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正直「もう死んでしまってもいい」とさえ思っていた。
「っ……あ、っああ……っ!」
喉が焼ける。
心臓を爪で抉られるような痛みが、ローズマリーの全身を駆け巡っていた。
「まだ間に合います。中断なさいますか?」
静かな声で問いかけてくる人物へ、床に倒れていながらも目を向ける。
教会のステンドグラスから差し込む光が白い装束の神官を照らし、さながら神のようにローズマリーを見下ろしていた。
番の絆を断つ薬──それは愛を切り離す薬ではない。魂に刻まれた本能を、無理矢理剥がす劇薬だ。
それを求めるほど、ローズマリーは追い詰められていた。愛した番との繋がりを断ち切ることを、自ら望むほどに。
もし中断を選べば、この激痛から解放される。しかし……また、あの日常に戻る。
脳裏に浮かぶのは、自分ではない女性に侍る──番の姿。
「い、や……いやよ……」
神官が意外そうに片眉を上げた。小娘が痛みに耐えられるはずなどないと、高を括っていたのだろう。
だから――ローズマリーはわざと笑ってみせた。
「あの人の、番でいる方が……ずっと、痛いもの……」
神官の息を呑む気配がした。
それを最後に、ローズマリーの意識は深い闇へと沈んでいく。
脳裏に浮かんだのは──まだ婚約して間もない頃の、番の笑顔。それが痛みの中へと消えていった。
◇
犬獣人同士のローズマリーとハロルドが番だと判明したのは、十歳の時。茶会デビューとして集められた王宮の中庭だった。
しゃがんで花を眺めていたローズマリーに、ハロルドが駆け寄ってきたのだ。そしてそのままローズマリーの肩へ、額を擦り寄せた。
獣人における番とは、本能で惹かれ合う魂の半身。だからハロルドと目が合った時、ローズマリーも彼が特別な存在であることを悟った。
その場にいた大人達は騒然となったが、それはすぐに祝福へと変わっていく。
ローズマリーはコンラッド公爵家の次女で、ハロルドはエリントン侯爵家の長男。家格として申し分なかったからだ。
両家はその日のうちに婚約を取り決めた。
それからの五年間、二人は誰もが認める仲睦まじい婚約者だった。
ハロルドは頻繁に公爵家を訪れては、ローズマリーを散歩へ連れ出した。庭園で菓子を食べ、公爵家の図書室で同じ本を読む。
ローズマリーの前ではいつも嬉しそうに、尻尾を振りながら蕩けた瞳を向けていた。
「ロージー、今日も可愛いね。早く僕の妻になってほしいな」
ハロルドはいつも愛の言葉を忘れない。そしてローズマリーの髪に鼻先を寄せ、自身の匂いを甘く移してくる。
ローズマリーもまた、彼の愛に応えるように微笑んで、番になれた幸福を噛み締めていた。
王都で「理想の番」として有名だった二人。だからローズマリーだけでなく、誰もが疑わなかった──十五歳で王立学園へ入学したあとも、この幸せは変わらず続いていくのだと。
異変は入学式へ向かう校庭で起こった。
「……! ごっ、ご主人様!?」
隣を歩いていたハロルドが、急に知らない令嬢に駆け寄り、抱き締めたのだ。
誰もが異様な光景に足を止める。ローズマリーも何が起こったのか分からず、ハロルドを止めることも出来なかった。
「まさか今世で再会できるなんて……夢のようです」
周囲と同じく固まってしまっている黒髪の令嬢に、ハロルドは跪いた。そしてあろうことか、この国における最高位の〝忠誠の誓い〟を、彼女に捧げてしまったのだ。
それは本来、十六歳で成人した男性が王国へ捧げるべき、未来の伴侶へ向けるよりも重い忠誠である。
それを、一個人へ捧げるなど前代未聞だった。ましてハロルドは、王国を支える高位貴族の長子。
当然、入学式どころではない騒ぎになった。
遅れて駆けつけた双方の親も交えて別室でハロルドに話を聞いたところ、黒髪の令嬢は前世で犬の自分を飼ってくれていた人だという。
「前世の僕はご主人様に命を救われて、最期まで愛してもらった。恩返しをしたいんだ。分かってくれ!」
必死に訴えるハロルドに、ローズマリーは言葉を失った。
輪廻転生の存在自体は、この世界では珍しくない。
番という魂の繋がりが存在する以上、前世の記憶を持つ者も一定数いた。番と出会ったことで思い出す者もいれば、生まれながらに記憶を持つ者もいる。
しかし、それとこれとは話が違う。
ユラシリス獣人王国は、犬の獣人が貴族として王を支え、その圧倒的な忠誠心によって国防を成り立たせている国家だ。犬獣人の特性である忠誠の強さを、模範となる貴族が国以外に向けることは許されない。
そんな当たり前のことを忘れたハロルドだけが事の重大さに気付いていない──その事実に、ローズマリーは激しい頭痛を覚えた。
彼の父である侯爵がこんこんと言い聞かせ、〝忠誠の誓い〟は取り消すことができた。しかし、ハロルド自身は事の本質を全く理解していない。
ハロルドの浅慮なところも、ローズマリーは可愛いと思っていた。しかし、この学園において、それが悪く作用するかも知れない──そんなローズマリーの嫌な予感は、的中することになった。
王立学園は全寮制で、男女で校舎が分かれている。さらに高位貴族と低位貴族でも学ぶ内容が異なるため、校舎そのものが別棟だった。
加えて、低位貴族を萎縮させないため、高位貴族は彼らの校舎へ頻繁に立ち入るべきではないという、暗黙の了解まで存在する。
