9話 デルフィニウムの下には
ロザンナ暦1550年6月2日、火の曜日、午前9時40 分。
私は王国立図書館から徒歩5分ほどのところにある噴水広場に来ていた。噴水広場には噴水が3箇所あり、そのうちの一番小さいものの前が今回の待ち合わせ場所である。
今日は殿下から直々に今後の任務の説明を受けた後、グリモワールを見せてもらう予定であり、近侍のヘルマンさんが10時に迎えに来てくれる手筈となっている。
ドーちゃんは連れてこなかった。
初任務くらい一人でこなしてみたかった。
殿下とのやり取りを邪魔されたくないというのが本音ではない。決して。
私の心臓は刻一刻と仕事量を増やしている気がする。
正直、昨夜はほとんど眠れなかった。
初めての任務に対する緊張、殿下の期待に沿えるかというプレッシャー、これからどうなってしまうのだろうという漠然とした不安が頭の中をぐるぐると巡る。
今日の私は新調した控えめな眼鏡をかけ、髪型はおさげではなくハーフアップにしているので、知り合いでも一目では気づかないだろう。
ヘルマンさんはどうだろうか。
そんなことを思っていると、向こうから茶髪の青年が歩いてきた。ヘルマンさんである。
「シュベルタイン嬢、お待たせいたしました。まさか、こんなに早いとは」
「こんにちは。失礼があってはいけないと気合い入れすぎてしまいました。よろしくお願いいたします」
私達は挨拶を交わした。よかった、普通に気がついてくれたようだ。
ヘルマンさんは焦げ茶の短髪に同じ色の瞳をした口数の少ない印象の人。見た目にも性格にも勝手に親近感を覚えている。
広場の裏に、小さな馬車が止まっていた。見た目はただの乗り合いのものに見えるが、正体は王室のお忍び用である。
私達が向かっているのは、小市場からさらに奥にあるという、諜報機関が所有する店。途中からは馬車を降りて徒歩での移動になった。
入り組んだ道を何度も曲がってたどり着いたのは、小料理屋であった。民家を改装したような、本当にどこにでもありそうな庶民の店という感じである。店名は『デルフィニウム』であり、店前の鉢植えには象徴するかのように青紫の華やかな花が咲いている。
ヘルマンさんがドアを開けると、チリチリンと小気味いい鈴の音が聞こえた。
「リリー様、お待ちしておりました。店主のマリアです」
丁寧に挨拶をくれたのは、笑顔が素敵なふくよかなマダム。私も挨拶を返した。
マリアさんの案内で、店の奥、従業員用と思われる扉まで通された。
「では、ごゆっくりどうぞ。殿下が"下"でお待ちです」
「下?」
マリアさんが差し出したランタンを受け取りながら、思わず聞き返してしまった。
マリアさんはニッコリと笑みを浮かべ、扉を開けた。
そこには、地下に通じる石造りの階段があった。壁にかけられた燭台の灯りに薄っすらと照らされた階段はなだらかな螺旋状になっており、どこまでつづいているかよくわからない。
その造りは店のものとは明らかに違い、重厚なものだった。シェルターとか、そういう類に近い。
ヘルマンさんの後に続き、階段を降りていく。おそらく2階分ほど下ったところで開けた場所についた。思っていたよりも廊下は長く、明らかに店の敷地より広い。軽く5倍はありそうである。私達は階段より少しだけ明るい廊下を歩いていく。
ヘルマンさんはいくつかある扉のうち、右奥から二番目をノックした。
廊下とさほど変わらない暗さの部屋に、ジャン殿下がいた。白シャツに黒いトラウザーズというシンプルな服装なのに、気品が溢れている。
今日も恐ろしく素敵である。
部屋にはテーブルと椅子と小さな本棚くらいしかない。窓がないことが、さらに閉塞感を醸し出している。
「ミス・シュベルト。ようこそ、わが秘密基地へ」
「よろしくお願いいたします」
私は促されるまま殿下の向かいの席に座った。
ヘルマンさんはお茶でも用意しましょうと言って部屋を出ていってしまった。
殿下と二人きりなのは落ち着かない。
緊張からか軽い頭痛がする。
