第9話『ベータ熱』
なぜ。
その言葉が心の中で反芻される。
実験中の安全対策は万全だったはずだ。ラブロマンスエキスを散布したときは部屋の中を完全に密閉していたし、エキスに触れるときもそうだ。私がベータ化する経路はないはずだ。
仮説ばかりが頭の中を巡るが、答えは出ない。
「博士、私がなんで、どうしてベータ化したんですか」
「原因はいくつか考えられるわ」
「それはいったい」
「その前に確認なのだけど、実験中にあなた自身の体温の上昇は感じたかしら」
「自覚はありませんでしたが、体温は上昇していたと思います」
「それはいつ?」
「たぶんですけど、一日目の夜からです」
「ちょうど、順次さん……いえ、高松と牧野が発熱した頃と同じタイミングね」
「偶然ではないですよね」
「ええ。ベータ化のタイミングには個人差はあれど、発熱する。動物実験では分からなかったことね。この状態をベータ熱と呼ぶことにしましょうか」
「でも、どうして」
「おそらく、高松と牧野が発熱したときに身体から強く発せられたフェロモン。それが原因よ」
直接の接触ではない。おそらく、空調設備にまぎれた微量のフェロモンが私の身体を作り変えたというのか。原液を投与したことで、二人から通常より強いフェロモンが発せられていた可能性もある。
「もしかしたら、牧野はあの時点ですでにアルファへの分化を始めていた?」
「ご明察。そのとおりよ。見て、これがあのときのデータよ」
博士は私にタブレットを渡してきた。そこには、牧野の身体に起こった変化の詳細が記されていた。
ベータ熱発生時のフェロモンがベータ化を誘発するのか。あるいは、アルファのフェロモンそのものにその特性があるのか。まだ分からない。
タブレットを操作する指が止まる。
画面には、私の名前と並んで「β化」の文字が表示されていた。検査日は三日前。仮説でも推測でもない。私は三日も眠っていて、その間に事実だけが先に確定していた。
「つまり、これからは私自身の身体で詳細なデータを取れますね」
「ふふ、さすが沙知さん。落ち込まないのね」
「ショックな気持ちはありますけど、時期が早まっただけです」
本当のところ、身体の実感は何もない。認知が変わった感覚もない。三日前の私と今の私の区別が、自分ではつかない。データだけが変わったと言っている。
進むしかないのだから、私は笑顔を作るしかない。
「あの、博士の身体は大丈夫なのですか」
私は博士の顔を見る。さっきから落ち着いている。まるで、この質問を待っていたようだった。
「もちろん、私もベータ化しているわ。さすがに第二性の獲得は研究の妨げになるから、抑制剤を打っているけどね」
私がベータ化した時点で、一緒に行動していた博士もそうだろうとは予測していたが、事実を知ることは辛い。それでも博士は私と同じで前を見ていたことが嬉しかった。
「そうだったんですね……抑制剤、効いたんですね」
「彼らが三日間、証明し続けてくれたわ。おそらく、一ヶ月くらいは効果が続くはずよ」
「ほかのベータ化したスタッフにも抑制剤が必要ですね」
「そうね。適当な理由をつけて打たせるように通達するわ」
「あはは、いつもどおりですね」
「あと、このことは、まだあなたにしか伝えてないの。だから黙っておいてね」
「分かりました」
博士は足を組み替えて、目つきが鋭くなる。たぎるような熱が湧いている。
「ベータ化の原因究明にとりかかりましょう」
私は簡単な検査を受けたあと、抑制剤を打ち、フェロモンがβ化を誘発するという仮説を証明するための調査に乗り出した。
すでに博士は、この研究棟で働くすべてのスタッフに対して、β化の有無を検査していた。研究用のタブレットには、その結果に加えて、実験期間中の入室記録と健康記録がまとめられている。
記録を突き合わせると、β化が確認されたスタッフの半数以上が、この三日間に白い部屋付近へ立ち入っていた。発熱が最も多く記録されたのは、実験二日目だった。高松と牧野の変化が始まった時期とも一致していた。
やはり、白い部屋から漏れ出したフェロモンが原因なのだろうか。
「変ですね」
記録を追っていた指が止まる。
この三日間にβ化したと考えられるスタッフの中に、実験期間中、一度も白い部屋付近へ立ち入っていない者がいた。それも一人ではない。彼らが勤務していたのは、隣の研究棟だった。
そこでは、アルファやオメガとなった動物たちの長期的な経過観察が行われている。スティーブと名づけられたラットが妊娠したのもその棟だ。
白い部屋へ近づいていないのなら、高松と牧野のフェロモンを浴びる機会はなかったはずだ。それでも、彼らは同じ三日間にβ化している。