入学前、ハロルドは嬉しそうに「ロージーに毎日でも会いに行くよ」と言ってくれていた。
しかし──彼がローズマリーを訪れることは、一度たりともなかった。
彼が足繁く通っていたのは、低位貴族棟の前世の主人である、男爵令嬢のレイラの元だったから。
男女の隔たりも、身分差も、学園の暗黙の了解すらも無視して、ハロルドはレイラの元へ通い続けた。
当然、その苦情は婚約者であり、この学園で最も高位の爵位を持つローズマリーの元へ届けられる。
寄子貴族家の令嬢に連れられて入った低位貴族棟で見たのは、ハロルドとレイラが傍若無人に振る舞う姿だった。
入学してから一ヶ月の間、ただの一度も私に会いに来ず、手紙の返事すら寄こさなかった婚約者。
寂しさと嫉妬でどうにかなりそうだった胸の奥で、久しぶりに見る番の姿に、獣の本能だけが惨めにも歓喜の声を上げる。
しかし、そんな様子を微塵も出すわけにはいかない。公爵令嬢としての矜持を胸に、ローズマリーは静かに扇子を広げた。
「ハリー、こちらの校舎には立ち入ってはいけません」
「……あれ? ロージー、どうしてここに!」
ハロルドは驚いたように、けれど嬉しそうな顔で見上げてきた。その様子に、一瞬だけホッと安堵を覚える。
しかし、彼らが広げているものを見て、その安堵はすぐに凍りついた。
ハロルドが用意させたであろう、高位貴族向けの豪華な食事が机に並んでいる。低位貴族の校舎でこんなものを見せびらかせば、反感を買うに決まっている。
その失態を指摘しようとした、その時──ハロルドの腕に、男爵令嬢のレイラがぎゅっと抱きついた。
「ハロ、この人だれ? 睨んできて、怖いわ……」
「ご主人──いや、レイ。大丈夫だよ、彼女は僕の婚約者だから」
二人の会話に、ガンッと頭を殴られたかのような衝撃が襲った。あまりにも仲睦まじげな姿に、周りから気まずげな視線が集まる。これが常時の二人であるならば、ハロルドの失態はかなりのものだ。
「……ハリー。婚約者ではない者を、愛称を呼んでは、いけません」
言葉が一瞬、つっかえてしまった。本心では「他の女の愛称なんて呼ばないで!」と叫びたい。そんなドロドロとした嫉妬心に、無理矢理蓋をしている。
しかしハロルドはこちらの気持ちなど気にした様子もなく、ローズマリーの大好きな笑みを浮かべた。
「いや、前世でご主人様には『タロ』って呼んでもらってたんだ。名前が前世と似てることも、運命みたいだろ?」
生き生きとした顔で語るハロルドは、目の前の婚約者がどれほど深く傷ついているか、微塵も気づいていない。
「それにご主人様が『レイって呼んでほしい』って言うんだ。呼ばないわけにはいかないしさ」
ローズマリーが大好きだった、屈託ない笑顔。彼が今それを向けているのはローズマリーではない。彼の腕にくっ付いている、優越感を滲ませた元「ご主人様」だ。
前世の犬としての習性なのか、ハロルドの背後で嬉しそうに振られる尻尾に、ローズマリーは吐き気すら覚えた。
それが自分に向けられていた日々。もしかしてあれはローズマリーだからではなく、ただの犬としての習慣だったのか──ドロドロとした暗い感情が、公爵令嬢としての理性の檻を突き破りそうになる。
強く握りしめた扇子の骨が、ミシリと悲鳴を上げた。ローズマリーの沈黙と視線に、周囲の低位貴族たちは完全に萎縮し、部屋の空気は凍りついている。
しかし、そんな張り詰めた空気を破ったのは、やはりハロルドの緊張感のない声だった。
「……もしかしてロージー、嫉妬してる?」
どこか嬉しそうな声だった。
すぐに高位貴族の立場を説かなくてはいけないのに、声が出ない。半分、当たっていたから。
そんなローズマリーの動揺を、ハロルドは図星だと受け取ったのだろう。彼の笑みがさらに深まった。
「ロージー、勘違いしないで。レイにやましい感情なんてないよ。前も言ったけれど、ただ恩返しをしたいんだ。食事だって、栄養があるものを食べた方がいいに決まってる」
「……そういう問題ではありません。ハリー個人の感情ではなく、高位貴族として規律を乱していることを自覚してください」
これ以上心を掻き乱されたくなくて、ローズマリーは極力理性的な声を絞り出した。しかし、ハロルドはそんな彼女の必死の警告を、くすくすと楽しげに笑い飛ばす。
「はいはい。分かったよ、ロージー。君の顔を立てるのも僕の役目だ。次からは気をつけるよ」
あまりにも軽い言葉だった。本当に理解しているのか、不安は残る。しかし、これ以上ここで言い募るわけにもいかない。
溜まりに溜まった手紙の催促をしたかったが、今それを口にすれば、またハロルドに嫉妬と捉えられかねなかった。
ローズマリーは唇を結び、そのまま彼らの前から立ち去ことにした──その刹那。
レイラがハロルドの見えない角度で、こちらを睨んでいたことに気付く。
彼女はドイル男爵が海外への買い付け先で出会った、後妻の連れ子。つい最近まで、人の住まう島国で平民として暮らしていたという。
貴族社会の恐ろしさを分かっていない娘。そんな娘を「前世のご主人様」というだけで甘やかす婚約者。
ハロルドは分かっているのだろうか──貴族としての在り方が、獣人としての本能よりも優先されることがあるということを。
筆が進まないので、尻叩きに連載で投稿を始めました。完結できるように頑張ります。