そんな私の様子を知ってか知らずか、殿下はゆっくりと話し始めた。
最初は私の所属についてだった。
私は諜報機関の中でも"青藍"という部隊に所属するようで、この基地はこの部隊専用なのだという。青藍は偵察や調査を得意とする部隊であり、メンバーは私を入れて10名ほどらしい。基本的には同じ部隊内でパートナーを組み、二人で任務をこなすことになるそうだ。任務の種類によってはペアを組み替えることもあるらしい。
「君のパートナーは決まっているんだが、別件で地方に出てしまっていてね。戻ってきたらすぐに紹介しよう」
「わかりました」
パートナーがどんな人になるのか、それが不安だった。顔に出ていたのか、殿下はあぁ、と付け加えた。
「君のパートナーには能力の話をしてもいい。その方が任務しやすいだろう」
「でも、その、気持ち悪いと思うんです」
傍から見れば、物に話しかけているイタイ女なのだ。気持ち悪いことこの上ないだろう。
「大丈夫、彼女は細かいことは気にしないやつだ」
それは気にしなさすぎだろう、と思わず突っ込んでしまうところだった。
ひとまずパートナーが同性だということで少し安心できた。
次に、私の秘匿名のことだった。
もちろん諜報活動にリリー・シュベルトの名をそのまま使うわけにはいかない。
諜報員は固有のコードネームを持ち、それ以外に任務の必要に応じて偽名や身分を与えられるのだという。
諜報員同士はコードネームだけを伝え合う約束になっているそうだ。
「では、私の情報は知られないということですね」
「その通りだ。素性を探り合うのはご法度としている。そして、君の名は」
殿下は柔らかい表情で、大切そうに言葉を紡いだ。
「ノア、なんてどうだろう」
優しい響きの、中性的な名前。殿下から直接もらったからか一瞬で気に入ってしまった。
「ノア」
私は嬉しくなってその名を呟いた。
殿下も少し表情を和らげた。
「気に入ってもらえたなら嬉しい。落ち着いたイメージが君に合うと思って」
「ありがとうございます」
これから殿下からノアと呼んでもらえることが嬉しくて仕方がなかった。
次は、任務の依頼方法についてだった。
「これを君に」
もらったのは、ステンドグラス調の蝶のブローチだった。ランタンの灯に照らされて様々な色にキラキラと輝いている。
「特殊な通信機となっている。ルトゥーナ内であれば反応するようにできていて、真ん中の胴体部が青く光ったら召集の合図だ。残念ながら電話のような機能はまだついていない」
電話とはつい最近開発された機械である。音声で離れた相手と通信できるという画期的なものだけれど、一般の貴族が使えるほどのものではないし、こんなに小型化できるとは思えないものである。
しかし、"まだ"という言葉がついているということは開発が進んでいるらしい。
文明の発展はすごいなぁと呑気に考えてしまった瞬間だった。
最後は、自分の住居についてだった。殿下は申し訳無さそうに目を伏せた。
「君には、家を出てほしい」
そう言われ、そのつもりでしたと答えた。
もともと、働き始める前に国立施設勤務者用の独身女性寮に入るつもりであったのだ。
それを伝えると、殿下は目を大きく見開いた。
「一人暮らしを考えていたなんて。女性寮があるとはいえ」
女性寮は近年できたばかりで、利用者はさほどいないらしい。それはこの国には未婚女性が一人で暮らすという考えがなかったことに等しい。
「家族は心配しているんですけどね。でも私、ずっと自立したかったんです。シュベルト家の負担も減るでしょうし」
家族は大好きだけれど、いつまでも頼り続けるわけにはいかなかった。
自分の都合で嫁ぐのを辞めたのだから、衣食住は自分でどうにかしなくちゃいけない。
これは私のプライドの問題だった。
「わかった。女性寮のセキュリティは万全にしておこう」
「ありがとうございます」
そして、今日の任務についての話になった。
殿下は鞄から一冊の古い本を取り出した。




