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番の婚約者が前世の主人にご執心のため全てを無に帰します  作者: 沢野みら


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 その後もハロルドは、何ひとつ変わらなかった。


 レイラに頼まれれば授業を抜け出し、彼女のために菓子を買い、荷物を持ち、呼ばれればどこへでも駆けつける。

 その度にローズマリーは低位貴族棟へ足を運び、その行動を諫めた。


 しかし、最初に嫉妬を見透かされたせいだろう。ハロルドはローズマリーの苦言を全て「可愛い嫉妬」と揶揄し、その場限りの生返事で聞き流すばかりだった。


 そんなハロルドに、最初は遠慮がちだったレイラも次第に増長し、当然のようにハロルドを呼びつけ、贈り物までねだるようになっていた。


 実家の公爵家を通じ、彼の生家である侯爵家とも連携して対策を講じた。ハロルドは家からの手紙にも、ローズマリーと同じように返事をしなかったらしい。

 侯爵は激怒し、ハロルドへの仕送りを必要最低限にまで制限した。経済的な紐を締めれば、男爵令嬢とも距離を置くだろう、と。


 しかし、意味はなかった。


 彼はあろうことか、本来なら婚約者へ費やすべき予算を削ってまでレイラを優先したのだ。

 これではどちらが婚約者か分からない。周囲から向けられる憐憫の眼差しが、ローズマリーの胸を抉る。


 それでも──番である本能は、ハロルドを求めていた。彼の姿を見れば嬉しくて、声を聞けば安心する。


 だからこそ、苦しかった。ローズマリーに、もう彼の匂いは付いていない。代わりにレイラから香ってくるのだ。


 心臓が、痛い。

 理性では彼を見限るしかないと分かっているのに、魂に刻まれた番の絆がローズマリーをハロルドへ縛り付け、その心をガリガリと削り続けていく。



 そしてついに──入学式から三ヶ月後。夏の長期休暇前の学期末終業式で、事件は起きた。



「ロージー。レイに嫌がらせしているんだってね。嫉妬に駆られて陰湿な行為に手を染めるなんて、最低だよ」


 天井の高い大講堂に、ハロルドの正義感に酔った声が響き渡る。長期休暇直前の開放感で騒がしかった生徒たちが、シンッと一瞬で静まり返った。


「レイとはそういう関係ではないと、何度言えば気が済むんだ」


 いつものようなヤレヤレという態度ではない。ハロルドは、完全にローズマリーが悪だと決めつけていた。


「ハロ、あたし……あたしぃ……」

「レイ、大丈夫だよ。ご主人様は、僕が守る。必ずね」


 ハロルドの腕の中で泣きべそをかくレイラ。

 しかし彼女が嘘をついていることなど、幼少期から他者の欺瞞や悪意に鼻の利く貴族たちから見れば一目瞭然だった。

 周囲の子女はレイラの浅ましさに、冷ややかな視線を送っている。


 ただ一人、目の曇っている婚約者を除いて。


「私は、いじめなどしておりません。そもそも校舎が違いますので普段はお姿を拝見することすらございませんし、不可能ですわ」

「君の取り巻きにやらせたんだろう」

「……我が公爵家に連なる寄子貴族に、そのような恥知らずな行為をする者は一人もおりません」

「ご主人様が嘘を言っているというのか!」


 激昂するハロルドに、扇子の奥で溜め息を殺す。周りの目も見えていないらしい。


「……ハリー。優先すべきものを、間違えないで」


 公共の場で言葉遣いを崩したローズマリーに、ハッとハロルドが目を見開く。


 優先──その言葉に全てを込めた。


 高位貴族という地位。

 婚約者という契約。

 番という絆。


 まだ、間に合う。彼は前世の縁に、少し浮かれているだけ──ずっと言い聞かせてきた言葉を、再び心の中で唱える。


 互いを見つめ、どれくらい経っただろうか。ほんの一瞬だったかもしれない。この大事な人生の分かれ道で、最初に動いたのは──彼の元主人。


「ハ、ハロォ……こわいよぉ」


 レイラが彼の腕を引っ張り、止まっていた時間が動き出した。ハロルドの瞳に戻りかけていた理性が、彼女の涙にまた曇っていく。それが嫌でも分かってしまった。


「レイ、大丈夫だから」


 ローズマリーが求めた「優先」が、全て持っていかれてしまった。その絶望に打ちひしがれるローズマリーに、ハロルドがしかめ面で溜め息をつく。


「ロージー、もう嫉妬なんてよしてくれ。最初は可愛いと思ったけれど……しつこい。結婚した後も三人で暮らすんだからさ、上手くやってよ」

「……え?」


 何を言われたのか、理解が追いつかなかった。


 ──三人、で……?


