10話 グリモワール
殿下が鞄から取り出した分厚い本は、焦げ茶色の表紙に、銀色の印字がされていた。
文字は、何も読めなかった。
「これが魔族語、ですか?」
私は思わず聞いてしまった。
殿下が持ってきたものが魔術書だと知っていたから聞けたものの、初見であればまず間違いなく「何語ですか」と聞いてしまっていただろう。
近隣の国は同じ基本文字を使う。綴りや発音に多少の違いがあるものの、なんとなく意味が通じてしまう言葉が多い。
大陸内の離れた国はまったく別の文字を使うけれど、基本文字くらいは読めるように学園で習う。
コメートラントでは魔術書を始め、魔族に関する本は全て輸入が禁じられているため、一般の国民は魔族語など見たことがないのだ。
ちなみに、所持を希望する場合は国への申請と厳しい審査が必要で、それを怠ると今回のカイ卿のように捕まってしまう。
「そうだ。カイ卿はこれが読めると主張していて。それが本当か、君の意見を聞きたい」
殿下の言葉に私は静かに頷いた。
本に視線を向け、ゆっくりと呼吸をする。
本は沈黙を守っていた。
そして、間違いなくアーチファクトであった。
私は"鼓動"や"呼吸"のようなものをアーチファクトから感じ取ることができる。それが普通の物とアーチファクトを見分ける要点なのだ。
この本は静かに、そして、隠れるように呼吸している。
私は殿下から本を受け取り、表紙を撫でた。
まずは、念話で声をかけてみることにした。
『こんにちは、グリモワールさん。聞こえますか』
すると、ピクリと本が動いた気がした。
本当に動いているわけではなく、感覚として伝わってくるのだ。
『これは驚きました。もしや、お嬢さんには私の聲が聞こえるのですか?』
それは、透明感のある綺麗な聲だった。若い女性のものに聞こえる。
『はい。私はリリー・シュベルトと申します。少しお話したいのですが、よろしいでしょうか』
『喜んで、礼儀正しいリリーさん。私はアイシャです』
アイシャさんのほうが礼儀正しいなと思った。
念話ではなく普通に話しかけることや、目の前の男性に内容を伝える許可を得て、私は改めて声を発した。
「アイシャさん、よろしくお願いします。さっそくなのですが、貴女はグリモワールで間違いないですか」
『ええ。それは彼から聞いたのかしら?彼、一生懸命翻訳してたものね。私は、氷の中級魔術書ですわ』
彼女が氷の魔術書だということを伝えると、殿下は目を見開き、事実だったのかと呟いた。
「やはり、カイ卿は魔族語が読めるのですね」
私がアイシャさんに尋ねると、うーんと少し考える素振りがあった。
『あれが読めるというレベルかは些か疑問ではあるけれども。残念ながら、彼は注釈などは読めても、肝心な呪文については何もわからないようですわ』
「どういうことですか?」
『呪文は魔族古語で構成されています。魔法が使えなくなった今、古語を操れる人間は稀有な存在でしょう。それでも、最期に彼のような真面目で善良な青年の手にとって貰えて幸せでしたわ』
「最期だなんて」
私は言葉に詰まってしまった。
『この国に、私は存在していてはいけないのでしょう?だから彼は捕まってしまった。本当に申し訳ないと思っているわ』
アイシャさんによると、カイ卿とはノルデンベルギシアの古本市で出会ったそうだ。彼はコメートラントで捕まる危険を承知でアイシャさんを持ち帰ったのだという。熱心に読み取ろうとする彼を、彼女は陰ながら応援し続けていたらしい。
「アイシャさん。貴女は彼と一緒に居たいのですね?」
『そうね、それが叶うなら素敵だわ』
「わかりました。私から掛け合ってみます」
『本当に?リリーさんに迷惑はかからないかしら?さっきから目の前の彼からすごい目線を感じるのだけれど』
確かに、殿下の目線は私とアイシャさんを行ったり来たりし、なかなかに険しい顔をしていた。
「彼は、コメートラント王国第三王子、ジャン・シュテルニア殿下です」
『あら、王子様でしたの』
気品があると思ったのよね、とアイシャさんは付け加えたのだった。
「最後に、確認があります。もしもカイ卿が貴女の内容を完全に解読できたとして、彼は魔法を使えるようになるのでしょうか?」
カイ卿の罪を軽くしたり、アイシャさんが処分されるのを防げるかもしれないと考えた末の質問だった。
『それは無理ね、理由は2つあるわ。一つは貴女も知っての通り、この世界自体に魔素がなくなってしまったこと。そしてもう一つは、そもそも彼に魔力を操る素質がないことよ。彼には魔族の血が流れているけれど、薄すぎて魔法を操れるほどの力はないわ。だから彼が魔法を使える可能性は完全にない。貴女なら、後者の条件を満たせるけれども』
