遠い目をした。
「……平和じゃのう。」
「平和ですな。」
その頃、佐和山城は……。
「こらぁぁぁ!!またお前かぁぁぁ!!」
三成は猪を追い掛け回していた。
天下は、今日も平和だった。




