第二話 いつもの帰り道
前回、初めて入った喫茶店「 」。春菜は、また立ち寄ってみようと足をとめる。
駅へ向かう、いつもの帰り道。
商店街を歩いていると、惣菜屋さんから揚げ物の匂いが漂ってきた。夕飯のおかずを買いに来た人たちが店先に並び、学校帰りの学生たちが、その脇を賑やかに通り過ぎていく。
見慣れた景色。聞き慣れた声。いつもと変わらない学校からの帰り道。けれど、春菜にはひとつだけ、以前とは違うことがあった。
商店街の途中にある、あの喫茶店が帰り道のひとつに。
「 」と書かれただけの不思議な看板。初めて来た時は、少し緊張しながらブラックコーヒーを頼んだ。大人っぽく振る舞いたかったのかも。結局、そのコーヒーは思っていた以上に苦かった。でも、店主との何気ない会話は、楽しかった。
悩みが無くなったわけじゃないけど。卒業式が近付くにつれて、そのあとに広がる希望が増える一方、考えなければならない事も増えてくる。だからかどうか分からないけど、気が付くと春菜は、その店の前で足を止めていた。
今日も店が開いている事は、朝通った時にチェック済。少し迷ってから、春菜は扉に手をかけた。控えめにドアベルの音が、店内に響いた。
カラン・コロン
冷たい空気と別れた春菜を、コーヒーの香りと暖房のほどよい暖かさが迎えてくれた。
カウンター端の席には、見覚えのある年配の男性が座っていた。新聞を広げたまま、顔だけを上げて店主に何か用があるのか軽く手を挙げていた。
入口で春菜は少し照れ気味に、
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
店主はいつもの調子で応じると、こちらに目を向けた。
「今日は何にされますか?」
春菜はレジの前で、少しだけ考えた。前回は、なんとなく格好をつけてブラックコーヒーを。大人なら、これくらい平気な顔で飲めるものだと思っていたのかもしれない。けれど、今日は違う。
「……ホットココア、あります?」
「ありますよ」
店主は、特に意外そうな顔もせずに答えた。
「じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」
店主がカウンターの内側へ下がった。
春菜はコートを脱ぎ、窓辺の席に腰掛けた。外を歩いている時は気にならなかった指先が、暖かな店内に入ってようやく冷えていたことを思い出したようだった。
やがて、目の前に湯気のたったマグカップが置かれた。甘い香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。両手でカップを覆う、じんわりとした温もりが指先に伝わってくる。春菜は、その温かさを噛み締め、そっとカップに口をつけた。
甘く温かいココアが、冷えていた体にゆっくり染み込んでいく。思わず、大きく息を吐いた。
カウンター端の男性は、いつの間にか新聞をたたみ、コーヒーを飲み終えていたようだ。店主と目が合うと、軽くカップを持ち上げて。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました。またどうぞ」
男性は春菜にも軽く会釈して、静かに店を出ていった。ドアベルが鳴り、外の冷たい空気がほんの一瞬だけ入り込む。
春菜は、もう一度カップに口をつけた。
「今日はコーヒーではないんですね」
カウンターの向こうから、店主が声をかけた。
「はい。前に飲んだとき、思ったより苦くて」
「そうでしたね」
「やっぱり、無理して大人っぽいものを頼む必要も無いかなって」
言ってから、春菜は少し照れくさくなった。自分でも、わざわざ口にする事ないのにって思ったからだ。けれど、店主は笑うでもなく、うなずいた。
「飲みたいものを飲むのが、一番ですよ」
「……そうですよね。だから今日は少し甘いものかなって気分でこれに」
春菜はカップの中をのぞいた。そんな当たり前のことを、改めて言われるとは思わなかった。
「この前は、もうすぐ卒業だし、ちょっと大人にならなきゃいけないのかな、なんて背伸びしちゃいました」
「もう卒業式のシーズンでしたね」
「はい。卒業式を過ぎれば、もう高校生じゃなくなるんですよねえ」
口にしてみると、思っていた以上に不思議な感じがした。卒業する事は、ずっと前からわかってるのに。進学先も決まっている。周りからは、もう大学生になるんだから、と言われることもあった。これまでは、まだ高校生だからと許されていたこともある。けれど、卒業式が近付くにつれて、周りの大人たちの言葉や接し方が、少しずつ変わってきたように思える。何かを期待されているような。もう子どもではないのだから、と言われているような。
でも、自分の中身は、昨日までとそんなに変わっていない。大学生になるのは楽しみ。新しい生活、新しい出会い、期待してる事が待っているに違い無い。それなのに、時折、不安になる。
店主は、少し考えるようにしてからこう言った。
「制服を着なくなったら、急に大人になるわけでもないでしょうしね」
「……ですよね」
春菜は思わず笑った。
「なんだか、ちょっと安心しました」
「それはよかった」
店主はそう言うと、またカウンターの内側へ戻っていった。
会話はそこで途切れた。店主はそれ以上、何かを尋ねることもなかった。けれど、不思議と気まずさはなかった。春菜は、手のひらに包まれたカップがまだ温かいことを確かめながら、ゆっくりとココアを飲んだ。
大人になるというのは、どういうことなのだろう。そんなことを考えながら、カップの縁を指でなぞる。答えは出なかった。それでも、今はそれでいいかなって気がした。気が付くと、カップの中身はあと少し。最後のひと口を飲み干すと、春菜はカップをそっとソーサーに戻した。
「ごちそうさまでした」
「はい。ありがとうございました」
春菜はコートを着て、鞄を手に取った。
店内は暖かかったけれど、扉の向こうには、まだ冬の寒気が。でも、体の芯は温まった。会計を済ませて、扉に手をかける。
振り向きざま春菜は、
「マスター、、また来ますね」
口にしてから、春菜は少しだけ驚いた。
前回は、また来てもいいかと尋ねた。
今回は、そうすることが、もう当たり前のように口から出ていた。店主は、いつもの落ち着いた調子で答えた。
「いつでも気軽にいらして下さい。店が開いていればですが」
「はい」
春菜は笑って、店を出た。ドアベルが、小さく鳴った。
商店街は、夕方の賑わい。八百屋さん魚屋さん惣菜屋さん、地元のスーパー、色んなお店では買い物客で賑わってた。駅へ向かって歩く学生たちは心無しか急ぎ気味。
もうすぐ高校を卒業する。大学生になれば、今までとは違う毎日が始まる。周りから向けられる言葉も、少しずつ変わっていくのかもしれない。そんなこと考えると、やっぱり不安はあった。けれど、今はそれを無理に追い払おうとは思わない。明日になれば、またいつもの学校生活がある。
そして、少し寄り道をしたくなったら、この店に来よう。
春菜は背筋を伸ばし、いつもの帰り道を駅へ向かって歩き出した。
春は、もうすぐ。もうすぐだ。
本作品を読んで下さった読者様へ。ありがとうございます。本作「名前の無い喫茶店」女子高生編は、完結まで短い間隔でお出ししようと思います。大きな事件のない喫茶店の日常ですが、楽しんでラストまでお読み頂ければ幸いです。