 驚きで思わず瞠目するローズマリーに、ハロルドはお決まりとなった得意げな顔を向けてくる。


「言ってなかったかな。卒業したら侯爵邸にレイを住まわせるって」

「ハロォ、でもあたしぃ……こわいの」

「大丈夫。レイは僕の部屋で、昔みたいに頭を撫でてくれているだけでいいんだから」

「ホントぉ?」

「もちろんだよ」


 腕を絡ませ二人の世界を作る彼らに、ローズマリーは手が震えるのを止められなかった。周りの子女にも、ざわりと動揺が広がる。


 当然だ。真意がどうであれ、ハロルドは「公爵令嬢を正妻に迎えながらも、自室で別の女を囲う」と公言した。

 侯爵家嫡男として、決して許されない失態だ。


 しかし、そんなことよりもローズマリーの心を砕いたのは──結婚後も彼がレイラを優先する、という明言。

 自分は番でありながら、いつまでも後回し。


 そんな未来……耐えられない。

 

「……貴方の考えは、理解しました」


 不思議と声は震えなかった。

 もう、駄目なのだという悟りと──もう苦しまなくてもいいのだという、安堵。


 少しだけ、涙が滲んだ。

 しかしハロルドは、そんなローズマリーとは反対に、パッと顔を明るくする。


「やっと分かってくれたか!?」


 ──ああ……。


 こういう貴族らしくない、すぐに顔に出てしまうところも、好きだった。


 番として見つけてくれたことも。

 屋敷に通ってくれた日々も。

 全部、幸せだった。


 しかし、もう──すべて無に帰す道しかない。


「……それでは失礼いたします」


 相変わらず二人の世界を作る彼らから目を離し、周りを見渡した。そしてローズマリーは、目を伏せる。

 言葉にせずとも全てを察し、小さく目礼を返してくる周囲の生徒たち。これだけで意思が通じるのが、貴族というものだ。ハロルドは、それすら見えていないだろう。


 ありえない未来を馳せるハロルドとレイラを見ることなく、ローズマリーは大講堂を後にした。


 そのまま馬車に乗り込むと、張り詰めていた糸が切れ、どっと悲しさが押し寄せてくる。ポタポタと絶え間なく涙が流れても、胸の痛みは消えてくれなかった。


 タウンハウスに戻れば、普段は領地や戦地にいる家族が集まっているはず。

 ハロルドに与えられた猶予は、学期末までだった。ローズマリーの番だったこその猶予。本来ならすぐに切り捨てられるはずだった彼の末路。


 ハロルドは分かっていなかったのだろう。二人が婚約できたのは、単に番だったからではない。お互いの爵位が近く、添い遂げられる条件が揃っていたからだ。

 もし仮にその身分差が大きかったなら、婚約を結ぶこともなく、隣国へと赴くのが定めだった。


 隣国のハルヴオス竜人王国には──番の絆を断つ薬が存在するのだから。


 

 タウンハウスへ戻ったローズマリーを、家族は慰めるように取り囲んだ。侍女が早馬を飛ばして事情を伝えていたらしい。


 婚約を破棄することは、もう決定事項だった。入学式の時から怒りを抑えていた家族は、きっとハロルドを許さないだろう。そのことに、番として胸が痛む。しかし貴族として、受け入れるしかない。