「どういうことですか?」
背中にじわりと汗が滲む。まさか自分に飛び火するとは思ってもいなかった。
『言葉のままよ。貴女、魔力を持ってるわ。私と会話できるということ、そして、魔素がないにも関わらず私が感じ取れるということは、そこそこの力の持ち主のはずね。世界に魔素が戻って、リリーさんが古語を操れるようになれば、という前提の元での話だけれどね』
「そう、なのですね」
そうかもしれないとは思っていた。
この異能が魔力によるものなのではないかと。
でも、心のどこかで認めようとしなかった。
認めてしまえば、自分のルーツに目を向けなければならない気がして。生みの両親についての記憶を思い出さなければいけない気がして。
アイシャさんは私の気持ちを察したのか、ごめんなさいと言葉をかけてきた。
『余計な言葉だったかしら』
「いいえ。まさかそうだとは思ってもいなかったので」
『ごめんなさいね』
私達は会話を終えた。
緊張がとけたからか、不意に疲労感が襲い、視界が霞んだ。
大丈夫か、という殿下の声で正気を取り戻した。
一息ついたところで殿下が少しソワソワしながら聞いてきた。
「グリモワールは、なんと?」
「彼女は氷の中級魔術書です。彼女いわく、カイ卿がこの本を完全に読破したところで魔法が使いこなせるようになるわけではないようです」
「そうか」
「彼女は彼と共に居たいそうです。彼は真面目で善良な青年だと」
「なるほど。それを鵜呑みにするわけにはいかないが、そうか。わかった」
本来であれば、最後の部分の話をしなければならない。けれど、殿下に伝える勇気は出なかった。
幸いにも彼は何も気づかなかったようで、腕を組んだまま、険しい顔をしていた。
「カイ卿はどうなるのですか?」
私の言葉に、殿下は意を決したように言葉を紡いだ。
「幽閉される。表向きにはな」
ふぅと安堵のため息をついた。
最初の言葉にはドキッとしてしまったけれども。
「私と同じような存在になるということでしょうか」
「そうだ。彼は幽閉するにはもったいない存在で。彼の話が信じられるならば、こちらに引き入れようと思っていたんだ。彼には違う身分でこのまま魔術書関係の研究を続けてもらうことにする。もしかしたら君と仕事をする日が来るかもしれない」
殿下は先日のような悪い笑みを浮かべた。
不覚にも少し素敵だと思ってしまった。
殿下相手に失礼なことこの上ない。私なんかが憧れてはいけない。
「では、アイシャさんも燃やされずに済むのですね」
私の問いに殿下は頷いた。思わず笑みが溢れてしまう。
『ありがとう、リリーさん。私はまだ彼と居られるのね』
アイシャさんの嬉しそうな聲が聞こえた。『よかったですね』と念話で返した。
「また合図を出す。それまではのんびりと過してくれ、ノア」
「はい、殿下」
こうして、私の初任務は無事に終わった。
◇◆◇
『もぅ、リリーったら!殿下と二人きりの密室で密会だなんて!』
帰宅早々、シルビアのテンションが高い。
私の部屋にいる三人には諜報員になったことを話してあり、皆この任務の感想を心待ちにしていたらしい。
ちなみにお祖父様に対してもバレてはいけないので、三人には箝口令を敷いてある。
『僕も行きたかったなー。留守番だなんて酷いよー。ジャンと二人きりになりたいからってさー』
ドーちゃんはかなり不貞腐れている。私が出かけるときは殆ど一緒なので尚更らしい。けれど譲れないものは譲れない。
私はあまり大声にならないように言葉を返していく。まぁ、防音にはそこそこ優れた部屋なので、普通に話しているくらいでは外から聞かれることはないのだけれども。
「そんな理由じゃないから。って、殿下を呼び捨てしないで。次は連れて行くから、ね?」
『約束だからね!今日のごはん、豪華にしてくれるなら許す』
随分上からだったけれど、そこは飲むことにした。ステーキを描いてあげるからと言ったらすぐに機嫌を直してくれた。
『ねぇ、ワタクシも連れて行って?』
ミアが猫なで聲で話しかけてきた。可愛いからついつい許可したくなってしまう。しかし、私は首を横に振った。
「だめよ。割れ物なんだもの、何かあってはクルトさんに申し訳がないわ」
『リリーのケチ!明日は雨にしてやる』
「本当に雨降っちゃうから止めて」
ミアが本気を出すと雨が降る。ただし、その日一日は眠り続けてしまうという代償付き。今思えば天候を操れるなど、なかなか強力なマギファクトである。
ちなみに、一人暮らしになってもこの三人は一緒に来る予定である。
独りじゃないのがありがたいなと感じた今日この頃だった。