 すぐにでもハルヴオス竜人王国に向かうというローズマリーを、誰も止めなかった。番の絆を断つ薬は、入学式の日から用意を頼んでいたと聞いている。

 そのことに、今は感謝の気持ちが大きかった。ローズマリーの心は、この四ヶ月でボロボロになっている。



 荷造りを終えて隣国へ旅立っても、ローズマリーの心は沈んだままだった。どうしてもハロルドのことを想ってしまう。そして蔑ろにされた過去を思い出しては涙を流す日々。


 そのせいでハルヴオス竜人王国の教会へ辿り着いた頃には、すっかり痩せ細ってしまっていた。

 そんなローズマリーの姿を見て、乗り越えられないと踏んだのか、薬を渡してくれた神官は「飲んでも途中で止められる」と告げた──のだが。


 ローズマリーは激痛よりも、ハロルドとの絆を断つ道を選んだのだった。

 走馬灯のように彼との思い出が記憶の濁流に呑まれていく。


 身体の痛みよりも、心の痛みが消えていくことに──涙が零れた。



 ◇



 薬を飲むと、五日ほど高熱と痛みを受け続ける。魂を作り変えるようなものだから、相当の負荷だ。


 ローズマリーも痛みで意識を失っては、また痛みで目覚めることを繰り返した。その時、何故か神官が自分の手を握っていることには気付いていた。しかし、口も身体も動かせず、なすがままにされるしかない。

 時折、繋がれた手から微かな熱が流れ込んでくる。その瞬間だけ、痛みがほんの少し遠のいた。


 夢か現か分からない意識の中で、神官の声を聞いた気もする。しかし内容を理解する前に、また灼けるような熱と痛みがローズマリーを呑み込んでいった。



 少しずつ痛みが治まってきて、ようやく神官を問えるくらいになったのは、地獄の五日を乗り越えた後だった。

 手を繋ぎながら、器用に書物を読んでいる彼に口を開く。


「そ、れは……な、に、を……して、らっしゃる、の?」


 久しぶりに出した声はしわがれていたが、神官の耳には届いたようだ。少し目を見開いた彼が居住まいを正す。なんだか素の彼を覗き見たような気がして、少し口角が上がった。


 そんなローズマリーに相変わらず興味深げな視線を向けてくる神官の手からは、微量の光が発せられている。繋がれたローズマリーの手も、少し光を帯びていた。


「お目覚めになられて何よりです。これは……私は少し〝神力〟を使えるのですよ。痛みがマシになるので、無断で触れていることには目を瞑ってください」


 肩を竦める神官に、手が震えた。ハルヴオス竜人王国で〝神力〟を使えるのは──王族のみ。そしてその力は、簡単に使われるものではない。

 

「っ……ご、ぶれい、を……」

「おや、さすがは公爵令嬢ですね。博識でいらっしゃる。ですが、まだ少し危ういので、このままでいてくださいね」


 愉しげに細められた瞳が、琥珀に輝いていた。その光がローズマリーの心を、少し強引に惹きつける。

 番の絆とも違う感覚に、警戒心が生まれた。貴族としての、勘のようなもの。


「は、なし、て……くだ、さ……」

「ほう……貴女は、やはり聡いお方だ」


 手を引っ張っても外せない。逆に強く握り込まれてしまった。


「貴女は、この世にもう未練などないと思っているでしょう」


 妖しく輝く瞳を見つめながら、ローズマリーは息を呑む。

 あの苦しみの中で彼を神と見間違ったのは、正しかったのだろうか。

 思考を見透かされている──神と言われても信じられるほど神々しい美貌が、今は恐ろしかった。


「竜王の血族が使う〝神力〟には、少し魅了も含まれていましてね。だから貴女に未練を生ませるのにうってつけ、というわけです」


 何とも罰当たりな策略を、彼は至極まっとうな優しさのように言ってのけた。


「この魅了は一時的なものですので、ご安心を。今はまだ、もう少し休まれてください」


 彼の手から流れる温かな力が、痛みから解放されても蓄積している疲労を癒してくる。しかし同時に、睡魔を呼び寄せてきた。

 彼は神の遣いのように、安らぎを与えてくる。


 ──死神だったら良かったのに。


 このまま冷たい空の上へ連れ去ってくれたなら、どれほど良かっただろう。

 しかし、繋がれた手から絶え間なく流れ込んでくるのは、抗えない生への渇望。


 強引に、けれどこの上なく優しく命を繋ぎ止められ、ローズマリーは諦めたようにそっと瞼を閉じる。

 せめて夢のない眠りであることを願いながら、意識は再び深い闇へと沈んでいった。




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